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第二次世界大戦で日本では民間人含めて300万人以上の犠牲者が出たらしいですが、その責任は誰にあると思いますか?

A 回答 (18件中1~10件)

戦争を始めた責任 なのか


犠牲者を300万人に膨れ上がらせた責任 なのか どっちでしょうか
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時代の流れです。


その流れは強硬派、開戦派の朝日新聞が作りました。
この流れに逆らえば天皇は暗殺されるような強い力でした

強硬派、開戦派の朝日新聞
https://ironna.jp/article/2709
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地理的要因 島国


ハワイみたいな
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昭和当時の政府でしょう。


日本は日露戦争では英国の都合で軍資金を渡されて、英国にロシアの脅威が少なくなった所で、英国は資金を引き上げ、戦った日本に一定の領土をロシアから得る事を認めた。

その時日本の政府が英国の都合だから日本の国力とは関係なかったと説明していれば、軍部もマスコミも市民も日本の国力を正確に把握できたはずです。

英国による日露戦争の勝利を政治的プロパガンダに用いた挙げ句、自分自身がプロパガンダを信じ込んで、無謀な軍事行動に出たわけです。

昭和初期に天皇機関説という、立憲王政の考え方が国会に出たのですが、その時には全てが手遅れで、逆に天皇は神であり、法には何の拘束力も無く、帝国臣民は法ではなく天皇に従うということになってしまいました。

法を蔑ろにする国家に国際社会でまともに外交ができるわけがありません。

従って第二次世界大戦はインドと清に続き、日本を効率的に支配しようとした英国に資金と武器の援助を受けて、明治維新と言われる内戦に勝利した帝国政府が、諸藩に君臨する為に英国の色を消して、権威として天皇を担いだ、という所まで遡って一つの文脈で考える必要があると考えます。
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言うまでもなく一部のほんの一握りの戦争指導者達です。


彼等によって日本人は赤紙一枚で軍隊に召集されました。
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コミンテルン=スターリンとルーズベルトのアホ。


誰が得した?
コミンテルンでしょ?
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No8です。

やれやれ・・・
混同している方がいるようですが、
張作霖爆殺事件(1928年)と満州事変(1931年)は別の事件です。

この事件の真相については様々な説があり、真実は未だ解明されていません。
その中には、当時協力関係になった日本と張作霖を分離する為のソ連の謀略という説もあります。

【張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C …



当時の支那大陸は、多数の軍閥が割拠する無法地帯でした。
馬賊や盗賊上がりの彼らは国際政治に無知で、外国との条約を守る気もありませんでした。
そして、それぞれが支那の正当な政権を主張し離合集散を繰り返していました。

彼らは日露戦争で認められた日本の満州への権益を狙ってテロや略奪を行っていました。
実際、当時の満州では、鉄道をめぐる事件が頻発しており、数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件が起きています。
(1933年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件起きています)

↑のような有様なので、張作霖爆殺事件もそのうちの一つと考えられており、当時は大きな国際問題になっていません。
(何故か現在では、日本の侵略の始まりとして大きく扱われているようです)


日本は彼らに対して、話し合いによる穏便な解決を目指しましたが、結果として侮られる事となり大陸各地で↓のような日本人や外国人への排斥運動や虐殺が多発しました。

これらの日本の対応を侵略と批判するお方にとっては、彼らの「他国の権益」を侵害する行為は国際法上は侵略ではないのでしょうか。


【イギリス租界奪取事件】(1927年1月)
条約によって認められていたイギリス租界が支那軍によって武力接収された事件。
この暴動は日本人居留街にも及び、領事館に避難した居留民も被害を受けました。
これに続いて翌日6日に九江のイギリス租界も支那側に接収されました。


【南京事件】(1927年3月)
蒋介石の北伐軍に入り込んでいた共産党員が日・英・米の領事館や学校、企業、住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行なった事件。


【漢口事件】(1927年)
漢口で日本の租界が襲われ暴民が掠奪を行なった。
日本人居留民2000人は上海に退避した。


これらの事件に対して、英米は日本に「鎮圧の協力」を求めましたが、日本政府は「支那を刺激したくない」として拒否しました。
しかし、これのような態度は彼らにとって弱腰と映り侮られる原因になり、増長した支那兵は日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行ないました。
この結果、揚子江流域の日本人は財産を放棄して内地に引き揚げざるを得なくなりました。


【間島暴動】(1930年)
ソ連の支援を受た満州と朝鮮人の反日・共産主義諸団体が交通機関や発電所と日本の領事館や親日朝鮮人の家を襲った事件。
この後も日本人や親日朝鮮人への攻撃が続いた為、現地では日本軍の武力行使を要望する請願が出されました。
しかし、日本の対応が消極的な為に大陸での反日・侮日は激化していきました。



1931年の満州事変は、このような支那の排日侮日政策から日本の権益や日本人を守る為に起こしたものです。
現地の居留民を守るために軍隊が出動する事は、当時の国際社会では認められています。





満洲事変自体は塘沽(たんくう)停戦協定で解決した事になっています。
しかし、その後も日本人への襲撃事件は起こり続け、日支の関係は再び悪化していきました。


【盧溝橋事件】(1937年)
盧溝橋付近に駐屯していた日本軍に支那の共産分子が銃撃を行ない、両者の衝突に発展した事件。
この事件に対して、日本政府は閣議で不拡大、現地解決の方針を確認し、決定していた内地からの三個師団派遣も凍結させる等、慎重に対応しました。
そして、7月11日には、現地停戦協定が結ばれています。

このような日本の対応に反して、蒋介石は日本への徹底抗戦を呼びかけ、各地で襲撃事件が多発しました。


【通州事件】(1937年)
冀東政府の保安隊千数百人が日本守備隊と日本人居留民を襲撃して虐殺した事件。

「通州事件の目撃者による口述書の一部引用」
守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。
某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。
旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。
夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、
鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた。


この事件に日本の世論は沸騰し、支那への感情は非常に悪化しました。
日本が満州から大陸に進出したのは、このような状況によるもので、来る敵に対応するだけでは自体は変わらないので、解決には国民党の根拠地を叩く必要があると判断したからです。



このような質問は、この時期に嫌になるほど出てきますが、
そこで負けるとわかって戦った事の愚かさを非難する方は、その方は当時の日本やハルノートへの言及を故意に避ける傾向があるようですね。
その様な方は、ウイグルやチベットの人達にも同じことを言えるのでしょうか。

それから、引用する時は、記事名とURLは出してほしいものですね。
(「支那事変」のWikiには、総力戦研究所や近衛氏や東条氏の記事などはありませんでしたが)

戦陣訓の「虜囚」とは囚人(犯罪者)のことです。(捕虜は「俘虜」という言葉を使います)
→「軍旗違反や犯罪をして処罰されるような不名誉な事になるな」という意味です。
「捕虜になるくらいなら死ね」とは言っていない・


彼らは自分の国が嫌いなのでしょうか。
それとも他に祖国がある方なのでしょうか。
「第二次世界大戦で300万人以上の日本人が」の回答画像12
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誰がはじめたかとか無差別爆撃をしたのはだれかとかいうのにはいろんな見方がありますが、「犠牲者数」という数で考えるのであれば、310万人のうち戦死者数は230万人、うち餓死者(おそらく病死含む)は140万人とされており、犠牲者の中で餓死者が最も多いのです。


 であるならばもっとも責任が大きいのは戦略を誤った軍部の指導者でしょう。
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戦争前にいいだけ国民を煽った当時のマスゴミ。



いいだけ国民が煽られ、今の韓国の反日感情と同じ基地外の様になり、国民感情を抑えられなくなり、戦争に至ったと思っているが。

マスゴミは山本五十六の講話による戦争終結を非難していたからね、鬼畜米英が白旗を揚げるまで戦えとマスゴミは煽っていたからね。
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一番の責任は、戦争をはじめた軍部でしょう。



アメリカやイギリスが経済封鎖をはじめたのが戦争の原因という人もいます。
しかし、どうして経済封鎖がはじまったのか、それは満州事変と日華事変ですよね。
満州事変は当時、満州を実質的に支配していた張作霖が爆殺されたことです。
これを口実に、邦人の保護、日本の権益をまもるということで関東軍が満州を一挙に制圧しました。

日本ではなんといっていたのか、共産ゲリラによるテロだといっていたんですよ。
ところが、実際には政府に連絡なしに関東軍が勝手に始めたんです。

満州事変
hhttps://www.google.com/search?client=firefox-b-d …

関東軍はそれにあきたらずにさらに中華民国と戦争状態にはいります。

支那事変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3 …

米英をはじめとする列強たちは日本が中国から手をひくように経済低圧力をかけたのです。
もちろん、列強達自身も中国の権益を守ろうとするねらいもあるでしょう。
しかし、「自国」ではなく「他国の領土」で戦争するというのは国際法上は侵略です。

ところが当時の陸軍大臣だった東条英機はどうしたか。
以下、ウィキから引用です。

「1941年(昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。

10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。 」(以上引用)

アメリカと闘ってもまけるという研究報告がでていたにもかかわらず、それを無視して開戦につきすすんだのです。
しかも、昭和17年6月のミッドウェー海戦で日本の連合艦隊が大打撃をうけ、昭和18年には勝てる見込みは全くなくなっていたのです。停戦の交渉をまともに行うことなく、結果的には都市への絨毯爆撃、沖縄の悲惨な陸上戦、広島・長崎の原爆投下、ソ連の参戦、戦死者の多くは昭和19年から20年にかけてです。

私の父は南方で終戦をむかえましたが、食糧もないなかで凄惨な状態だったそうです。そして戦友会の名簿などによると、戦死者の8割は戦病死でした。200名中、わずかに20名しか生き残りませんでした。

その終戦を引き延ばし、兵士達には「生きて虜囚の辱めを受けず」(東条英機作成の「戦陣訓」)と玉砕することを命じ、都市居住者には「焼夷弾はたいしたことはない」と疎開をみとめなかった大本営の幹部達、彼らに一番の責任があるでしょう。

また、マスコミの責任もあります。多くのマスコミは政府の発表をたれながしをしました。戦争回避を訴えた新聞は、在郷軍人会からの攻撃やさらには広告をだしている企業への圧力などにより経営が危機に陥り戦争賛成に転向したのもあります。

マスコミの問題では、現在でも政府発表をそのまま大々的に発表したり、提灯持ちをしているとしか思えない記事もみられます。また週刊誌などでも、売らんがために排外主義的な刺激的な内容を掲載しているものもあります。また政府とちがうことをいうと、よってたかってネットで叩くという風潮もありますね。

私は現在の日本に、非常に危機意識をもっていますね。
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