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太平洋戦争は、真珠湾攻撃と日本の戦線布告で始まりました。
日本が講和を申し出ても、相手(アメリカ)もあることですし、拒否されれば、戦争は続きます。
日本は、開戦時に太平洋戦争をどのように終わらせようと考えていたのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B …
    1941年12月から 1945年8月までの間,アメリカ合衆国,イギリスを中心とする連合国と日本との間で戦われた戦争をさし,広義には第2次世界大戦に含まれる。太平洋戦争という呼称はアメリカにとって太平洋での戦いであったために名づけられたもので,戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。日本の敗戦後,連合国の占領を受けてからは日本でも太平洋戦争と呼ばれるようになった。

    太平洋戦争で問題なしです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/10 20:14

A 回答 (18件中1~10件)

勝つことしか考えていませんでしたが、1、2年はなんとかもつが、3年続けられるかどうかというのが、軍内でも出た予想です

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:09

潜水艦や島基地の陸上攻撃機によって米艦隊が移動してくるあいだにに戦力を低下させ、日本近海で戦力的に互角となってから主力艦隊同士での「艦隊決戦」に持ち込んで、最後には大和型戦艦など兵器の質的優位により勝利するというのが、対米戦の方針だった。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:09

まず、前提



〇ドイツが快進撃している。ドイツの工業力、技術力はすごい(ドイツしか見ていない)。
 →ドイツが負けるわけない。
 →バスに乗り遅れるな。

〇アメリカ国民は軟弱、それに比して我が国は大和魂がある。

〇アメリカに一撃かませば、軟弱なアメリカ国民の継戦の意志は低いから、講和に応じる「 だろう 」。

次に具体的戦略

アメリカに強烈な一発かまして、そのあとは石油等の資源確保、米豪遮断、印英遮断、あとは広い太平洋を国防圏として持久する。(石油が無いので、戦前は自給できなかった)
後はドイツが頑張ってくれるので、それまでに分け前を分捕っておこう。
適当なところで講和。

結果

他力本願と、見通しの甘さ、兵站、ダメコンの無知、科学技術の軽視、万事日本的浪花節的上層部。

後々、悔いを残すこと多々。
確かに、相手からダウンを奪った。相撲ならばこれで勝ち。だが・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:11

日本はそれまでの戦争で勝ってきており、日露戦争でもあの大きなロシアを負かせて世界をビックリさせたので、軍部は自信過剰になりすぎて負けるとは思っていなかったんでしょ。

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:11

当時の日本が思い描いていた将来像は、世界を『ソ連』、『ドイツ・イタリア』、『アメリカ・イギリス』、『日本』の四大勢力によって分割支配する、と言うものでした。

太平洋戦争は、「この四大勢力の分割ラインを決めるための戦い」と、多くの政治家は位置付けていたと思います。(天皇陛下もそういう説明を受けておられてました。)

ですから、もともとアメリカとも徹底的にやりあうつもりなどなく、第一次大戦の時のように、戦争の終結は欧州で決められるのだろうと思っていました。当時、ナチスドイツの欧州での戦闘活動はすさまじく、日本も早く動き出さないと、欧州で決着がついてしまって、あまりアジアでの権益を増やせられないのではないかと言う心配さえしてました。いわゆる「バスに乗り遅れるな」です。

そういう状況だったので、アメリカとどうやって戦争を終結させるのかなど、誰も考えていませんでした。そもそも、戦争の目的は欧州にとって代わってアジアを日本の勢力権に置くことであり、アメリカは別にどうでもよかったのです。欧州の戦争が終わったら、アメリカも手を引くだろうと言う程度の認識しかありませんでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:12

太平洋で戦争を有利に進め、ドイツ頼みでイギリスが降伏すれば、アメリカも講和に応じてくるのでは、


というかなり身勝手な理屈で進めたようです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:12

侍の武士道の境地だったと思いますよ、まだそんな気風がありましたからね。


だから日本軍は強かった、国力の割りにはですけどね。
それが怖くて日本に原爆を落とされましたが、その影響でアジアから独立がなされたのも多分考えていたと思います。
最後は耐え難きを耐え忍び難きを忍び全国民のために終戦です、そんな国です日本はね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:12

日本は追い込まれて座して死ぬよりはと決起したわけです。


戦線を拡大せず、専守防衛に徹して絶対防衛権を死守し、
アメリカが世論が傾の風向きが変わるまで粘るべきでした。

黒人奴隷の使役の問題など問題を抱えていたので、そういったところを突き
日本がなかなか落ちないとなれば有利な条件での講話もあったかもしれません。


最終戦争論
石原莞爾
https://www.aozora.gr.jp/cards/000230/files/1154 …

【終戦の日に読む英霊列伝】ミッドウェーの海で散った名将・山口多聞(2015年9月号より)
https://the-liberty.com/article.php?item_id=14765
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:13

真珠湾攻撃で、アメリカ海軍に大打撃。


アメリカ本土から日本を攻撃できないという海戦時の航空機性能から、アメリカ海軍の動きを制したまま、日本側有利に講和。むしが良すぎますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:13

はじめまして



>日本は、開戦時に太平洋戦争をどのように終わらせようと考えていたのでしょうか?

そこまで考えていなかったのでしょう。
緒戦に勝利をすればアメリカ国内で厭戦気分が高まり、アメリカから講和をもうしこんでくるだろうと思っていたようです。
それに当時の軍部の発言として「米英は民主主義国家であるから命を大事にする。だから戦意も低い」との発言もありました。
要は、自分の都合の良い楽観的な見込みしかもっていなかったということです。

ですから、戦争が膠着状態になり、それどころか昭和17年のミッドウェー海戦で連合艦隊が決定的な打撃を受けてしまうと、もうどうしようもないのですね。一刻も早く有利な条件で講和を結ばなければならなかったのに、終戦をする決断をずるずる引き延ばしました。日本軍や国民が多くの死者をだしたのは昭和19年以降です。このころにはもう勝てる見込みなどなかったのですが、ずるずる戦争を継続したために、多くの戦死者をだすことになったのです。

この主観的願望と客観的情勢を混同して考える、自分の都合の良いことしか考えない、
一度、はじめたことは、間違いであることがわかっても、なかなかやめようとしない
これは、今の日本社会でも引き継いでいるように思いますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/12 09:14

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