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明治維新の直後、政府部内で対朝鮮政策の議論が割れて、征韓論を主張した西郷隆盛らが破れて下野し、これが不平士族の反乱の背景になり、ついには西南戦争の導火線になりました。

ところで、当時は「朝鮮」であり「韓国」ではないので、「征朝論」と呼ぶのなら分かるのですが「征韓論」と呼ぶのはなぜですか。

A 回答 (4件)

古事記や、日本書紀に期されている内容から、古代日本は朝鮮半島に支配権を持っていたと国学者の認識があり、そのころの三韓(馬韓・弁韓・辰韓)すなわち百済・新羅を征伐した神功皇后になぞらえ、正式な国号朝鮮をあえて使用しなかった模様。

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この回答へのお礼

神功皇后の「三韓征伐」になぞらえて「征韓論」と呼んだのですね。それなら分かります。

お礼日時:2019/08/13 20:41

他の回答者からウィキに記述されている征韓論の由来を紹介していますが、全くのでっちあげです。

これは、ウィキで調べた年代をもとに証明できます。

新羅、百済、高句麗の成立年は、それぞれ紀元前57年、紀元前18年、紀元前37年となっていますが、神功皇后の在位年は201年から269年となっています。
神功皇后が在位していた時代に、新羅、百済、高句麗という国が存在していました。この人が生きていた時代に三韓という言葉を知っている日本人は誰もいなかったはずです。
また、三韓と言っている馬韓、辰韓、弁韓の位置は朝鮮半島南部ではなく朝鮮半島南端と言った方が誤解を生まないと思います。

有名な西郷隆盛の征韓論は、岩倉具視と大久保利通によってでっちあげられていますが、それについては、私の過去の回答や質問の内容を見てください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2019/08/13 20:42

以下が、YAHOO!知恵袋での同じ質問に対するBAです。



『日本書紀』に記された神功(じんぐう)皇后による三韓征伐の影響でしょう。
古代朝鮮では辰韓(しんかん,後の新羅),馬韓(ばかん,後の百済),弁韓(べんかん,後の任那など)の三つの韓国があり,最終的には676年に新羅に統一され,935年には高麗,1392年に朝鮮となるわけですが,日本ではその後も朝鮮のことを韓国(からくに)と呼ぶ場合もありました。
明治になって朝鮮との交渉が難航する中で,朝鮮はけしからん,征伐しようという意見が生まれました。この時に『日本書紀』の三韓征伐を引き合いに出し,征韓論という言葉が使われるようになったのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2019/08/13 20:42

カラの国とも呼んでいたから

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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2019/08/13 20:42

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