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この両者の意義の違いについて、一緒に考えていただくことで、多少なりともの進展を目指したいと思います。
そのたたき台として、今回は、三浦つとむ著「日本語はどういう言語か」の189ページ~『<助詞>「が」と「は」の使い分け』を批判する形で持論を展開してみます。
みなさんからの忌憚のないご見解が得られるなら幸いです。
以下、引用部は《》で囲います。

(ア)
「からたちの花」
からたちの花[が]咲いたよ
白い白い花[が]咲いたよ
からたちのとげ[は]いたいよ
靑い靑い針のとげだよ
からたち[は]畑の垣根よ
いつもいつもとほる道だよ

三浦はこの童謡から引用し、次のように言います。
《「花が」は花についての個別的な扱い方ですが、「とげは」になると、からたちの認識がさらに大きく広がるだけでなく、花ととげとのちがいを、針の持っている性質や色の特殊性を扱っています。
さらに「からたちは」になると、からたちの認識はヨリ以上に大きく広くなり、四季を通じて「いつもいつも」変ることのない普遍的なありかたを扱っているのです。
そして、ここから、「は」には特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方があるという、重要な事実を読みとることができます。》

ここで純粋な疑問。
「からたちは」という文節は、四季を通じて「いつもいつも」変ることのない普遍的なありかたを扱っている。
とのことですが、「とげは」についても同様のことが言えるのではないか?
つまり、《ここから、「は」には特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方があるという、重要な事実を読みとること》はできないだろう、ということ。
ただし、《特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方がある》こと自体を否定するわけではない。
(以下私見)
そもそも、「は」の意義は「主題提示」とすれば良いだけ。
「主題宣言」あるいは「限定」と表現しても構わないでしょうが、主題として提示するということはすなわち主題であると宣言することであり、また提示したり宣言する対象として限定しているわけだから、どう言っても意義は変わらない。
いずれにせよ、特殊性を扱いたいのか普遍性を扱いたいのかというのは、その時々の話者の判断に帰しめればよいのであって、「は」自体の意義と結びつけてしまうと(「が」との相違に関して)誤謬が発生するのではないか?

(イ)
上記(ア)の箇所に先立ち、三浦は次のようにも述べている。
《つまり「人が死ぬ。」というのは、「人は死ぬ」にくらべて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。
こういう使いかたの経験から、「が」を小さなせまい部分に「は」を大きくひろい部分に使って組み合せるという使いかたが、自覚することなしに身についていきます。》

ここでは、「が」は《小さなせまい部分を扱った認識》だから個別的であると言っているわけですが、
しかし、(ア)の
・からたちの花[が]咲いたよ
・からたちのとげ[は]いたいよ
において「狭い・広い」という概念は適用できないのだから、同様のことは言えないのではないか?
(以下私見)
「が」は、「主体、または可能・希望・好悪・巧拙などの対象を表わす」と捉えれば良いだけのことではないか。(新明解語釈参照)
ただし、この語釈における「表わす」には、
限定する、または特定するという意味を持つ場合(いわゆる「総記」)と、単純に指定するという意味の場合(いわゆる「中立叙述」)がある。

(ウ)
上記(ア)(イ)での検証により、
・「が」は個別的な認識を表わす。
・「は」は特殊性や普遍性を表わす。
という三浦見解は、「が」と「は」の違いについて妥当なものとは思われません。
間違っているというよりも、(差異を解説するには)意味のない見解だと思います。

みなさんはどう思われますか?

質問者からの補足コメント

  • #2お礼欄から

    >>「表わす」には、限定する、または特定するという意味を持つ場合
    ⇒そんな意義は、辞書にも書かれていません。

    辞書に書かれてないから間違いというのは浅はか。
    「が」の総記と中立叙述用法ぐらいご存知でしょう?

    (ウ)
    >「概念(3)――個別概念(普遍概念・特殊概念)」

    については以前拝見しました。
    しかし、niwa 氏との質疑で、個別概念と特殊概念を対比して論じておられたのが不思議に感じましたね。
    「普遍概念・特殊概念」は「は」に関するものであり、「個別概念」が「が」である、とおっしゃっていたように思うのですが、『個別概念(普遍概念・特殊概念)』という図式との関連性がよくわかりませんでした。「は」と「が」の差異を論じたことになりますかね?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/14 23:15
  • 質問文に引用の抜け落ちがありましたので、お詫びかたがた下記のように訂正させていただきます。

    上記(ア)の箇所に先立ち、三浦は次のようにも述べている。
    《つまり「人が死ぬ。」というのは、「人は死ぬ」にくらべて小さなせまい部分を扱った認識で、この個別的で具体的な認識が「人は死ぬ」という大きな広い部分を扱った認識に、普遍的で抽象的な認識にふくまれることで、認識が立体的に発展していくわけです。
    こういう使いかたの経験から、「が」を小さなせまい部分に「は」を大きくひろい部分に使って組み合せるという使いかたが、自覚することなしに身についていきます。》

      補足日時:2019/08/14 23:18
  • 訂正です。

    ×
    「語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部である規範としての語彙です。」
    と言い直しても構いませんか?


    「語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部としての語彙です。」
    と言い直しても構いませんか?

    No.15の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/18 14:26

A 回答 (20件中1~10件)

#16 のお礼に対する補足



>>「雨、赤い、が、は、に、へ」などが規則・基準だという点が、もうひとつよくわかりません。

語は、内容と形式の統一として存在しています。

つまり、概念と感性的な形(音や線描)との結び付きです。

この、内容と形式を結び付けているのが規範です。

つまり、「が」「は」「に」「へ」という形に結びついている概念を明らかにしなければならないということです。

この辺の、基本的な認識を明確にして回答、質問して下さい。

そうでないと、現状のような混迷に陥るしかありません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>つまり、「が」「は」「に」「へ」という形に結びついている概念を明らかにしなければならないということです。

それはわかりますが、今の疑問はそこじゃないんですよ。

『「が」「は」「に」「へ」という形に結びついている概念』とおっしゃいますが、
『「が」「は」「に」「へ」』は何なんですか?
「語」じゃないんですか?

この辺の、基本的な定義を明確にして回答、投稿して下さい。

お礼日時:2019/08/20 21:27

#18のお礼コメントについて



>>『ラングが社会的な側面に立つのに対して、パロールは個人的な側面に立つが、必ずしもこの概念は対立しているわけではなく、むしろ相互依存的な形を取っている。』

これは以前から指摘している通り、相互依存的な形ではなく、パロールは話者の個人的な認識の【表現】であり、それを媒介するのが規範としてのラングで、不可知な対象を認識できる訳がなく、この過程的、媒介の構造を捉えられない根本的な誤りということです。

>>前提が間違っている

どのような前提が間違っていると言われるのでしょうか。

>>この箇所についてブログで詳しく触れておられるようなら、その箇所を教えていただければ有難い。

当方のブログでは有りませんが、下記を参照下さい。

ソシュール「言語学」とは何か(6)
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-99.h …
の、「『一般言語学講義』小林英夫訳・岩波書店、p.157~158」

良く知られた、波の絵による説明で、

心理的にいうと,われわれの思想は,語によるその表現を無視するときは,無定形の不分明なかたまりにすぎない.記号の助けがなくては,われわれは二つの観念を明瞭に,いつもおなじに区別できそうもないことは,哲学者も言語学者もつねに一致して認めてきた.思想は,それだけ取ってみると,星雲のようなものであって,そのなかでは必然的に区切られているものは一つもない.予定観念などというものはなく,言語が現われないうちは,なに一つ分明なものはない./

と述べているように、ラングが「思想と音との仲を取り持つ」事実を合理的に説明できていません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2019/08/21 16:30

適切な質問をありがとうございます。



>>間違いでしょうか、それとも正しいですか?

根本的な誤りであると以前から指摘している通りです。

まず、wikiの誤り。
ソシュールはランガージュ(仏: le langage)と記しており、言語活動と訳されるのが正しい表現です。
行為とするのは、アメリカのサールらの言語行為論の用語です。

ソシュールがラングとパロールという異なる側面を言語に見出した功績は重要ですが、言語はパロールであり、ラングとは規範ですが、この規範であるラングを言語自体と捉えたところに根本的な誤りがあります。ソシュールには規範自体が何であるかが理解できていません。

それは、彼がカントの不可知論哲学に依拠しているためで、不可知なものの表現であるパロールの理論を本質的に展開できないという論理的な帰結です。当然、概念論を展開できず、意味論を展開できないことになります。

これが、現在の言語論のパラダイムの限界です。

これらは、唯物弁証法による反映論に基づく認識論を展開しないと解明できないことを三浦つとむが明らかにし、認識と言語の理論を展開しています。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>言語はパロールであり、ラングとは規範ですが、この規範であるラングを言語自体と捉えたところに根本的な誤りがあります。

ここが、ソシュール批判の原点になっているのですね。
しかし、ソシュールは、
『ラングが社会的な側面に立つのに対して、パロールは個人的な側面に立つが、必ずしもこの概念は対立しているわけではなく、むしろ相互依存的な形を取っている。』
とも言っているようですが、この点についてはどうでしょうか?
なぜ、こうした質問をするかというと、つまり、『ラングを言語自体と捉えた』という誤解を前提にして、
※ソシュールには規範自体が何であるかが理解できていません。
それは、彼がカントの不可知論哲学に依拠しているためで、不可知なものの表現であるパロールの理論を本質的に展開できないという論理的な帰結です。当然、概念論を展開できず、意味論を展開できないことになります。※

といった結論が導かれているように感じられてしまうからなのです。
上記※でおっしゃっている内容自体は理解できるのですが、その内容を結論として導いた前提が間違っているのではないか、ということ。
そのため、『論理的な帰結』と認識することが難しく、紋切り型の一方的な決めつけとしか受け止められないわけです。
この箇所についてブログで詳しく触れておられるようなら、その箇所を教えていただければ有難い。

お礼日時:2019/08/20 16:43

>>言語学者ソシュールの用語で、ある社会の共有財産として用いられ、その成員の言語活動の規則・体系とされていることば。

(明鏡)
と捉えると間違いですかね?

これはラングの定義で、正しい表現です。ただ、ソシュールはこれが規範であることが理解できずに、これを言語としている点に根本的な誤りがあります。

規範とは社会的な約束です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これはラングの定義で、正しい表現です。

『ラング=その成員の言語活動の規則・体系とされていることば』ということですね。
この場合「ことば」は「(言語活動を支える)道具」と捉えて構いませんよね。

(以下『』はウィキ引用)
アスナロウさんは、
『ソシュールは、言語学の研究はラングを対象とすべきであるとした。』という点に対して批判なさっているのですね。

ただ、ウィキ記述は、
『ソシュールによれば、パロールとは、個人がラングの規則と条件に従ってその意志を表現するために行う具体的な発話行為である。また、ラングが社会的な側面に立つのに対して、パロールは個人的な側面に立つが、必ずしもこの概念は対立しているわけではなく、むしろ相互依存的な形を取っている。』
とも続けています。

つまり、ソシュールも、『ラングが社会的な側面(←おそらく規範と捉えてよいのでしょう)に立つ』と言っているようですし、ラングとパロールは相互依存的である、と言っているのだと思いますが、この点に関してはどう思われますか?
間違いでしょうか、それとも正しいですか?

お礼日時:2019/08/19 16:25

早速の応答を有難うございます。



>>「語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部である規範としての語彙です。」

少し当方の誤記もあり、

「語は音韻、字韻、文法、文章法などの規範(ラング)の一部である規範としての語彙です。」
で、語彙は語の集まりですが、その範囲は色々ありますね。

語はラングであることが明確になれば良いかと考えます。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

辞書が見出しとして取り上げている「雨、赤い、が、は、に、へ」などは「語(ラング)」である。

ということですね?
しかし、これが【規範】である、という点がどうもよくわかりません。

・ 言語学者ソシュールの用語で、ある社会の共有財産として用いられ、その成員の言語活動の規則・体系とされていることば。(明鏡)

と捉えると間違いですかね?

お礼日時:2019/08/18 21:39

>>言語道具説を唱えるソシュールの立場に立つ場合、この【】内の文における「語」の立ち位置(関係性)はどうなるでしょうか。



ソシュールには規範の概念がないため、語は記号であり、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものと捉え、これが直接言語である、パロールに変化すると捉えるしかありません。

そもそも文とは何かを明らかにしていないため、金田一春彦など時枝批判を展開した人々は、ラングとしての文や、パロールとしての文などと奇妙な理解をしています。

大岩正仲「文の定義」
https://db3.ninjal.ac.jp/SJL/getpdf.php?number=0 …
参照■
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

URL 時間があればゆっくり拝見したいのですが、拾い読みしたところでは、筆者は、

・本を入れれば本棚であるが、何も入ってなければみかん箱はみかん箱であるにすぎない。
・「犬」一語がそこにあるだけなら、それは「語」であるにすぎない。

といったようなことを言ってますね。

・語=「雨、赤い、が、は、に、へ」
ということのようです。

アスナロウさんも、
>「雨、赤い、が、は、に、へ」などが語で、

とおっしゃってます。

『語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部である語彙規範です。』
を、
「語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部である規範としての語彙です。」
と言い直しても構いませんか?

お礼日時:2019/08/18 13:01

適切な質問をありがとうございます。



>>言語・語・ラング・パロール、この4つの語に関して、アスナロウさんの定義による関係性を具体的に例を挙げて教えていただけると有難いのですが。

言語(=パロール)は話者の認識の表現で、話者の個別の概念認識が言語規範(ラング)を媒介として感性的な形に表現されたものです。

語は音韻、字韻、文法、文法などの規範(ラング)の一部である語彙規範です。

「雨、赤い、が、は、に、へ」などが語で、「雨!」は一語文であり、「雨が降る。」などが文でパロールということになります。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

言語=パロール=「雨が降る。」
語=語彙規範(ラングの一部)=「雨、赤い、が、は、に、へ」

ですか。
「規範」は規則・基準といった意味だと思うのですが、「雨、赤い、が、は、に、へ」などが規則・基準だという点が、もうひとつよくわかりません。

少し切り口を替えてお尋ねします。
【ソシュールは、言語(language ランガージ)には、ラング(langue)とパロール(parole)という二つの側面があると考えた。】(ウィキ)
という記述があります。
言語道具説を唱えるソシュールの立場に立つ場合、この【】内の文における「語」の立ち位置(関係性)はどうなるでしょうか。

お礼日時:2019/08/17 22:01

適切な質問をありがとうございます。



>>この文の主語を教えていただけますか?

「語道具説」です。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(「語道具説」は、)道具ではなく、上記規範に基づく概念と形式の統一の体系、つまり記号体系です。

とおっしゃった、ということですか?
「語道具説」は道具ではない、という意味がよくわからないのですが、ひょっとして主語は「語」だということでしょうか?
どうも理解が悪くて申し訳ありません。

言語・語・ラング・パロール、この4つの語に関して、アスナロウさんの定義による関係性を具体的に例を挙げて教えていただけると有難いのですが。
色々な解釈があるようですが、論議する上ではアスナロウさんの定義に合わせておく必要があると思いますので。

お礼日時:2019/08/17 17:44

早速の応答をありがとうございます。



>>「言語(=ラング)」⇒人間が音声または文字を用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系。(広辞苑)
ということでよろしいですか。

先に指摘した通り誤りです。
記号体系とは、規範の体系であり、言語ではありません。言語はラングではなくパロールです。

>>「は」は言語じゃない、ということですかね。

正しくその通りです。当然、「に」「へ」も言語ではなく、それを言語として捉え解釈しているところに、根本的な誤りがあるということです。

>>「言語道具説」は間違いだが、「語道具説」なら正しい、ということになりますか?

道具ではなく、上記規範に基づく概念と形式の統一の体系、つまり記号体系です。
語、文法は媒介として機能します。
道具は、機能を実体化して捉えた誤りです。■
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ご回答ありがとうございます。

>道具ではなく、上記規範に基づく概念と形式の統一の体系、つまり記号体系です。

省略されていると思いますが、この文の主語を教えていただけますか?

お礼日時:2019/08/17 14:25

早速の応答をありがとうございます。



>>『概念認識自体』が個々に異なっていても、『規範を媒介とし、表現』される言語は同一の語である、

毎回指摘していますが、まず用語がチャランポランです。
同一の【語】と【言語】を混同しています。
語、文、文章という言語表現の基本単位の相違と関連が全く理解されていません。

語は規範であり、辞書に記されるもので、『概念認識自体』が個々に異なっていれば、それに対応する言語の意味は個々に異なります。規範と言語の媒介関係が理解できていません。

言語は表現されなければ存在しないのは、子供にも理解できる事実です。

辞書に言語があるという誤った発想が言語道具説で、その誤りに基づき、語と、言語である文、文章をごた混ぜにし論じています。

>>社会的な規範(約束事)として【当面】定められたものが言語なのですから、規範なしに言語は成立しないでしょう。

規範は言語ではないと再三指摘しているのに、何を寝ぼけたことを云われているのでしょうか。

これまでにも再三再四注意してきたように、まず中学校レベルの文法用語を正しく理解し、それとの相違を意識し論じないと、思い付きの用語や論理を展開するだけで、論理的な一貫性がありません。■
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

1.
>毎回指摘していますが、まず用語がチャランポランです。

そういう傾向は若干あるかもしれませんね。
特に否定はしません。

2.
>同一の【語】と【言語】を混同しています。

そうですか、勉強になります。

「言語(=ラング)」⇒人間が音声または文字を用いて事態(思想・感情・意志など)を伝達するために用いる記号体系。(広辞苑)

ということでよろしいですか。

3.
>語は規範であり、辞書に記されるもので、『概念認識自体』が個々に異なっていれば、それに対応する言語の意味は個々に異なります。

たとえば「は」が係助詞になったり副助詞になったりするということですね?
しかし、「は」という「語」を使うのは確かでしょう・・・。
そうか、「は」は言語じゃない、ということですかね。
ひょっとして、
「言語道具説」は間違いだが、「語道具説」なら正しい、ということになりますか?

お礼日時:2019/08/16 17:06

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