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桶狭間の戦いで今川軍の2万人とも4万5000人とも言われていますが、どっちらの方が多く言われていますか?

A 回答 (3件)

2万というのが定説になっています

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桶狭間の戦いの、信長側が谷を駆け降りて奇襲をかけた~ってのは、どこかで聞いたような話だと思ったことがありませんか? 実は源平合戦の一ノ谷の戦い、鵯越の逆落としの話、そのままなんですよね。

つまり、全くの捏造ですw ちなみに鵯越の逆落としの話も実は捏造です(崖の下沿いに来たのを、崖を降りてきたと勘違いした噂話を、これ幸いと放置したものです)。
今川義元が籠に乗ったまま逃げまどったというのもウソで、馬に乗って戦い織田方の武将の一人を返り討ちにしていたりします。

今川が雨で足止めされた時、陣取ったのは見晴らしの良い丘の上であったものの、前後に伸びた兵が豪雨の奇襲に集まる前に大将を落とされ、総崩れとなって被害が拡大し、広い範囲が後の”桶狭間の戦い”跡となったのだろう、というのがざっと調べた私の見解です。
元々織田方の地であり、信長に土地勘もあったのかもしれませんね。
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当時の動員可能数から見れば4万5千は多すぎます。


たとえそのくらいの総兵力を持っていたとしても、それをすべて持っていくわけにはいきません。
治安の維持、武田や北条への備え、そういうものに1万5千~2万は置いていかないといけません。
いくら同盟を結んでいたとはいえ、当時の同盟は隙あらばあっという間に破棄される、とても脆弱なものでした。

現代に伝わる歴史は、江戸時代や明治大正の講釈や歌舞伎つまり大衆向けのエンターティメントがかなり入り込んでいます。
講釈師は話を大きくするために脚色し数を膨らまします。
そしてそれが常識として定着してしまいまます。

桶狭間にしても、現在伝わる「信長の奇襲」は史実としてかなり怪しいとされています。
何しろ鷲津砦、丸根砦という、まぎれもない前哨戦が行われているのです。
織田軍が近くにいるという状況下、あのような無防備を晒すはずがありません。

実は奇襲のくだりは江戸時代の講釈「信長記」で述べられるものであり、これは今でいう歴史小説です。
歴史的資料として用いられる「信長公記」にはそのようなくだりは出てきません。

義元本陣の位置も明らかでありません。
実際現地に行くと、「桶狭間戦跡」は2か所あります。
そういう中で「義元は見通しの悪い谷間に陣を置き」などということが分かるはずがありません。
人数についても同様です。

それらを証明する資料はまだまだ不足しており、いまだ真相は闇の中です。
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