痔になりやすい生活習慣とは?

今日、ふと思いました。

ここ、哲学カテでの質疑・応答で、意見がかみ合う場合とかみ合わない場合のある事の原因は、スタンスが同じであるか、違っているかに依ると。

また、質問者も回答者も、そのスタンスを知っている必要がある、とも。

議論は、スタンスの共有に依ってこそ成り立つのではないでしょうか?

よろしくお願いいたします。

A 回答 (13件中1~10件)

★ (№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(あ) ブラジュロンヌさんの最初の回答では、スタンスを意見の相違と
して捉えている様に思いました。

(い) この場合は同じリングに上がって議論するわけですから、意見が
違っていても噛み合っていると云えるわけですから、議論としては成り立
っていると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ (い)が その通りなのだと思います。

対話を重ねて議論が出尽くしたと互いに思ったところで なお意見が違っ
ていたときには 《見解の相違》として ひとまづ休みます。

議論が堂々めぐりに成っているから 休みましょう。――という意味です
が それは《意見が食い違っていることに どちらも合意した》という意
味です。
(英語では 《 agree to disagree 》というと思います)。

民主的な――ひとつの理想的な――対話のかたちです。





★ スタンス
☆ は 《立ち場》という意味だと思いました。すなわち 《基本的な意
見》といったところでしょうか。

《土俵やリング》という意味で用いるなら 確かに議論が成り立ちにくく
なると思います。議論をたたかわせるときのルールも違って来ることがあ
ると思われるからです。



そして やはり要は 《かみ合わせる中身があるかどうか》が 問われる
のだと言えるのではないでしょうか?

外野から口出ししたときでも その内容がひとつの正論であるならば 対
話の中に入って来ますから。


つまり:
◆ 「回答するぞ!」と「議論するぞ!」の違い
☆ には関係ありません。そうではなく 中身いかんです。






■ このカテの質問という体の言いっぱなしの暴論
☆ これは 《暴論》というのは これこれこういう理由からだと説明し
ていれば 質疑応答のための中身のある投稿であるとなります。

そうでなければ 言いっぱなしのアラシ投稿でしょう。



■ そもそも質問者が最初から自分の回答をもっているなら質問する意味
はない
☆ 哲学や学問を冒涜する発言でしょう。

じんるいの知性の水準を互いに高めようと努めた結果を 互いに出し合っ
て 互いに自由に批判し合いもう一段の高みに――いっしょに――進もう
というのが まなぶという姿勢です。

そしてまた あたらしい高みにある議論(理論や仮説)が提出されたなら
ひとつに 自由に寄ってたかって批判しあい(検証しあい) もうひとつ
に 大方の同意が得られたときには その理論内容をいろんな角度からさ
らに具体的に展開しつつ あまねく普及するための説明合戦になることさ 
えも 一般に起こることです。



あーあ:
■☆ 「ぼくちゃんこんなに難しいこと言って頭いいでしょ?」
    • good
    • 1
この回答へのお礼

哲学者、ソクラテスを思いだしてしまいました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/22 23:23

言うなれば



質問者が
ピッチャーで
回答者が
バッター
なのか?

質問者が
ピッチャーで
回答者が
キャッチャーなのか?


みたいな話でしょうか?
    • good
    • 3
この回答へのお礼

そうではなくて、野球のルールの話をしているのに、ラグビーのルールを想定して議論に持ち込んでいる、と云ったような事なんです。  

かみ合わないのは、お互いがそのことに気付いていない、のではないかと思ったのです。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/26 22:43

ここはトランザクションログです。


いやネゴシエーションログか(笑)
「意見にはスタンスがある!」の回答画像11
    • good
    • 1
この回答へのお礼

このところ、ちょくちょく見かけるので、イメージが変わりました。

今は、流れ星。

ようこそ!d_y_nさん。
メインなゲストとして、歓迎します。

ここは井戸端会議所ですね。
私にとって、学びの広場です。

有り難うございました。

☆ 人は何かしらを求めて、さまよっているのでしょう。

お礼日時:2019/08/22 23:14

哲学カテはある程度しかたないかなとはあきらめてますが


このカテの質問という体の言いっぱなしの暴論は
哲学はわかりにくく言ってなんぼという気概を感じますからね。
中二病の巣窟的な世間から隔絶された逃げ場なんでしょう。

そもそも質問者が最初から自分の回答をもっているなら
質問する意味はないし、自分なりの回答がないなら議論は発生しません。
結局は質問者が「ぼくちゃんこんなに難しいこと言って頭いいでしょ?」って
承認欲求を満たしたいだけのはけ口なのでしょう。

議論うんぬんについては
哲学カテではどうかわかりませんが、教えてgooの板はすぐ
ブロックされますのでこの質問板では議論にはなりにくいですね
(議論する掲示板でもないし)
    • good
    • 4
この回答へのお礼

ここ、哲学カテで、なにがしかのことを学ぼうとしたならば、“あきらめ”は必要不可欠でしょうね。

愚痴、もよくありますし。

人生相談もあります。

何でもありが、いいところ
長く住めば、分かります
好悪、善悪、美醜など
好み、で意見が分かれるし

そんなとこから、人間が
なんであるかが
みえてくるのでは
ないでしょうか

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/22 22:39

★ (№6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


同じ土俵に上がって立場の違いから見解を述べ合うのなら、それは議論
はかみ合うはずですし、だからお互いに理解を深めることも可能でしょ
う。

でもこの質問でのスタンスの意味は土俵が違う、という事でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ そう察することが出来ていたらよかった。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

スタンスという言葉が不適当でしたかね?

ブラジュロンヌさんの最初の回答では、スタンスを意見の相違として捉えている様に思いました。
この場合は同じリングに上がって議論するわけですから、意見が違っていても噛み合っていると云えるわけですから、議論としては成り立っていると思います。

頭悪いから、思いがまとまりません。

よかったらもう少し考えて見てくれませんか?
有り難うございました。

お礼日時:2019/08/22 16:30

No2です。

補足に近い回答ですが思いついたことを追記します

ここでのスタンスの違いとは明確に有りますよ
それは「回答するぞ!」と「議論するぞ!」の違いです
質問に回答するとは一方通行な情報伝達です
疑問に問いかけをして回答が返ってきてそれを基に再度問いかけをする
これは議論、対話です

この2つを明確に線引きせず個々が状況毎で使い分けてるから
話がかみ合わない状況が起こるのですよ
哲学とは本来、対話的なモノだと思ってる私には違和感有りまくりでっせ
そもそも、一方通行な情報が欲しいだけなら
偉大な先人の書物読んで自分で考察した方が余程有意義だと思いますがね

現状の使い方では哲学と質問サイトに融和性和無いのですよ
「○○を哲学的にはどう考えますか?」って質問して
「○○という先人はこう考えて私はこう考えるよ」って回答がつく
これが(私の価値観では)Bestな気がしますが
ココ見てたら何でもかんでも哲学で問いかけ
哲学なのか個人の人生哲学なのか良く解らん回答が付く、、、

もう一度言いますが「哲学」と「質問サイト」には融和性が無いのですよ
「人生哲学」にカテゴリ変えた方が良いんとちゃうの?
ってなもんですわ
    • good
    • 3
この回答へのお礼

成る程。
質問者と云う立場と回答者としての立場がありますね。
気が付きませんでした。確かにスタンスと云う言葉に当たります。

やっぱり安易に、スタンスと云う言葉を使ったのが、いけなかったのかも。

ただ、質問者と回答者と云うスタンスがハッキリしていても、質問の内容に関しての視点を、両者が議論の噛み合う所に置いているか?と云う疑問から、今回の質問となったという事を理解して欲しいです。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/22 16:15

議論する時はそれなりの場でします


ここではしたくないだけです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

多分、“それなりの場”はスタンスは共有しやすいから、なのでしょうね。

例えば政治学カテなら、ある程度の政治的なスタンスとしては共通していると思いますが、ここ哲学カテは“何でもあり”だから。

こんな風に受け止めてみました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/21 21:23

ちょっと違うと思うんですがねぇ。




スタンスが同じだと――むしろ―― もう話すことはないですよ。
見解を同じくしますと述べるだけになります。


スタンスが違うから 互いに見解をぶつけ合って お互いそれまでより
一段高い内容のあたらしい見解に行き着くようになります。

お互いにです。つまり 弁証法過程ですね。



あとは はっきり申せば 《かみ合わせる中身があるか無いか》の問題
だと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうすると、スタンスと云う表現が適当でなかったのかも知れません。

同じ土俵に上がって立場の違いから見解を述べ合うのなら、それは議論はかみ合うはずですし、だからお互いに理解を深めることも可能でしょう。

でもこの質問でのスタンスの意味は土俵が違う、という事でした。

六面体のサイコロの一の目の面に立つ“立ち位置”と六の目の面に立つ“立ち位置”では見ている物は違う、だから会話は成り立たない、と思ったのです。

ブラジュロンヌさんの質問に付いた回答をみて、こんなことを考えました。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/21 21:48

正直、質問しづらいですね

    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうですか。

議論は好きじゃないのですね。

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/21 20:23

そもそも議論する場所じゃないと思います

    • good
    • 1
この回答へのお礼

本来はそうであったのだと、思います。
でも、利用のされ方がそのようにはならなかった、のでしょう。

議論、が多いですね。

今は、本来あるべき姿は“建前”として存在しているのだと思います。

ここ哲学カテでの質疑応答を、楽しんでいますか?

有り難うございました。

お礼日時:2019/08/21 19:45

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング