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1. ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について それは成り立たないことを例証し
ます。さらなるよい問い求めが出来たらと思います。

2. 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)
とのあいだに《自然で論理的な絆が ないのではなく ある》ということを例証し 恣意性が
支配しているとは見られないことを明らかにします。


3. 次の語例すなわち:

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ  

といった三つの語における子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとして
の意義素があるという仮説を提出します。


4. すなわち まづ語義としての類似性は こうです。:

  《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。

そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・
消滅する というシニフィエ(意義)となっている。

5. と見て さっそく仮説を推し出します。

   音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる
   音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある

すなわち  いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V
は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。


6. すなわち  / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを
表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行
する》という意義を示そうとしていると仮説します。

7. どうでしょう?  / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指
し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して
欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。
/ gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。



8. すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)
が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。

9.  / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意
味を帯びて 共通であるという例です。



10. ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子
音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互い
に差があることによってのみその音韻が / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語とし
て成ったに過ぎないと言っています。恣意的に成り立っていると。

11. ぎゃくに言いかえると このささやかな例証では  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・
和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・
和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説であり 批判です。




12. 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》
の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。

13. けれどもここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニ
フィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共
通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


14. さらに語例を伸ばしましょう。
 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義
素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではな
く いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見ら
れても仕方がない語例ではあります。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む    (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む    (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う     (障害の消滅を希求)

つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 
母音が交替していますね。であっても  / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語
義には 類似性が見られます。
 

☆ 実証例も少ないかも知れないのですが むしろこれだけの資料で 日本語とは何か?
いったいどういう言語なのか? について考えていただき そこから出発して行こうというこ
んたんです。そういう取っ掛かりの質問です。

ご見解をどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • ▲ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性) ~~~~~~~

    第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出さ
    れるものである。

    つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間には いささかも自然
    的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって 

    具体的には chien なる概念が  / (シアン という発音記号) / という音のイメージで表現
    されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。

     ☆ シニフィアン = 音を示すもの(音素 または 形態素) ≒ y
       シニフィエ = 語の意味 ≒ x
       chien  =(仏語) 犬

    (『ソシュールの思想』 1981 p.144 )
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      補足日時:2019/09/06 10:26
  • ▲ 〔注記〕 ~~~~~~~~~
    三浦がその著書で「認識」と表現している語は、単に対象認識(認識内容)を意味して
    いるだけでなくその中に「対象認識を作り出している意識主体の意識」をも含んだもの
    である。

    つまり三浦は「精神・意識」のことを「認識」と呼んでいる。したがって、以下の引用文
    中で「認識」とあるもののうち明らかに対象認識を指しているもの以外は「意識」と読み
    換える必要がある。
    ~~~~~~~
    ☆ 《意識》と説明するだけでは 足りない。《判断〔という意志行為〕》のことを言わ
    なくちゃダメ。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/09/06 11:08

A 回答 (12件中1~10件)

>☆ 読みゃあ わかるだろうが。



だから言ってるじゃない!

無節操、無自覚なご都合主義の好き勝手、言い放題。

ご回答をありがとうございます。
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この回答へのお礼

★ (№11) ~~~~~~~~~
(あ)  >カントは 要らんってんぢゃん。

そうですか。

では、どんな論理に従っていますか。

(い) ご都合主義の好き勝手な、言い放題。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ (あ)の時点では 分からなかった。ところが すぐさま(い)である
とさとった。

――ってわけなわけだ。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/09 21:48

>カントは 要らんってんぢゃん。



そうですか。
では、どんな論理に従っていますか。

ご都合主義の好き勝手な、言い放題。
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この回答へのお礼

★ では、どんな論理に従っていますか。
☆ 読みゃあ わかるだろうが。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/09 20:16

>価値自由に・科学的に―



ほう!
認識、判断なしに【科学的】に、とは、どうしたらできるのですかね~。

不可知論であれば、主観的に自由勝手ではありますが。

ヘーゲルのカント批判に答えられますか。■
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この回答へのお礼

カントは 要らんってんぢゃん。


あとは すっぽ抜け。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/09 13:31

>判断という――認識とは別の――行為



行為
こうい
act; conduct
人格的有意的な働き。目的と動機が明らかで,手段その他についての思慮,選択を経て決意された【自覚的な活動】。

だよね。目的と動機を認識と、判断なしに明かにできるの。
判断という――行為
これは、単に現象、機能の言い替えでしょう。
画面に入力するのも行為だし。

何か味噌も糞も一緒だね。
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この回答へのお礼

★ 目的と動機を認識と、判断なしに明かにできるの。
☆ 《目的と動機》は 主観につきものであり 意志の専属事項です。

理性(知解力)による認識は 目的や動機その他の主観から自由に――価値
自由に・科学的に――おこないます。いわゆる客観です。事実認識という判
断にとって前提となる作業です。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/09 09:36

>なるたけ価値自由な(いわゆる客観に近づけるような)認識とその事実認識にもとづきほかの認識と合わせてどういう全体としての認識ができてそこから何を欲し何をおこなおうとするかの知解とです。



あれれ?
カント以降の「物自体は不可知だ」とする考えも不可知論である。
不可知論は本質的な存在については認識不可能だとする。

じゃないの?■
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この回答へのお礼

とんちんかん博士がくわわったドクトル・トフボーフ。

あさっての話ぢゃなく・・・。

カントは 何の意味もありません。哲学史上 無意味です。



ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/09 09:22

>精神の――自己運動の一環であって 人間が個々のわたしなる存在として起こす


思惟や行動とは 別である。

能動的な認識の展開、発展ということで、人間が個々のわたしなる存在として起こす思惟や行動と同じですよね。■
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この回答へのお礼

違います。

ご回答をありがとうございます。



思惟や行動は 認識にもとづき起こすことですが その《にもとづき》と
いう段階(または過程)で 判断という――認識とは別の――行為があり
ます。



認識は 理性のしわざです。知解とも言います。判断は 意志によるもの
です。


認識は 細かく言えば 事実の認識と そこにみづからの価値観を容れみ
づからの欲するところをもまじえた全体としての認識 これらふたつをふ
くみます。

すなわち なるたけ価値自由な(いわゆる客観に近づけるような)認識と
その事実認識にもとづきほかの認識と合わせてどういう全体としての認識
ができてそこから何を欲し何をおこなおうとするかの知解とです。



全体としての認識ないし知解は もっと言えばすでに――価値観をまじえ
ているからには――じつは 意志がはたらいています。そして意志は た
だし そこに口を出すのではなく 理性(この場合 知解力)にすべてを
ゆだねます。誘導はしないという意味です。


ということは 理性は 言わば独自に いろんな可能性を考え出します。
特には問題解決の方法や答えとして いくつかの最終案を提出します。



つまり その解決案の中から 通常はひとつ実際に行動するものを 意
志がえらぶ。

そして そのとき意志は ふつうに見てこれこれがいちばん合理性を満
たす案だという場合でも それを採らずに 次善の策をえらぶ場合さえ
あります。いわゆる高度に政治的な――特に相手との人間関係をおもん
じる必要のあるときなどその種の考慮を容れた――判断ということにな
ります。

(最善の策がよいのか 次善のものでもよいのか。この選択としての判
断については どちらをえらぼうとも あとは 自然史過程の成り行き
にゆだねられます。

個人としての人間は そうゆだねざるを得ないでしょう。歴史の全体に
ついて ひとりの個人があたかも責任があるという見方は ふつう採り
ません。

ぎゃくに言うと それでも 最高責任者がひとり どうしても責任を取
るというのも――それは 言わばシルシとしてなのですが―― ふつう
のことでしょう)。





よって 理性による認識と そこからどういう思惟と行動を欲し実行す
るかの意思判断とは あきらかに別のものです。

責任を取るのは ふつう 判断者です。

お礼日時:2019/09/09 00:49

>思惟や行動とは 別である。



当たり前田のクラッカーですね。

めちゃくちゃ博士。
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この回答へのお礼

中身のある自己表現が 出来んのかいな。




ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2019/09/07 13:50

>《判断〔という意志行為〕》のことを言わなくちゃダメ。



概念以外に概念を統一する作用があるのではなく、概念そのものの発展によって統一が行われるのであり、「概念の自己自身による規定作用」を「判断作用とよぶ」(ヘーゲル『大論理学』概念論)のであり、判断は概念相互の能動的な構造づけです。

意志とは能動的な認識の在り方で、行為とは手段その他についての思慮,選択を経て決意された自覚的な活動です。

味噌も糞も一緒にすれば良いというものではありません。■
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


いちいち関係しなければよかった。ドクトル・トフ・ボーフさん。


そのヘーゲルが言っているのは 概念があたかも自己運動を起こして みづから
を完成させるというような過程でのこと。

そこでの《判断作用》とは あたかも概念の――あるいは 分かりやすく言えば
精神の――自己運動の一環であって 人間が個々のわたしなる存在として起こす
思惟や行動とは 別である。



めちゃくちゃ博士。

お礼日時:2019/09/07 13:37

早速の応答を有難うございます。



>つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間には いささかも自然
的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって 

これは先に当方が指摘した内容ですね。
ただ、一旦規範化すれば、恣意的ではありえずに強制されると指摘した通りです。

>☆ 旧説です。

新説を提示してちょ!

>なんと日本語では 音素――おもに子音を言っていますが――が 意義を持つのです。

これは、江戸時代の言語言霊説の再来ですね。
これが新説かい?
お化けが出そうな!
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

幽霊です。

19.
形態素( nV ):環境自然に同定(また そこから別の語を派生)
_____________________________________________
na   な(地):な(土地)-ら(親愛称)=奈良〔cf. 野‐良〕
    な(地)-か(処)=中
    な-れ(馴れ・慣れ・狎れ)〔な(地)が 横に延びていてデコボコがなく衝突がないさま〕
    なら(均)-す 〔地のごとく平坦にする〕
    なら(習・倣)-ふ 〔慣れること。平らになり ぎこちなさが取れていく〕
    な(寝)-す〔ぬ・ねる(寝)の尊敬語〕
    
nä   ね(根;嶺)〔み-ね のミは 霊>御〕
    ね(寝<ぬ・ねる)〔《横になる・臥す》。いね(眠・寝)つまり 眠りはイと言った〕

ni   に(土;丹=赤土)

ne    

nö    

nu   ぬ・ぬ-ま(沼)
    ぬ(塗)-る 〔表面になすりつける〕

no ( < nu-a ) の(野)

お礼日時:2019/09/06 15:43

日本語とは何かについて、三浦つとむ『認識と言語の理論 第二部』 p.458 を引用しておきます。


詳しくは、
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-entry-366. …
を参照下さい。

外国の言語学者は新カント主義であっても大きな顔をして言語論をやってのけ、語法・文法についての見解もほとんど一致しているのに、日本の言語学者の語法・文法についての見解は各人・各説といっていいくらいくいちがっているのは、右のような事情にもとづくものである。日本語の理論的な分析は形式論や機能論ではやっていけないにもかかわらず、認識構造について理解しようとする努力が欠けているからである。

英語が屈折語とよばれるのに対して日本語は膠着語といわれ、現象的に語と語との切れ目が与えられていない。そこから日本語では、ある表現を一語と認めるか二語と認めるかについても、学者の間の見解が対立してくる。一語か二語かは、究極のところ内容から決定されるのであって、音声あるいは文字によって決定されるものではない。形式から決定している場合も、それが内容的に別であることのあらわれとして別な形式をとっているからにほかならない。

表現内容を形成する実体は話し手あるいは書き手の認識であるから、結局のところ認識における区別から一語か二語かを決定することになる(2)。しかも、この認識のありかたは歴史的に変化するものであって、かつては合成語として成立したものも現在では単なる一語に過ぎない場合がある。

その著しい例は外来語であって、「ワイシャツ」は原語としては二語であるが、日本語としては white を意識した合成語として成立し、間もなくこの意識も消滅して、洋服を着るときに下につける特殊なシャツという認識を表現するものになっている。それゆえ「色の着いたワイシャツ」と 表現しても、何ら不自然には感じない。黒板の筆記用具を「白墨」と名づけ、野菜を「唐辛子」と名づけたときも、はじめは「白」や「唐」を意識した合成語であったであろうが、やがてこの意識は消滅して、現在では一個の実体をとりあげて表現するものでしかない。それゆえ「赤い白墨をとってくれ」と表現しても何ら不自然には感じない。漢字で書くときに、いくらかひっかかるものを感じるくらいである。

これとは逆に、語の形態が変化する場合に、その中で変化しない部分をとらえて語幹とよび、変化の背後には必ずや認識の変化があるであろうと考えることも危険である。認識の変化がないにもかかわらず、音声の変化することは、音便(おんびん)といわれる現象からも明かであって、音便だけが発音の便宜によって臨時に音声の変化するものであり、その他の場合にはすべて認識の変化を伴っているだけだときめてしまうわけにはいかないのである。前の会話の例でいうならば、「だ」が「で」に変化したからといっても、そこに認識の変化は存在しないのである。/
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▲ 外国の言語学者は新カント主義であっても大きな顔をして言語論をやってのけ、
・・・日本語の理論的な分析は形式論や機能論ではやっていけないにもかかわらず、
認識構造について理解しようとする努力が欠けているからである。
☆ ただの前置き・効能書き・予告編であり そしてレッテル貼りである。
 

▲ 英語が屈折語とよばれるのに対して日本語は膠着語といわれ
☆ 旧説です。そして 鵜呑みにしてはなりません。


▲ 表現内容を形成する実体は話し手あるいは書き手の認識である
☆ 認識は 価値観を抜きにした事実認識を指すことがあるので そのほかに話し手
の判断ということをも言う必要がありましょう。

▲ しかも、この認識のありかたは歴史的に変化するものであって、かつては合成語
として成立したものも現在では単なる一語に過ぎない場合がある。
☆ そのあとに続く語例をまじえた議論をふくめて それがどうした? と言うべき
しろものである。

あなたの引用の仕方が よくないのかも知れない。



主題・論点は何だ? これを明確にしてちょ。

お礼日時:2019/09/06 10:46

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