この人頭いいなと思ったエピソード

いまカントの純粋理性批判について研究しているのですがこれを学ぶことで一体何が得られるのか、私にとって果たして重要な意味をもつものなのか、現代的意義はなんなのかなど、最近なんだかよくわからなくなってきました。批判をすることがなぜ必要なのかとまで思ってきてしまいました。同じように純粋理性批判に興味のある方にとってこれを学ぶ意味はなんなのか、どうして興味を持っているのか意見を伺いたいです。

A 回答 (3件)

 私たちは、金や社会的名声といった


 目に見える形で現れたものを評価しがちです。
 ところが、もしその目に見えるものだけが全てであるとしたならば、
 自分の「良心」に従うとか、
 「無償の愛」をそそぐ、
 などの、「たった今」「目の前の」事象においては
 損につながるような行為はすべて意味を持たないことに
 なります。
 カントの時代もそうで、その300年ぐらい前から
 ヨーロッパで勃興してきたルネッサンス以後の
 いわゆる「科学的精神」が、あまりにも行き過ぎてきて
 「目に見えるもの」だけを評価しがちになっていました。
 一方で、人間の認識能力のうち
 「目に見えるもの」を分析し、評価し、吟味するのが
 ここでいう「理性」です。目に見えて、経験したこと
 だけがすべて、という意味で経験主義と言い換えても
 いいでしょう。
 一言で言うと、カントはこの経験主義、理性偏重主義に
 警鐘をならしたものです。
 
 そうは言っても、「経験したことは正しい」とする
 いわゆる知識人の反論は有力に見えます。
 いったい、その反論をどうやって覆すことが
 できるのか?
 そこでカントは長い思索の末、そうした知識人でさえ、 理解できるような反論の根拠として「数学」に思い至るのです。
 たとえば「1+1」は「2」であることは
 だれにでも分かります。しかもそれは「私が経験した
 から正しい」のではなく、私たちすべてにとって
 「正しい」ことが証明の必要もなく分かります。
 ところでこうした「分かり方」は何かを「経験したから」得られたものではありません。もはや私たちすべてに
 「経験以前」に与えられているものです。
 これがカントの「ア・プリオリ」な知識です。
 
 では次にこれが現代の日本に住むわれわれに必要か
 どうか?
 簡単に言いますと、日本はヨーロッパに遅れること
 200年にして物質的な科学主義は発達しました。
 むしろそれが行きすぎると、「目の前主義」「拝金主義「物質主義」になっていきます。
 もしカントを大まじめに研究したい人がいたならば、
 カントは現代にとってそういう意味を持ちます。
 
 

 
 
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現在学部四年で哲学をやってるものです。

哲学史的意義や現代的意義は哲学史の本やカントの解説書におまかせするとして、ここでは偏見と或いは曲解もいりまじった私見のみ述べさせていただくこととします。

三批判書の中でとりわけ純粋理性批判は、我々の理性の取扱説明書として意義を有していると思います。主に我々の認識の生成過程の解明をしているわけですが、その過程を明らかにすることで初めて、理性をどのように使えば有意味な結果を生むことができるのか、を知ることができるようになるのだ、と。

役に立たない投稿となるのを覚悟しながら説明は省いて考えのみ述べますので、細かい部分はご自分で著作や解説書にあたってください(すみません)。

僕は、どちらかというとそういった認識の生成過程を扱う箇所よりは理性を扱う後半に魅力を感じています。我々の理性はどこまで手を伸ばせるのか、という意味で。適うことなら超越者までをその手の内に入れたいわけです。単に認識について知りたいだけだったら、分析論だけでそのあとはいらず、生理学で十分…となるのでしょうけれど、僕は、超越者の問題を扱いたいのでそれでは足りません。だから、カントが理性に関して述べる箇所にはとても魅力を感じます。まぁ、だいたいが、一番知りたいことを述べそうだぞ、という箇所で「ところで、」とかいって話をそらされてしまう寸止めの刑に処せられているのですが(笑)超越者なんて、下手に感情の思うがままに扱うと例えば僕が奇跡的に大惨事から生き延びた理由にされたりともすると祈れば助けれてくれる都合のいい存在、なんてことにもなりかねませんから、そのための理性批判なのだと思っています。まだ理性がなんなのか、確実には理解していませんけど、理性批判、結構よいと思いますよ。

僕自身は、超越者超越者いっているわりには、信仰を持つどころか、超越者の存在をふとしたことから感じることすらないです。でも、それではあまりに味気ないですし、少なくとも超越者の存在は不可能ではないわけですから、なんとか、どのような形かで触れることができればと思ってカントを読んでいます。カントが判断力批判でいうのとは少し違う形でですけれど、日差しの強い緑の綺麗な日には崇高の感情の向こうに、ふっと、そんなものがあってもよいのかもしれないという気になることもあります。

役に立たない長文失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。難解な言葉で語られるよりやさしく簡潔な答えでとても参考になりました。私も理性が一体なんなのかいまだにつかみきれていませんが、これからじっくり考えていきたいと思っています。

お礼日時:2004/12/21 20:10

>どうして興味を持っているのか意見を伺いたいです。



 私は理系なんですが、歴史にも興味があり
大学院で科学史という授業をとりました。
その授業で、パラダイムの転換という言葉の
提唱者である、科学史家トーマス・クーンの
存在を知りました。
 物理学の発展には何か不連続性がある、
一枚岩ではないと漠然と思っていたのですが、
それをクーンはパラダイムの転換という表現で、
科学的常識がひっくり返ってしまう瞬間がある
という説明をしていたので、非常に共感できる
ところがあり、そこから科学的思想の発展に
はまって行きました。

 今ではもう古い話ですが、オウム真理教の
テロ事件というのがありましたよね。今でも
あの事件について時々考えて、調べてみたり
することがあるんですが、あの事件の報道で
私が感じたのは、世間が宗教ばかりでなく、
科学に対しても大きな偏見、誤解をしている
ということでした。
 世間の論調は、実験や理論で研究を進める
ことを学んだ理系の人が宗教にはまるのは
おかしいというもののようでしたが、
科学の歴史、思想を学んだ私にとって
理系の人が宗教に深くはまってしまうのは
当然ことと感じられるのです。

 今の日本の教育では、自然哲学に数学を
持ち込んだ現代物理学から、哲学的思想を
排除し、技術的側面だけ高度に、専門別に
わけ、教育し、それぞれの研究につかせると
いう方法をとっているので、理系のかなり
レベルの高い人ですら認識することは
難しいはずですが、科学も宗教も
究極のところでは神の存在証明を
求めているということで共通しています。


>純粋理性批判に興味のある方

 宗教と科学の違いは何かと言えば、
宗教が「信仰」を基本としているのに対して、
哲学の一分野の発展である現代の科学は、
「理性」を基本としています。
 現代の科学の世界でも、何々の理論と
いった感じで、一時みんながある研究者の理論、
つまりはその教えを信じるという、信仰が
存在しているのですが、そこは理性を基本に
考えているので、間違っているという証拠が出てくれば
より信頼性の高い理論を受け入れるわけです。

 理性を基本とすることで、真実へ近づく
ための思想的柔軟性を手に入れることが
できると言っていいと思います。


 そこで、理系の私にはカントの批判が
非常に気になるところなんです。

 カントは、人間の知性は、感性を
大きく超えることはできないとし、これを
悟性と呼んでいるようですが、物理学の発展
について考えると、17~19世紀に
発展した古典力学(ニュートン力学、
熱力学、電磁気学・・・)の思想には
これが当てはまると思います。

 しかし、20世紀に入って発展した
量子力学では、16世紀のフランシス・
ベーコン流の実験科学の方法が極端に
応用されて、もはや人間の認識や感性と
一致しなくても、実験によって実証
される理論ならそれが正しいとする
極端は実証主義に走っています。

 ただこの段階では、人間の認識や
感性を超える結果が出ても、それを
実験結果と理論の一致ということで、
新しい人間の感性の一部として取り入れて
います。

 ところが、1960年代以降発展して
いるポスト現代物理学と呼ばれるいくつかの
理論は、人間の認識や感性を大きく超える
理論でも実験的証明を待たずして、数学的に
整って、矛盾がなければそれを仮に正しいと
してさらに理論を構築していっています。

 これがもし正しければ、現代物理学の
基礎となっている(ここ100年くらい
の間に発展してきている)現代数学は、
もはやカントの言う悟性ではなく、
ギリシャ哲学から言われている、
感性を超えることのできる人間の知性の
ではないかと思うのです。

 顕微鏡で物を観測するといった、科学的
観察ですら、物自体ではなく、そこから
の光の反射という、いわば現象を捉えて
いるだけで、最新の測定器でもその
基本は同じです。 
 いくら高度な機器を用意しようとも、
科学的観測では、現象を捉えているだけで、
物自体を把握していないという点で共通です。

 しかし、ポスト現代物理学と呼ばれる
理論の1つ、超弦理論は実験的には
証明されていないにも関わらず、
数学的に次々を発展していっている
んです。いきなり、物自体を数学と
いう道具で直接捕らえようとして
いるように思えます。

 フランシス・ベーコン流の実験的
証明という思想を教育の中で自然に
付けている専門家の中には、
ポスト現代物理学に拒否反応を
示す人さえいます。

 つまり実験で証明されていないものを
みんなで信じ続けるのは、単なる信仰で、
それは物理学の理論ではなく宗教だろう
ということです。

 ポスト現代物理学と呼ばれるいくつかの
理論が、信仰ではない理由は、人間の理性
から生まれた数学という知性の理論
を土台としているところなのですが、
これがカントの批判の範疇に含まれる
ものなのか? カントが全く予期して
いなかった事が起こっているのか?

 現代科学が間違った方向に走って
いかないためにも、カントの批判を
よりよく理解することが必要と
思い、興味を持っているところです。
 
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この回答へのお礼

理系の方の違う観点からものを見た意見は大変興味深く参考になりました。どうもありがとうございました(^-^)

お礼日時:2004/12/21 20:13

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