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一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への絶対批判

0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定していざるを得ない。

0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規
定することはできる。⇒7‐B。



1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定
も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。

2-1. 人間の言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに 言葉≒
《経験事象に基本として対応する概念》にもとづくことになるからには――思
考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。

2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 
実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決め
られないのである。⇒(#0)

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさ
い(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出
かけているから。

3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びになら
ざるを得ない。

3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個
人の内面にとどめなさい。





4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の
場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界でありそれについて経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明が間
      違っていたということもあり得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。不可変)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には
《非思考の庭》が成る。

6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてや
どる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。

【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心)
---------------------------------

【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観) 
【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ)


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロ
コスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよ
い。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・
ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。

8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。

8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍
神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人
知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。

9. これが 《一般絶対性》である。






10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰す
なわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに
説明する視点である。

11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっている
だけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひと
つであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じで
あるかが 人間には分からないからである。

11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自
由という内容につながっている。

12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならな
いはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 
一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。

12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とう
とばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとして
は 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出
る。


13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。



14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 
神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのお
の主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。

14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その
信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》というこ
とになる。

14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否
定も肯定も出来ない。

14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕
――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。

        *

15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての
自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観
にまで展開したのが 宗教のオシヘである。

16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した
《思想》である。

16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。

16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間
が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示され
た正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。

16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。

16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないと
かという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 
無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。



17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさま
る。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何
の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。


18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つ
まり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその
倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させ
たものが シュウキョウである。

18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの
関係に移して 寝かすことである。

18-2. シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶
対性理論)としてアウトである。

18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたは
ただの商売である。 

☆ いかに?

質問者からの補足コメント

  • №3お礼欄
    後半の議論を 字数制限もあって 端折りました。

    要は こうです。

    《われ 信ず。あるいは われ 他人(ひと)を出来る限りわれとほぼ
    同じように愛す。》というのは ひとつの出来事であり 現実です。

    《〈なんぢ 信ぜよ〉と説き 〈隣人を愛せ〉と説く》のは 別の問題
    です。

    両者は categorically different です。



    また不一になってしまったかもですが。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/10/02 13:29

A 回答 (16件中1~10件)

裏付け、エビデンスを意識するから、あいまい、共有しえないと言うだけで、けれど、他者の語りかけは、確実に、私には、あなたは違和感反感とおっしゃるかもしれませんが、影響してます、だからこそ、不動とならず、私の思考は動き、ます。

私はこれを、悪趣味かも知れませんが、むしろ楽しんでいますが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 裏付け、エビデンスを意識するから、あいまい、共有しえないと
言うだけで、
☆ だって 哲学カテですもん。


★ けれど、他者の語りかけは、確実に、私には、あなたは違和感反
感とおっしゃるかもしれませんが、影響してます、
☆ 相互主観性は 基本として 互いの――思想的な――影響をその
まま認めています。

私は 同感(見解の一致)も共感(その時その場での一致)もそして
反感(見解の相違)もがあると言ったまでです。


★ だからこそ、不動とならず、私の思考は動き、ます。
☆ 《わたし》の中に もうひとり批判的なわたしをもうけて対話を
成すという手もあります。


★ 私はこれを、悪趣味かも知れませんが、むしろ楽しんでいますが。
☆ まったく何も問題ありません。

お礼日時:2019/10/15 08:49

正直言うと、主観という概念を用いたくないです。

我々は常に他者とのネットワークで、関わっているだけで、誰かの働きかけが、共振共鳴する間柄にある、というのが、私の他者とのかかわり合いの実感です。主観客観の関係の概念は、他者との関わりの事実を正確に反映していないと考えます。学術上エビデンスにこだわるのは適切だと考えますが、信仰上、学問じゃないので、エビデンスは要らないと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 正直言うと、主観という概念を用いたくないです。
☆ そういう向きには 《相互主観性》といった視点があるようです。


★ 我々は常に他者とのネットワークで、関わっているだけで、
☆ これが その《 Intersubjektivitaet 》でしょう。


★ 誰かの働きかけが、共振共鳴する間柄にある、というのが、私の
他者とのかかわり合いの実感です。
☆ 違和感をおぼえ 反感をいだくことすらもあります。どちらもあ
ります。



★ 主観客観の関係の概念は、他者との関わりの事実を正確に反映し
ていないと考えます。
☆ 客観というのは 仮りに世界の事実をそのまま認識しえたならそ
の内容として 仮設したものでしょう。

じっさいには せいぜいが《共同主観》にとどまります。常識あるい
は学問の定説などです。




★ 学術上エビデンスにこだわるのは適切だと考えますが、信仰上、
学問じゃないので、エビデンスは要らないと考えます。
☆ それが 特殊絶対性です。それとして みとめあっているという
意味ですよ。

ただし 他者とのあいだで その特殊な神観を共有するということは
あり得ません。

文字表現を共同化することはあり得ますが 神についての中身を共有
することは――人知を超えたナゾなのですから―― あり得ません。

あり得るかあり得ないかが 分かりません。


特殊絶対性は 主観の内側で 完全に自由です。
外側では 表現の自由による保証を受けますがそれを除けば まった
くどこまでもあいまいな思想という姿だけがあるにとどまります。

お礼日時:2019/10/15 08:27

主観は閉ざされた領域=モナドでしょう。

けれど、主観の閉域を他者の語りかけ、働きかけによって破壊されるから、主観はこれまでの主観を越えるのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 主観は閉ざされた領域=モナドでしょう。
☆ 答えは 一般には ノーです。(のちに述べる交流へと開かれていま
す)。

イエスという答えになるのは 信仰の場合です。特殊絶対性としておのれ
の固有の神観ゆえにです。一般性があるかないかが 分からないからです。
(分かるか分からないかが分からない)。



★ けれど、主観の閉域を他者の語りかけ、働きかけによって破壊される
から、主観はこれまでの主観を越えるのではないでしょうか?
☆ 主観〔の思いや理論〕が破壊されるのは あたらしい思いや理論との
照らし合わせをつうじて 妥当性のより高いほうをえらぶ。という場合で
す。

理論や思想の交流は つねに開かれていておこなわれています。

その内容を 経験合理性に照らして より整合性のあるものへと推し進め
ていくのは ふつうに学習であり 細かい作業として学問です。

お礼日時:2019/10/15 08:16

近代思考で考えれば、あなたのおっしゃる通り、神=絶対を語る私=特殊は、蒙言人でしょうね。

けれど、古代の預言者は、絶対が特殊の預言者に語りかけています。つまり、望まずとも、神的体験を受けた形で、神からの語りを、語っています。これを、妄想と片付けることができますでしょうか?私自身、神秘体験してるので、エレミアなどを簡単に否定してませんよ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 近代思考で考えれば、
☆ ん? そうでない場合があるのですか?


★ あなたのおっしゃる通り、神=絶対を語る私=特殊は、蒙言人でしょう
ね。
☆ いや ちょっと概念がこんがらがっていると思います。

一般絶対性:神は 普遍神としてひとつである。ただ 人によって呼び名が
 違うだけだ。《有る神》も《無い神》も 同じ普遍神の捉え方・言い方の
 差のみ。

個別絶対性:神は 実際には或るわたしという一人の人間にとってのカカハ
 リとして現実である。《無条件で無根拠にて心に受け容れる=つまり 信
 じる》として現実だ。

特殊絶対性:《神とわれとのカカハリ=つまり信仰》が個別に成り立つだけ
 ではなく 《われ》の感覚や自己表現に違いが出る。これを 特殊性とす
 る。これは 本人の主観の中だけにおいて 実効性がある。

☆ つまり 特殊絶対性としての神観を 主観の外に出て他人に説くとすれ
ば 表現の自由にもとづきつつも 主観としての神観そのものが 一般絶対
性だと言うとき それは アウトである。




★ けれど、古代の預言者は、絶対が特殊の預言者に語りかけています。
☆ いいえ。人間たる預言者が――享けたヒラメキをでしょうが――自分の
あたまで考えた思想として表現しています。《啓示》と呼ぼうともです。


★ つまり、望まずとも、神的体験を受けた形で、神からの語りを、語って
います。
☆ というふうに 昔は見なされたのでしょう。

神が語ったのをあなたは聞いたのですか? 神と話を交わしたのですか?

モーセは そうしたと書いてありますが そう書いてあるだけです。

つまり シルシです。そして シルシが何がしかの現実性を垣間見させるこ
とはあり得るようです。



★ これを、妄想と片付けることができますでしょうか?
☆ 《まぼろし》と聖書でも言っているはずです。

あとは その思想を 神のシルシとして なお神についてどう表現するかで
しょう。


★ 私自身、神秘体験してるので、エレミアなどを簡単に否定してませんよ。
☆ 誰がエレミヤを否定したのですか? 

神秘体験が 特殊絶対性です。固有の神観を成します。ただしそれは 主観
の枠内でのみ絶対性(≒信仰)です。

お礼日時:2019/10/15 07:50

No.12=11=9です。

しゃおつーさんこんばんは。あなたのQ:《神は 人間がこしらえたものだ》といまだに言っている。-No.18https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11326326.htmlを要約します。
一神教は後ろ暗くもなく不健全でもない。それを日本は後ろ暗く不健全なものに変える。変えられたものはそれではなく、それを後ろ暗く不健全だと思い込ませる。
・一神教である、

・一神教でない、
 イスラームのテロ
 米国の原爆
 赤軍派のテロ
 仏教(オウム真理教)のテロ
一神教は好きで日本は嫌いだ。それは米国でも日本とは別様に変えられたものになっていて、変えられたものはそれではない。原爆もテロもそれのせいではない。

原爆はめっちゃ値が張るし近所でbombった大変さもテロと段違です。欧州人が再発見した新大陸に英国の人が行って自国を裏切って18世紀に興した米国のルーズベルト フランクリンさんはキリスト教徒です。ユダヤ教は原爆を持っています。メイヤさんはパレスチナ人なんていないと言いました。日本の伝統は一神教が後ろ暗く不健全だという偏見を持たせます。16世紀の織田さんに石山本願寺にしたのと同様に一神教を消させ20世紀の芥川さんはそれが作り変えられたと指摘しました。
 理性の目
はTibet密教の如来像の眉間の目です。
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No.11=9です。

しゃおつーさんこんばんは。No.10を要約します。日本はPalestinaを中心としてそこから遠く、宗教も空白です。だから一神教ではありません。
 豆腐のようにフレキシブル
に引っ掛かりがあって意味が気持ち悪いです。豆腐は思ったより形がかわっちゃって困る。フレキシブルは形がいい感じに変わってやったー。困るのと嬉しいのがぶつかって気持ち悪いです。でも気に入ってしまったのでこの言葉を何とかして豆腐のようにフレキシブルな機会を見つけて使いたいです。私のフレキシブル感が誤っているのでしょう。あなたのフレキシブル感を教えてもらえると嬉しいです。
浅はかな考えとして米国と日本の両者の社会と人々を浅薄と断じるのが意味が分からなかったです。米国と日本の両者の社会と人々がもんげー浅いということになるのかな。肩にちからが入った文章で気品に欠けます。
私の文章はわりとひダルダルになりましたけれども。
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呼びかけをいただいたようなので、浅はかな考えですが、普段から感じていることを書いてみます。



まず、世界の中心は、イスラエルであるということです。一神教世界では、他に中心はありません。普遍神の物語は、中東でしか紡げません。ですから、その意味では、日本もアメリカも、辺境です。世界の中心に住んでいる人たちは、実に頑固で、侵しがたいです。祖先の土地に戻るため、およそ二千年、苦労と努力を重ねてきた人々です。想像を絶する民族です。

でも、端っこに位置する日本やアメリカは、豆腐のようにフレキシブルです。気をみるに敏。現在では、見た目の良い人間とお金を稼ぐ人間が、ひどく尊敬されるような、そんな社会です。そして、流行に実に弱い。浅薄な社会は、浅薄な人々によってつくられています。

アメリカの大統領が二期、八年以上務められないのは、それ以上続けると、どんなに素晴らしい人間でも、中道とはかけ離れた政治が、国家に、修正不可能なダメージを与えるからなのでしょう。日本でも、良いと思って取り始めた政策が、十年経ってみると、国民の期待とはかけ離れた、残念な政策になってしまうことが良くあります。流動的なのです。”永遠”や”普遍”に最も遠い二つの国ではないですか。神は、果たして、そういう場所に現れるでしょうか。

特に、日本では、宗教及び一神教をたたき続けてきました。日本の近世の扉を開けた織田信長は、比叡山を焼き討ちして、日本から宗教の迷妄をきれいさっぱり取り除きました。徳川幕府も、島原の乱以降、厳しい態度で臨みました。それは、第二次世界大戦の終戦時まで続きます。日本人は、一般的に、一神教=罪という後ろ暗さを見つけます。仏教も、死者の供養のためになっています。日本人が宗教を聞かれた時”無宗教”と答えるのは、間違いではないのです。偉大な空白です。その空白が、外来の宗教を変えてしまうのです。

その空白から、普遍の神を呼んでも、多分、返答はないんじゃないか、と、思ってしまうのです。アメリカも同様です。ですから、モルモン教は、眉唾だろうと、考える次第です。

以上、単なる感想です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

第三者としてながらつづります。

★ まず、世界の中心は、イスラエルであるということです。一神教世界では、
他に中心はありません。
☆ ユダヤ民族にとって そこに落ち着くべき約束の地でしょうね。

★ 普遍神の物語は、中東でしか紡げません。
☆ 一民族にとって唯一神をいだくという場合 それでも ユダヤ・イスラエ
ルは ほかの民のほかの神を見止めていました。それで 拝一神教( monolat-
rism )と呼ばれます。

(他民族がどの神をあがめようが 知ったことではない。敵対するときには
そのヨソの民を聖絶までしますが)。




そのあとについては わたしのコメントするところではないように思います。

お礼日時:2019/10/09 14:23

しやおつーさんおはようございます。

あなたのNo.3は文章が読みやすくて良いです。大事にしてることなのでどーしても回答したくなっちゃった感じもします。下記のように締めくくってます。
 日本人は自分のうちに偉大さを
 発見するのが大好きなのに気が
 付きました。違いましょうか。
ひええ。日本人はとひと纏めにされてしまうとシンドイです…が否定できないです。
日本で最も有名なキリスト教徒はザビエルさんです。ザビエルさんは布教を頑張ってました。キリスト教の人って布教が大好きです。
自分のうちに偉大さを発見するのが大好きと合わさって、キリスト教の布教が大好きが採り入れられて、自己顕示と教義周知のため質問が繰り返し投稿されています。
芥川龍之介さんが儒教、仏教、キリスト教を作り変える力を指摘したことを知りませんでした。
以前に別の質問でQ:《信じる》とは 無条件で無根拠にてナゾの何ものかをわが心に受け容れることだhttps://oshiete.goo.ne.jp/qa/10715605.htmlのにNo.8で回答したことがありました。引用です。
 一神教マルクス主義シンクレテ
 ィズムの調子はどうですか?世
 界同時革命まで遠そうですね。
 布教お疲れ様です。
芥川龍之介『神神の微笑』(青空文庫)https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_1 …を読むかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自分のうちに偉大さを発見するのが大好きと合わさって、
☆ どういう《偉大さ》? 出来れば あなたの言葉で明らかにして
ください。そうでないと 話があいまいなままです。

★ キリスト教の布教が大好きが採り入れられて、
☆ キリスト教は 宗教としてダメだと言っています。

布教については 信仰とは何かを――おのれの主観から――伝えよう
とする側面(基礎理論です)と それとは別におのれの神観をオシヘ
として伝える宗教の側面とがあります。

★ 自己顕示と教義周知のため質問が繰り返し投稿されています。
☆ あなたも自己顕示のご投稿をお疲れ様です。

オシヘは 月を指さすその指です。《月》が――ただしそれは非知で
すが――重要だと言っています。

★ 芥川龍之介さんが儒教、仏教、キリスト教を作り変える力を指摘
したことを知りませんでした。
☆ 外来の宗教や思想が 現地の文化やナラハシによって変容をこう
むることは すでに指摘されていますし それはどこでも起こること
です。


わたしの仮説する理論が《変容をこうむっている》ことすら起きてい
ます。

以下はほんの一例です。:
★ 以前に別の質問で Q:《信じる》とは 無条件で無根拠にてナゾの
何ものかをわが心に受け容れることだにNo.8で回答したことがありま
した。引用です。
 一神教マルクス主義シンクレテ
 ィズムの調子はどうですか?世
 界同時革命まで遠そうですね。
 布教お疲れ様です。

お礼日時:2019/10/07 05:46

難しく考えないでください。


三次元の座標を示すのに、あなた方は3個の指示点を必要としますが、私達神は球体上の2箇所の指示点を四次元延長しているだけです。
ただ、あなた達テラノイドの皆様より効率良く処理しているだけで、基本理念は宇宙の法則に従った存在です。
神だからと言って特別視しないでください。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 難しく考えないでください。
☆ ん? または はい。


★ 三次元の座標を示すのに、あなた方は3個の指示点を必要とします
が、私達神は球体上の2箇所の指示点を四次元延長しているだけです。
ただ、あなた達テラノイドの皆様より効率良く処理しているだけで、基
本理念は宇宙の法則に従った存在です。
☆ 経験世界の中にいるって言ってるんですよね どちらも?


★ 神だからと言って特別視しないでください。
☆ 神の絶対とこの経験世界の相対性とは あいだに 絶対のへだたり
がありますよ。


いえ よく分かりませんでした。残念ながら。

お礼日時:2019/10/04 19:52

人間には限界があり、人間同士の関係には壁があります。

国境もそうですし、”内と外”ですね。自分の脳と外界です。

このカテゴリーでは、神は、しょせん人間が作り出した人間の創造物である、という議論をよく見ます。これは、私、日本教の最たるものだと思います。すべてを自分のフィルターで漉して、残ったものしか、あるいは、都合の良いものしか信じない、という、なかなか功利的なやり方なのです。だから、自分の損になることは、信じなくても良い。”脳の見せる幻覚”というアプローチになってしまう。人間の想像力の限界、あるいは無意識の意識でしょう。そして、その殻は、非常に硬いです。

そして、引きこもってしまう。

キリスト教について言えば、愛は行動です。こんなところで議論をしている暇があるなら、外に出て、人様のためになることをしなさい、それは気持ちの良いことだし、最終的には、人を愛することは、自分を愛すること、そして、神を愛することになるんだよ。極めて簡単な”教え”です。でも、それを行動に移すには、自分が神に愛されているという強い信念がないと怖くてできないです。(私は、日本で育っていますから、どうしても、損得勘定が先に来ます。言い訳をしてしまいます。)

中東やヨーロッパ、そして韓国のキリスト教はどうかわかりませんが、それがアメリカのキリスト教です。だから、どうしても、押しつけがましくなります。

教えとその教えに基づく人間の行動は別のカテゴリーに属する、というのは、人間の脳による取捨選択・あるいは選別機能が作動しているんじゃないか。あるいは、人間に絶望しているせいではないか。

そんな風に感じました。

追記:韓国の皆さん(全員ではないでしょうが)は、どうしてまた、被害者意識がエベレストのように高いんでしょうか。韓国でのキリスト教の教えがどうなっているのか、非常に興味があります。こちら、調べてみたいと思います。ご意見があれば、歓迎します。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人間には限界があり、人間同士の関係には壁があります。国境も
そうですし、”内と外”ですね。自分の脳と外界です。
☆ そうですね。若い頃には 《互いに〈壁を隔てている〉という相
互の理解をし合っているぢゃないか》と言って理屈をこねたでしょう
ね。

★ 神は、しょせん人間が作り出した人間の創造物である、という議

☆ いささか手こずりました。《人知を超えている》という条件をつ
けたら これには批判がやみました。ただし その後も《作り物》説
は 消えていません。


★ そして、引きこもってしまう。
☆ 引き籠もるのも厄介ですし それに輪をかけて困るのは 押し籠
もりです。口だけ達者で 思想は独り善がりです。

★ キリスト教について言えば、愛は行動です。・・・極めて簡単な
”教え”です。でも、それを行動に移すには、自分が神に愛されている
という強い信念がないと怖くてできないです。・・・
☆ あぁ そうなんですか。たぶん 〔気にさわるようでしたら ご
めんなさいですが〕優等生タイプでいらっしゃるのではないかと思い
ますね。

そしておそらく 何か助言でもするなら ますますしっかり者として
すすまれるかにも思われます。テークイットイージー! なんて言っ
たら ふざけなさんな! と返されるかも知れません。

取りあえず沈黙です。


★ 中東やヨーロッパ、そして韓国のキリスト教はどうかわかりませ
んが、それがアメリカのキリスト教です。だから、どうしても、押し
つけがましくなります。
☆ あぁ なるほど。色合いが違うと言いますか 装いに違いが出る
・・・。

たとえば 余白論がありますね。日本などはそれを残す。そちらでは
ぜんぶ隈なくぬりつぶすといったような。

★ 教えとその教えに基づく人間の行動は別のカテゴリーに属する、
というのは、人間の脳による取捨選択・あるいは選別機能が作動して
いるんじゃないか。あるいは、人間に絶望しているせいではないか。
☆ ううーん。《信じる》と《信じよ》とは違う・・・なんですけれ
どね。


★ 韓国の皆さん(・・・)は、どうしてまた、被害者意識がエベレス
トのように高いんでしょうか。
☆ ほんとですね。《事大(大に仕える)主義》が言われています。
《大――中国?――》に向けては言わないようです。

お礼日時:2019/10/03 00:01

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