プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

下記の続きです。
【「作るにしても」は「動詞辞書形+にしても」ということでしょうか?どういう意味でしょうか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11338867.html

 せっかくおもしろい質問なのに、数時間でしめるのはやめてほしい。
 ほかのかたの意見も聞きたかったのに。
 当方もコメントを用意したのだが、投稿する寸前で締め切られてしまった。

【不明点1】
「作るにしても」の「作る」は連体形ですか。辞書には終止形とあるようですが。

【不明点2】
「作ることにしても」「作るのにしても」はかなりヘンな気がしますが、理由がわかりません。なぜなのでしょう。

【不明点3】
「作ることにしても」「作るのにしても」が使える文脈ってあるのでしょうか。
 前者に関しては下記のような使い方ならある気がします。でも「作るにしても」とは意味が違うのでは。
「どうしてもと言うなら、私が作ることにしてもいいのですが……」

質問者からの補足コメント

A 回答 (11件中1~10件)

No.10 のお礼に答えて



>>「動作・行為をそのまま属性として位置付ける」場合〉を、もう少し平易な日本語で解説していただければ幸いです。

動作・行為は対象世界の実体の時間的に変化する在り方を属性として捉え動詞に表現されます。
この時間的に変化する属性を固定し、変化しないものとして捉えると実体認識としての名詞になります。

走る→走り 流れる→流れ 笑う→笑い

この時間的に変化する属性を表わす動詞を、そのまま運動・行為として格助詞「に」で位置付け表現するのが、「作るに」「食べるに」「行くに」で、それを抽象的な運動として捉え直したのが「する」で、具体的な運動の内容を「作る」「行く」「食べる」と表現し、それを「に」で位置付け、「作るにする」「食べるにする」「行くにする」と抽象的に捉え直し、「作るにしては」「食べるにしては」「行くにしては」の場合、運動を具体的と抽象的な側面で捉え、その特殊性を「は」で捉え表現しています。

運動を直接に表現すれば、「作るには」「食べるには」「行くには」のようになります。

そして、「行くことにしては」は「行く」を「こと」、つまり事態として捉え直して表現しており、サ変「する」の「し」が表すのは「に」で位置付けられた「捉え直し」の事態で、このため意味が異なります。

「行くにしてはゆっくりし過ぎだ。」は「行く」という行動を「して」と確認していますが、「行くことにして、ゆっくりしよう」は「こと」と判断すること自体が「する」の具体的内容になっています。

このような話者による対象の捉え方の変化が、「ことにする」と表現されています。

>>「作るにあたって」「作るには」「作るにしたって」「作るにせよ」は、すべて「作るにしても」と同じような気もしますが。つかない場合との違いはなんなのでしょう。

格助詞「に」は時間的・空間的な位置付けの認識を表わし、動作を動的属性として動詞のまま位置付ける場合に「に」が使用されます。

「あたる」「する」などの目的として動作が位置付けられています。

これを実体化して捉え表現する場合は、連用形「作り」や「作るの」「作ること」また、終止形「作る」は準体言としても使用されます。

このように、言語は話者の認識の表現なので単なる結果としての形式や機能ではなく、対象→認識→表現の過程的構造を正しく捉えられないと論理的、科学的な解明はできません。■
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あのー。
 これが「もう少し平易な日本語」なんでしょうか。

〈動詞の連用形が名詞として用いられる例は多い〉ではダメなのでしょうか。

お礼日時:2019/10/31 22:19

No.5 のお礼に答えて



適切な質問をいただき、再考の結果、疑問が明確になりました。

「作るにしても」を「作る【こと】にしても」にすると「かなりヘンな気がします」というのは次の理由です。

「も」が譲歩を表わすことは、先に述べた通りです。

「作るにしても」は「作る」という動作・行為を「にして」で位置付け「も」で動作・行為自体の譲歩を表わしますが、「作ること」と「作る」を「こと」として捉え直し表現すると、「にして」で位置付け「も」と譲歩するのは動作・行為そのものではなく、「ことに」で事態として捉え直す「こと」自体が譲歩の内容になってしまいます。

このため、譲歩の意味内容が全く異なり「ヘンな気がする」ものです。「作るのにしても」も同じで、この場合はさらに、「の」が現実の「もの」「者」の意味になり、意味が変わります。

このように、話者の認識と表現の過程的構造を正しく捉えないと論理的な説明ができなくなります。

膠着語である日本語は、単純で裸体的な意義を持つ語を連結し句、文を構成するもので、各語がどのような意義を表すかを明確にし、それを媒介とし話者の個別認識がどのように表現されているかを明らかにする必要があります。そのためには、各品詞を明確にし、その意義を明らかにしないと意味が明確になりません。

確かに、明鏡国語辞典の解釈は分かり易いのですが、接続助詞「も」の意義を明確にしているとは思えません。構文から見てもこの「も」は係助詞ではなく、接続助詞で、その意義を明確にすべきものと考えます。

明鏡の挙げる❶ ~❹は、この「も」の意義の相違に基づき現象的に意味を分類したもので、辞書の説明としては不十分というしかありません。これは、「も」の意義自体を明らかにできないため、結果としての個別の文の意味により分類しただけということになります。

>>辞書に従うなら「仮に作ったとしても」くらいの意味でしょうか。

これは、「作るにしても」を「作ったとしても」と言い替えたもので、意味が異なります。
「作るにしても」は未来の行為を位置付けた譲歩の表現ですが、「作ったとしても」は完了を仮定、仮想した移行による譲歩の表現で、

仮に自分で事業を作ったとしても、とてもうまくいくとは思えない。

のような文脈に使用するもので、意味が異なります。
「ニト交替」や「ニデ交代」などというのは結果としての形式の比較でしかなく、話者の認識の相違を明らかにするものではないので、何ら問題の解明にはなりません。

>>●「こと」「の」の使い方。
 通常、ある言葉が動詞に直接つけられないときに、「こと」をつけて名詞化します。
 たとえば、「~に夢中だった」の「~」に「作る」を入れると
「作るに夢中だった」になってしまい、これは×です。
 そこで「こと」をつけて「作る」を名詞化すればフツーの文になります。

「こと」を使用するのは、「ある言葉が動詞に直接つけられない」からではなく、話者が対象を実体として捉え直し、独立の対象として表現しようとするもので名詞化自体が目的ではありません。「こと」をつけて名詞化するというのは単に形式を取り上げているに過ぎません。

>>通常は「作る」に直接「に」はつきません。

これは誤りです。
「動作・行為をそのまま属性として位置付ける」場合は、「作るにあたって」「作るには」「作るにしたって」「作るにせよ」のように使用します。

>>たとえば、「~に夢中だった」の「~」に「作る」を入れると「作るに夢中だった」になってしまい、これは×です。

「作るに夢中だった」は☓ではなく、少し古い表現で、「作る【の】に夢中だった」の形式名詞が省略された表現で、古文では通常の表現です。
<「作る」を入れる>などという形式的な操作、挿入では句、文は意味をもちません。

「~に夢中だった」は「作るに【しても】」のような「確認による捉え直し、譲歩」の表現がなく、直接に「夢中」の具体的な内容を「に」で位置付ける表現なので、「の」「こと」による捉え直しは強調の意味だけで実質的な内容は変化しないところが「~にしても」と構文が異なります。

このように、言語は話者の認識の表現であることを正しく理解し、それに基づき表現の差異を解明しないと論理的な説明にはならないのではないでしょうか。■
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>適切な質問をいただき、再考の結果、疑問が明確になりました。
 お役に立てて何よりです。

>これは、「作るにしても」を「作ったとしても」と言い替えたもので、意味が異なります。
 そうかもしれません。ただ、当方は辞書に従っただけですから……。

>これは誤りです。
>「動作・行為をそのまま属性として位置付ける」場合は、「作るにあたって」「作るには」「作るにしたって」「作るにせよ」のように使用します。
 そのとおりですね。
「作る」に直接「に」がつく形はありそうですね。
 うーん。「作るにあたって」「作るには」「作るにしたって」「作るにせよ」は、すべて「作るにしても」と同じような気もしますが。
 つかない場合との違いはなんなのでしょう。
〈「動作・行為をそのまま属性として位置付ける」場合〉を、もう少し平易な日本語で解説していただければ幸いです。

お礼日時:2019/10/29 21:25

No.8 にお答えして



若干誤解があるようなので、コメントさせていただきます。

>>「形容詞」の「多かれ」を「多く・あれ」に分解するのは勝手ですが、現代語「形容詞」には「多けれ」という仮定形があるだけで、

「多かれ」を「多く・あれ」に分解するのはいわゆる「カリ活用」で、勝手な分解ではありません。NO.7でも回答したように、この「あれ」は肯定判断の助動詞で、動詞ではありません。

>>「広辞苑」は助動詞を品詞として認めない。←本当?(多分「形容動詞」のことでしょう)

これは、当方の単純ミスで、ご指摘の通りです。■
    • good
    • 0

こんなところ(他の人の質問のなかで)やりとりすることを許してもらえば、もういちどだけ、発言します。

仮定形と命令形が同形になるのは、五段活用だけでそれ以外の仮定形・命令形ははっきり句別されています。「形容詞」の「多かれ」を「多く・あれ」に分解するのは勝手ですが、現代語「形容詞」には「多けれ」という仮定形があるだけで、
命令形などありません。あるのは古語の形容詞の活用に、「多けれ」(已然形)「多かれ」(命令形)だけになります。
 「多く・あれ」と分解して、この「あれ」を「ある」という五段活用の「仮定形」「命令形」に同形として存在からと説明するのは姑息に過ぎます。現代でも「あなたの未来に幸多かれと祈る」という古形が使われたりします。
 他人の質問の中でやりとりするのは、これっきりにしましょう。「広辞苑」は助動詞を品詞として認めない。←本当?(多分「形容動詞」のことでしょう)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>こんなところ(他の人の質問のなかで)やりとりすることを許してもらえば
 別に構いませんよ。そういう意識がある人のコメントには抑制がきいていますから。当方が止めてもコメントを続けるホニャも何人かいますし。
 質問した者としては、本題との関連性がわかりにくいところがつらいところですが。

 たぶん、何を言ってもムダです。そういうかたですから。
 当方の考えは↓に書いたとおりです。
【国語】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11191994.html
 複数の辞書が「よかれ」は「よし」「命令形」としています。迷う余地がありますかね。
 そうなると、「善かれ悪しかれ」は命令形と考えるのが自然でしょう。それがいまでは命令形ではない意味で使われることがあったとしても。
 別な説をとなえる辞書を教えてくれる人がいるなら、考えます。

 当方は、まったく別のことで戸惑っています。
 内容に同意できるか否かは別にして、No.5のコメントがほぼ理解できます。いままでになかったことです。当方の読解力が飛躍的に向上したか、あるいは……。
 まあ、No.5のコメントはほとんど引用ですから。
 辞書の解説も決してわかりやすいとは思いませんし、もう少しなんとかしてほしいと思うことが多いのですが。難解な場合でも主張が常識的なので、なんとか理解できます。

お礼日時:2019/10/29 21:04

No.6 のご質問に答えて



>>命令形の 用法に「許容・放任」(作りたければ作ってもいい、)というのがあり、これに当てはまると言えます。これは譲歩(一歩譲って仮に認める)と通じるものがあります。

たしかに、似た点はありますね。最初の回答を見た時にそう考えられているのだろうと直ぐに感じました。しかし、「あれ」は回答にも述べた通り、「許容・包括」を表わす主体的表現の語で、三浦つとむ「形式主義的文法論の吟味」(『文学・哲学・言語』所収:1973)で次のように記しています。 

 <助動詞>にも命令形のあるものが見られ、「あり」の系列には「あれ」をはじめとして「なれ」「たれ」などがある。
  
  大統領で【あれ】国務長官で【あれ】、法の裁きを免れることはできない。

の「あれ」は命令形でも、命令の表現ではなくて、許容包括を意味する主体的表現の語である。<助動詞>の「あり」「ある」は直接敬語化されないで、<助動詞>を重加して「あります」にするが、「ます」の系列の「ませ」「まし」は敬譲の<接尾語>の命令形に連結して「行きなさ【れませ】」「下さ【いまし】」と希求を表現している。この助動詞の命令形は<動詞>の命令形とちがって、表現主体の命令や希求を直接に示しているが、命令に使われる場合にさきに問題にした特殊な零記号がこの<助動詞>に全体的に顕在化しているのか、それとも一面的な顕在化でまだ零記号が残っているのか、問題になる。私としては、かくあるべき未来の世界での立場や、判断の部分が顕在化しているので、現在の世界での立場や判断の部分はまだ零記号として残っているとみたい。「駆け【ろ】」「着【よ】」と<助詞>を加える場合は、<動詞>から特殊な零記号を介して現在の世界の立場での<助詞>が連結されているが、「ませ【な】」「まし【よ】」など<助動詞>の命令形に<助詞>が連結される場合も、<助詞>はやはり現実の世界の立場であるから、「ませ」「まし」とは【世界が異なっていることになろう】/

このように、「大統領で【あれ】国務長官で【あれ】」の「あれ」は動詞ではなく判断の<助動詞>「ある」の命令形から転成したものということになります。
これを承知していたので、「としても」は、サ変動詞「する」の連用形「し」+確認の助動詞「て」+譲歩を表わす接続助詞「も」になり、命令形とは異なることが直ぐに理解でき、多分この辺を混同されているのではと回答したものです。

この、「して【も】」の「も」は接続助詞になっており、例文は、

コストが50万円なら、自分で事業を作るにしても、
→50万稼ぐには時間がかかるし、
→初期費もかかるかもだし

→さて、どうしようか?

で、「(直ぐにできるわけではないが、とりあえずやる)としても」という、とりあえず相手の主張を受け入れてみると、という譲歩の認識を表わしています。辞書を当たってみると、副助詞、係助詞は挙げられていますが、接続助詞を挙げているのは広辞苑の他に下記などがありましたが、不適切です。


〔接続助〕活用語の連体形を受け、また「ても」の形で確定の逆態接続を表現する。*源氏‐橋姫「心ひとつにいとど物思はしさ添ひて内裏へ参らむと思しつるも出で立たれず」
【日本国語大辞典】

■二■ (接助)
(1)形容詞連用形に接続する。ある動作・作用や状態を述べる時,その量や程度について極端な場合あるいは限界となる場合を想定するのに用いられる。…とも。…ても。「おそく―本年中には完成するだろう」
【大辞林】

[二][接助]形容詞・形容詞型活用語の連用形、動詞・動詞型活用語の連体形に付く。逆接の意を表す。…とも。…ても。…けれども。「見たく―見られない」「努力する―報われなかった」「いつしかと涼しき程待ち出でたる―、なほ、はればれしからぬは、見苦しきわざかな」〈源・宿木〉「身一つ、からうじて逃るる―、資財を取り出づるに及ばず」〈方丈記〉
【大辞泉】

広辞苑だけが、譲歩を挙げており主体的表現の語の意義としてはこれが適切と判断したものです。「逆接」などというのは、結果論でしかなく、これはソシュールパラダイム下の発想による安易な判断です。また「ても」が立項されていますが、意義が異なります。

「て」が話者による確認の意義を表わす助動詞であるように、この「も」はむしろ助動詞で、接続助動詞に転成したものとするのが適切ではないかと考えています。

広辞苑は助動詞を品詞として認めないなど独自の所があり、若干他とは異質で参考になる面があります。■
    • good
    • 0

No.5の方の回答の中に、


>他の回答に命令形と混同し、仮定条件という回答がありますが、単なる仮定ではなくそれを受け入れるという意味が加わっています。とありますが、

 混同したのではありません。前の問題のなかに、「多かれ、少なかれ」があり、これは命令形を使ったものであるという認識があるのは当然で、その言い換えの用例にも「多いにせよ(しろ)、少ないにせよ(しろ)」がありました。「せよ」や「しろ」は、サ変の命令形以外にはあり得ません。だから「命令」だと言っているのではなく、命令形の 用法に
「許容・放任」(作りたければ作ってもいい、)というのがあり、これに当てはまると言えます。これは譲歩(一歩譲って仮に認める)と通じるものがあります。
 したがって、後続する語が重要になります。しかし、最初の質問でもあまりはっきりしていません。「作るには、お金も時間も掛かりますよ。」でしょうか。

 それにしても、アスナロウさんが、ソシュールパラダイムの影響下にある、辞書を引用されたのには、驚きました。「広辞苑」は特別なんでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「善かれ悪しかれ」や「遅かれ早かれ」は古語の生き残りですかね。
 当方は古語のことはまったくうといもので。
 現代語だって……というツッコミは禁止。

 辞書が「よかれ」を「よい」の命令形にしているのは、別の意味合いですかね。
「よかれ」→ 「よかれあしかれ」の流れには、個人的に異和感があるもので。

お礼日時:2019/10/28 22:01

「作るにしても」は、動詞「作る」の終止形+格助詞「に」+サ変動詞「する」の連用形「し」+確認の助動詞「て」+譲歩を表わす接続助詞「も」の構成です。



抽象動詞「する」の内容を格助詞「も」が位置付け、その行為を話者が確認の助動詞「て」で確認し、それを譲歩、つまり仮に認めるという意味になります。


〔助詞〕
➌(接続助詞)
①動詞的活用の語の連体形に接続して譲歩の気持から、逆接を表す。…でも。…のに。万葉集4「来むといふ―来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを」。源氏物語橋姫「心一つにいとど物思はしさ添ひて内裏へ参らむと思しつる―出で立たれず」。堤中納言物語「月にはかられて夜深くおきにける―思ふらむ所いとほしけれど立ち帰らむも遠き程なれば」。平治物語「矢は当らざりし―痛手は負ひぬ」。「泣く―認められず」「期限は今日に迫りたる―準備は未だ成らず」
【広辞苑】

ここでは、譲歩から逆接としていますが、これは言い過ぎで、順逆は前後の節の内容による結果に過ぎません。譲歩とは仮に認めるという意味です。

他の回答に命令形と混同し、仮定条件という回答がありますが、単なる仮定ではなくそれを受け入れるという意味が加わっています。

そもそも、命令形というのは活用の形であり、内容を表わすものではありません。「行け」が仮定形でも命令形でもあるように五段活用では仮定形と命令形は同じ形です。活用とは接続に伴う単なる形の変化でしかなく、語の意味が変わるわけではありません。

首相で【あれ】大臣で【あれ】、法の裁きを免れることはできない。

この「あれ」は形は命令形でも、命令の表現ではなく、許容包括を意味する主体的表現の語です。
「善かれ悪しかれ」「多かれ少なかれ」は「善くあれ悪しくあれ」「多くあれ少なくあれ」です。


【不明点1】
「作るにしても」の「作る」は格助詞「に」が続く終止形です。

【不明点2】
「作ることにしても」「作るのにしても」はかなりヘンな気がしますが

この場合は「事業を作る」という通常の用言の表現である対象を今一度実体的に「こと」、「の」と捉え直した表現で、「作るに」は動作、行為を直接的に位置付けていますが、「こと」「の」の場合は格助詞「に」で位置付けられるのは「こと」「の」として捉え直された抽象的な実体としての事態です。

つまり、「学生にしても」「子供にしても」と同じ実体に対する判断による譲歩で、行為・動作に対する直接的な判断ではなく、実体化、固定化した実体としての事態、ものに対する判断で捉え方が異なり、意味が異なります。このために、かなりヘンな気がすることになります。

【不明点3】
作ることにしても」「作るのにしても」が使える文脈ってあるのでしょうか。

「作ることにしても」「作るのにしても」は「こと」である事態、「もの」である「の」に対する判断なので、直接の動作・行為に対する譲歩ではなく、事態をどのように扱うか、物をどうするかの譲歩表現になり、

「どうしてもと言うなら、私が作ることにしてもいいのですが……」

の場合は、「こと」である事態の扱い、処理の判断になります。

また、形式(抽象)名詞「の」は抽象的な実体認識なので、

「今度私が作るのにしても、必ずしも彼のと同じではありません。」

のような物自体の抽象的な把握、表現になります。■
    • good
    • 0
この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

 相変わらず〈確認の助動詞「て」〉ですか。

【不明点2】に関する記述はかろうじて理解できる気がしますが、あんなに難解な書き方をする必要があるのでしょうか。
 当方が下記に書いたような理解では、不十分でしょうか。たぶん、根本的に違うんでしょうね。
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12538069734.html

===========引用開始
  通常、ある言葉が動詞に直接つけられないときに、「こと」をつけて名詞化します。
 たとえば、「~に夢中だった」の「~」に「作る」を入れると
「作るに夢中だった」になってしまい、これは×です。
 そこで「こと」をつけて「作る」を名詞化すればフツーの文になります。
===========引用終了

>「今度私が作るのにしても、必ずしも彼のと同じではありません。」
 これはアリですね。ただ、「作るにしても」とは意味が違う気がします。

お礼日時:2019/10/28 21:13

>でも「善かれ悪しかれ」も「多かれ少なかれ」も已然形(仮定形)なんですかね。

なんで?
 この言葉はあくまでも古語であり、已然形にはなかったのです。古語の已然形は「よけれ(ども)」です。古語の仮定は(未然形の)「よからば」でした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

申し訳ない。「お礼」コメントを入れ間違えました。前にもあったなー。
 No.4への「お礼」はNo.6の「お礼」にあります。
 No.6への「お礼」は補足の形で入れたいと思います。

お礼日時:2019/10/28 22:29

【不明点1】


>「作るにしても」の「作る」は連体形ですか。辞書には終止形とあるようですが。
辞書形は日本語文法で、辞書に出ている形、すなわち「終止形」を意味しますが、現代語は一部の「だ」系の語(形容動詞・助動詞「だ」・「そうだ・「ようだ」)を除けば、終止形=連体形なので「連体形」もそう呼びます。

【不明点2】
>「作ることにしても」「作るのにしても」はかなりヘンな気がしますが、理由がわかりません。なぜなのでしょう。
 一般に「仮定条件」を言う場合。いい変えるなら、「つくるとしても」。「仮に」を前につけてもいい。
【不明点3】
>「作ることにしても」「作るのにしても」が使える文脈ってあるのでしょうか。
 前者に関しては下記のような使い方ならある気がします。でも「作るにしても」とは意味が違うのでは。
「どうしてもと言うなら、私が作ることにしてもいいのですが……」
 上記に同じ。仮定条件が多い。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>終止形=連体形なので「連体形」もそう呼びます
 そう考えて何も問題はないと思います。
 でも「作るにしても」の「作る」は何かと説明するなら、「終止形」でしょう。
 詳しくはあとで補足します。

>いい変えるなら、「つくるとしても」。「仮に」を前につけてもいい。
 だと思います。
「作ることにしても」「作るのにしても」に言いかえられる文脈は、当方には想定できません。
「作ることにしても」は意味がかわります。
「作るのにしても」……使えますかね。

お礼日時:2019/10/27 11:30

過去の質問が見つかりました。

参考になるかな。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/6371918.html 「多かれ、少なかれ について」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そんなに古いものを……。
 ありがとうございます。
「命令形」にしていますね。
 当方も記憶に引っかかっていたものがありました。

【国語】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11191994.html
 このときはホニャララなことに。
 当方が確認した辞書は、すべて「よかれ」を命令形にしています。
 でも「善かれ悪しかれ」も「多かれ少なかれ」も已然形(仮定形)なんですかね。なんで?

お礼日時:2019/10/27 11:25

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!