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歴史の事を知っていく上で疑問があることが出てきたのですが・・・。

https://www.singakumeiseisha.com/kikou/140120nih …

このサイトがきっかけではありますがね・・・。

この頃から日本人は本音を隠す嘘つきだと思われています。
上のサイトを見ても理解できない分からない所があります。
ホントに文化や宗教の違いだけで、向けられるものなのでしょうか・・・。
人種差別主義的なアレじゃないのでしょうか・・・。
と色々と疑問です。


そこで質問
本音と建前が批判され悪意的な感情を向けられてきたのはなぜなのでしょう?
(文化観や宗教観以外の理由とか)

質問者からの補足コメント

  • 訂正

    歴史の事を知っていく上で疑問があることが出てきたのですが・・・。

    歴史の事を知っていく上で疑問が出てきたのですが・・・。

    です。

      補足日時:2019/11/11 07:06

A 回答 (6件)

理由はいくつかありますが、社会的な土台の違いが原因です。



欧米人に限らず日本以外の殆どの国で「社会的に当たり前とされていること」のひとつに「異民族・異教徒の言うことは信用できない」というものがあります。
 「神に誓って真実を述べます!」と言われても、自分の神と相手の神が違えば「それが真実であるかどうかは分からない」からです。

なので特に一神教の人々の感覚だと「神が見ているから嘘をつかない」というのが「嘘と本当」の境目であり、つまり神と言う視点は「第三者から見て、事実だと誰もが思うのが本当であり、第三者が疑問に思うのが嘘」という価値観になるのです。
この言葉、どこかで聞いたことありませんか。これは裁判などで扱われる「証拠」の考え方そのもので「証拠に照らして、第三者が被告の犯行を納得すれば有罪になる」という考え方の根本がこの「神の視点からの本当」なのです。

そのためほとんどの国の人々の共通認識として「正直であること」とは「同じ民族・同じ宗教の社会の中で、常に本当のことを言えばよい」ということになるわけです。
 そうすれば「神も許してくれる」し、社会生活も成り立つわけです。

逆をいえば、これらの人々は「自分と同じ神=道徳観をもっていない連中は信じられない」わけです。ヨーロッパ人が植民地支配をしたときに、同時に布教活動をして現地人をキリスト教化したのは「未開で文化もなにもかも違う連中は信じられないので、キリスト教徒にして『信じられる程度の人間にしてやる』という意識」があったからなのです。


日本の場合、まず「異教徒や異民族と話すこと」自体がほとんどありません。江戸時代までの庶民に限って言えば100%無いと言っていいでしょう。

そして日本は多神教なので「神に誓って真実を述べる」と言っても、必ずしも通用するわけではありません。昔から「誓詞」だすのは「絶対約束を破らない覚悟」ぐらいのもので、日本のカミガミの罰を受ける、という認識は一神教のような形とはちょっと異なります(一神教の場合、ウソがあれば天国に行けない、と言う罰を受けます)

そのため、日本では「絶対的な存在が嘘か本当かを判断する」という一神教的な感覚ではなく、その言葉の本質によって「この社会がうまく回るかどうか」で嘘か本当か判断される、という形になっていきました。

たとえば(多分西洋人が日本人を嘘つきと判断した言葉に)「前向きに検討します」と言う言葉があります。これ、日本人的には「やりません」ですよね。社会的な訓練を積んだ日本人なら、誰でもそう理解します。

しかし言葉としては「前向きに検討」するわけですから、言葉通りに取れば「検討した結果、OKなのかダメだったのかいつ分かるのだろう??」と思うわけです。
 
 他にも同様のやり取りに「今度はうちに遊びに来てください」などがあります。これも実際に「来たよ――」と訪問する日本人はいませんが、外国人だと「来てくれと言ったのに、なぜダメなのか??」となるわけで、外国人から見れば「日本人はウソつき」になるわけです。

なぜ日本人はこういう言葉使い、つまり「本音と建て前」を使うかと言うと、日本には「異民族や異教徒」という人々と話す機会がもともと100%無かったことと、一神教ではなかったことから「社会を上手く回すために、相手が不愉快になる直接的な拒否などはしない」という文化が育ってきたからなのです。

その文化にどっぷりつかっている日本人同士なら「嘘なんかではない、言葉使いの問題だ」となるわけですが、そういう社会背景を知らない外国人からみれば「そもそも価値観が違う人に向かって、そういう言葉使いをすること自体がウソつきの始まり」なわけです。

そして、それでも現代の人なら「異教徒ならその宗教の教義や価値観を知れば『彼らの文化としてそれがウソであるかどうか』は判断できる」と考えるのですが、日本の場合、外国人が知っているような「宗教的な教義や価値観」がない、というか「ないようにしかみえない」ので、ますます理解できなくなるのです。

日本は「日本人だけで1500年以上やってきた」という閉ざされた社会です。そのため異教徒が侵入して支配し「価値観がひっくり返る」という経験をしてきませんでした。価値観が変わらないので「閉塞した社会にならないようにするための、言葉の使い方」が発達したのです。

それが顕著に表れているのが「1000年以上、ほぼ固定された社会構造だった京都」で、京都の人の言葉は同じ日本人でも「ものすごく裏がある」と言われています。
 たとえば隣の家の人に「あんたのところの娘さん、ホントにピアノが上手ですね」といえばそれは「娘のピアノ練習がうるさい!」となる、という具合です。
 これは日本人でも、一般的には「度が過ぎた言葉使い」になるわけですが、外国人が感じている日本人の「ウソ」とはこういう仕組みになっているわけです。
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この回答へのお礼

なるほど、土台の違いか・・・。
確かにそういう所ありますしね。

教えてくれてありがとうございます。
参考になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/11/15 08:16

日本人にとって本音も建前だし、建前も本音ですよ。

欧米人は二値論を一値論へ選択する傾向があって、そうした単純な欧米人からは、二枚舌と、日本人批判が有るでしょうけれど、実際、どちらにも割りきれないことの方が現実でしょう。例えば、オバマ元大統領は世界に対して核なき世界を宣言したけれど、一方、抑止力としての核の意味もよく知っているから、賞味期限の短い核弾頭の再製造をアメリカ国内では大量注文してるわけですよ。どちらもイデアル、リアリズムと言った対極の観点にたてば、どちらも正しいのでしょう。これは日本人の建前=イデアル、本音=リアリズムの件と、思考構造が、欧米人のそれらと変わりがないということです。
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この回答へのお礼

じゃあ、大差がないということか・・・。


教えてくれてありがとうございます。
回答ありがとうございました

お礼日時:2019/11/21 16:35

開港直後の横浜に住んでいた英国人だったか、米国人だったかの手記に、”日本人には二種類いて、同じ人種とは思えないほど、その品格は違っている”と、記されていました。

(司馬遼太郎氏の著作だったかもしれません。)

一方は、武士、”武士に二言はない”の言葉通り、誇り高く、信用でき、尊敬できる人たちばかりであった。一方、その他、農工商は、荷物をちょっと手から離せば、置き引きをする、きょろきょろと目つきが怪しく、口を開けば、嘘ばかりであった。

この、二種類が、同じ人間だとは思えない、という感想でした。明治以降、教育が行き届き、民度が上がりました。

ただ、ひとつ変わっていないのは、自分の意見を発信してゆくのが苦手であるという点です。

ですから、大きな舞台で、スピーチをする場合、ついやりすぎるか、見当違いになってしまう。国連でも小泉さんのスピーチがありました。”セクシー”発言で、正直なところ、具体的に何を言っているか、全然わからない。議論の場で言われたことを、自分自身への批判ととる人も多く、議論ができにくい。そして、ますます発信しづらくなるという、悪循環に見えます。

もう一つは、長らく鎖国をしていたので、独自の習慣が根強く残っている。

欧米では、ミーティングは重要案件決定の場なのですが、多くの場合、日本側からは、決定権のない人が出席する慣習です。偉い人は出てこない。それで、欧米側と意見の調整を行い、最後に、それでは明日から、チームを立ち上げて、実行に移してゆこう、というところで、日本側は、”本社に帰って、許可が必要です”となり、欧米側は、はしごを外された感じになります。ミーティングは、時間の無駄に見えます。通訳でも何でも雇って、お偉いさんが出席してくださればいいんですが、それは、叶わないようです。

日本には、日本の言い分もあるので、それを発信してゆけばいいんでしょうが、多分、日本側は、欧米側の不満に気づいていない。

ギャップを埋めるのには、お金を使って接待をすればいいという考え方で、これは、度重なると、勤務時間外は、自分の時間を持ちたい欧米人からは、敬遠されます。

そんなところが、原因じゃないでしょうか。他のアジア諸国は、鎖国がなかったので、もう少し、器用です。
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この回答へのお礼

そうなんですか・・・。
何か、気難しい問題なんですね。
やはり、文化の違いなのかな。

参考になり、回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/11/15 08:23

非常に単純な理由を言うと、


「東洋の野蛮人に過ぎない連中が、自分たちの利権や地位を脅かそうとしている」

日本人だって、格下だとみている国がのし上がってきたら、いろいろあらを探して批判するでしょ。
それと同じ。

もう少し背景を言うと、
ヨーロッパはたくさんの国に分かれていると言っても、昔から濃密な相互作用を持ち続けてきた。
古代ローマやカトリック(のちに分派していくが)という共通基盤もある。
フランスとドイツの仲が悪いと言っても、それは仲間内の争いに近いもので、「どちらもヨーロッパ人だ」という共通認識がある。
彼らからすれば、世界はヨーロッパ人とそれ以外の人間の2つなのである。(ヨーロッパ至上主義の温床でもある)

なのでヨーロッパやその眷属であるアメリカ・オーストラリアがのしてきてもとくに批判はしないが、
自分たちのファミリーでない日本人が台頭すると、激しく拒絶することになる。

こう考えると、彼ら自体が建前と本音を、日本人以上に巧妙に使い分けているのに、日本人をことさら批判する理由も分かると思う。
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この回答へのお礼

うん。
確かにそういう所はあるもんね。
白人至上主義が影響しているのかな。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/11/15 08:20

本音と建前が分かるほど我慢も出来なければ許す事も出来ない感情型の西洋人には、日本人のような先の先後からの先のような考え方が高等過ぎて出来ないのだろう。


単純に自分個人の感情が多い西洋や大陸では争いや陣取り合戦が多い、然し日本は戦国時代を過ぎ天下統一が終わり、その後も日本という国でまとまって海で囲まれています。
他国の人達には分からない繋がりが有るからこそ、本音と建前で阿吽の呼吸という日本人独特の納め方をするのでしょう。
一神教の精神には分からない八百万の神精神が有るのです、唯敵を作っているばかりでは理解されないのですよ、本音を隠して建前で生きるのも道なんです。
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この回答へのお礼

良く考えてみればそうかも・・・。
そりゃ、理解されるわけないか・・・。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/11/15 08:18

ルール(法律、常識、文化、普通)が違うから。



サッカー(のルール)をプレイする人(国)と、ラグビーをプレイする人。
そりゃ、(ルールで)もめる。

ルールは地域や時代で違う。
昔のサッカーと今のサッカーでも違う。
昨今でも、まだ昭和のルールのままだと、新聞ざたになったりもする。
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この回答へのお礼

確かに違いますしね。
だからなのか・・・。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/11/15 08:12

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