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これから信仰について正しいことを一つ一つ考えていきたいと思いまする。

信仰を始めるには順番がございまする。
これを間違えると後々面倒なことになるのでございまする。
その順番とゆーは、まず教義から入る必要はさらさらございません。
それよりもその教義に漬かっている人たちが、日頃何を考え、何を思い、何を語り、何を行っているのか、それを実際に自分の目で見て自分の耳で聞いて知ることが何よりも第一に必要でございまする。
教義についてはその後でよいのでございまする。
なぜなら「正しい教えは必ず正しい結果をもたらす」ものでなければならぬからでございまする。
それゆえ初めから法華経を読む、聖書を読むなどに立ち入る必要はさらさらございません。
まずは距離を置き、これらの教義に漬かっている人たちの日頃の行い、日頃立ち振舞う様子などを遠くの方からじーっと眺めていればそれで十分なのでございまする。
信仰を始めるにあたり心得ておくべきことの一つはこれではございませぬか?

A 回答 (10件)

宗教に興味を持つ人、信仰に心惹かれる人、こういう人達は皆この質問者の主張に耳を傾けると良いと思います。



人の道さん、一理ありますよ。

どんな場合でもという訳ではないと思いますが、得体の知れない新興宗教に取り込まれない為にもね。

ところで、アルケー信仰はだいじょうぶですか?
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この回答へのお礼

>ところで、アルケー信仰はだいじょうぶですか?

ここにある「心得え」自体がアルケーの教えから導かれるものといえばその答えは明らかなのではございませぬか。

お礼日時:2019/11/11 12:07

hitonomichiさんにとって、信仰とは洗脳なんですか。

私にとっては、信仰とは親しみだけです。
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>信仰を始めるにあたり心得ておくべきことの一つはこれではございませぬか?



己のくそったれな理屈を無にする事。

でないと、いつまでも悟れないぞ。
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信仰を始めるにあたり心得ておくべきことの


一つはこれではございませぬか?
 ↑
人の道さんも、時々は良いことを言いますね。
その通りです。

信仰にしろ思想にしろ、現実の社会に適合
出来ないものはクソです。
内容がどんなに素晴らしいモノであっても、
現実社会で結果が出なかったものは
ダメです。

その典型が社会主義です。
社会主義の理想は素晴らしいですが、それが
現実にもたらしたものは、貧困、独裁
虐殺でした。

信仰も同じでしょう。

教義がいかに素晴らしくても、信者の実際の言動を
見て判断した方が確かです。

神仏の教えは素晴らしい。
しかし、やっていることは葬式での金儲けだけ、
アジアアフリカ中東への侵略。

こういう宗教はクソ宗教です。
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違うと思います



信仰に必要なのは
自分自身の納得ですね
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>その教義に漬かっている人たちが



「漬かっている」という言葉は、悪い意味ですよね。いい悪いを判断するには
基準が必要になります。
その基準とはアルケー教の教義になりますね?

少なくとも基本的な教義の理解がなければ、判断できませんよね。
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もう宗教になったのですか



早かったですねえ。

それだけ自信があるんですか?

アルケーの神が他に神に勝てますかねえ?
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> まずは観察すること、確かめること、評価することが大事ってこと。



そんなことは誰でもやっています、でもそれは信仰ではありません
評価後に教義から入る人もいれば、そうでない人もいるでしょう
質問者さんの考える信仰の最初は何でしょうか?
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この回答へのお礼

誰でもやっていないから邪教(カルト)がはばかるのです。

お礼日時:2019/11/11 12:00

> 遠くの方からじーっと眺め



それは始める前の作業であって信仰ではないですよね?
何から始めるのが正しいのか示してもらわないと
是非を判断できません
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この回答へのお礼

初めから近づくのではなく、まずは観察すること、確かめること、評価することが大事ってこと。
深入りするのはその後ってこと。

お礼日時:2019/11/11 11:24

★ 信仰を始めるには順番がございまする。


☆ 
1. 《信じる》とは 《人知を超えたナゾのなにものかを 無条件に無根拠
にてわが心に受け容れること》です。

2. その説明に合っていれば 順序は決まっていません。その規定が初めに
来るという順序があります。



★ これを間違えると後々面倒なことになるのでございまする。

3. 考えるべき経験思想をそのまま真理だと思い込み これを固定して捉え
るようになったりします。

4. その固定観念は 信条や心情また信念といったものに成り得ますが――そ
してそれなりに人生にとって有益になったりしますが――それらは基本的に 非
思考なる信仰とは別です。



★ その順番とゆーは、まず教義から入る必要はさらさらございません。

5. (1)の規定に合っていれば オシヘから入ってもそれは 自由です。

6. という意味は オシヘは 経験思想として《信じる対象としてのナゾ》
を指し示し説明するための補助線だということです。

7. 補助線そのものを信じることは ありません。という注意をおこたらな
ければ 順序は自由です。



★ それよりもその教義に漬かっている人たちが、日頃何を考え、何を思い、
何を語り、何を行っているのか、それを実際に自分の目で見て自分の耳で聞い
て知ることが何よりも第一に必要でございまする。

8. そういう見方もあり得ましょうし またそうする必要はないという見方
もあり得ます。


★ 教義についてはその後でよいのでございまする。

9. 《信じるとは どういう人間の意志行為か》(つまり 第1項)を外さ
なければ 自由でしょう。


★ なぜなら「正しい教えは必ず正しい結果をもたらす」ものでなければなら
ぬからでございまする。

10. それは 受け取る側の条件にもよります。ですから 一概には言えま
せん。よくないオシヘが 反面教師のごとくにでも よい結果をもたらし得ま
す。



★ それゆえ初めから法華経を読む、聖書を読むなどに立ち入る必要はさらさ
らございません。

11. そうでしょうが どちらでもよろしい。



★ まずは距離を置き、

12. どちらでもよろしい。

★ これらの教義に漬かっている人たちの日頃の行い、日頃立ち振舞う様子な
どを遠くの方からじーっと眺めていればそれで十分なのでございまする。

13. そこまでしなくても 人間の人間性とそのチカラに信頼してもよいの
では?



★ 信仰を始めるにあたり心得ておくべきことの一つはこれではございませぬ
か?

14. ここまで来て忘れていたことがあります。第1項の《信じる》の規定
は 片側からだけのものでした。


15. 或る日或る時わが心の窓をノックする音を聞き これを信じる対象た
るナゾであると思ったとき わが心に受け容れる・・・ということだと思いま
す。

16. あちら側からのハタラキカケがあり これを受け留めるという側面に
ついて 同時に 触れておいたほうがよいように思います。
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