プロが教えるわが家の防犯対策術!

障害をもちながらも。十分に生活が出来て、十分にトレーニングする時間があって、
トレーナーがついて、コーチがついて、屋内外で充実した施設が使えて、高額な義手義足をつけることが出来て、先進国以外の国であれば生きていくこと自体が難しく、スポーツで汗を流そうなどという発想すらないと思います。家族から間引きでもされるかな?。
先進国のある一握りの恵まれた国家、恵まれた家族、だけのものですね。世界のとか言わないほうがいいような気もしますが・・・? 世界の国々、世界の人々、みな平等の精神でやっているとは思えないのですが・・?
どう思われますか?

A 回答 (6件)

質問者様の発想はその通りだと思います。

ではなぜ「間引きされるか?」といえば「役に立たないから」です。

パラリンピックは「障害者は社会の役に立たない。いや、お荷物でしかない」という発想を転換させるために行われるのだと私は考えています。

たとえば車いす競技、車いすでしか動けない人が、あれほど激しい動きを行い、場合によっては「健常者よりも素早い動きを見せる」なら、車いすというケアやコストはかかるものの「十分に社会生活が成り立ち、健常者と同等に価値を生み出せるのではないか?」と考えるきっかけを与えることになるのではないでしょうか。

また、病気や事故で足や手を欠損した場合、そしてこれは誰にでも起こり得ることで、その時点で「どんな人でも欠損したら『社会のお荷物』になってしまう」のでは、本人の意識自体が向上しないし、周りの評価もたったひとつの病気や事故で変わってしまうのもおかしいと思います。

だからこそ「いろいろあったけど、その代りに素晴らしい競技に出られる」というパラリンピックはそれだけで有意義でしょう。

>先進国のある一握りの恵まれた国家、恵まれた家族、だけのものですね

それを言ってしまうなら、パラリンピックに限らず、オリンピックも同じ歴史を歩いています。日本は先進国で、問題なく多数の競技に参加できるだけの選手もサポートも練習場所なども提供できますが、途上国ではそうはいきません。
たとえばリオオリンピックの参加国の選手団で最も少ない人数だったのはツバルで参加選手は男子100m走の選手1名だけでした。

それでも、ツバルは彼が走る姿をみるだけで「オリンピックの良さ」を感じることができたでしょうし、次の選手がうまれるかもしれないし、選手だった彼自身の未来が開けるかもしれません。

そのような可能性を踏まえれば、パラリンピックはやらないより、やったほうが良いと私は思います。
    • good
    • 1

障碍者のスポーツは見ません、感動しないからです


その理由は
スポーツ人口が極めて少なく、特別恵まれた贅沢な人達の遊びに見えるからです
種目によっては、ちょっと練習しただけでパラリンピックに出られるからです
例えば、盲目の人のマラソン、その人をリードする人が哀れに見えるからです
一人の選手に、どんだけの健常者が犠牲になっているのか、考えるからです
やっと生活している人達から見ると、な所にどんだけ税金使うんだ、と思うからです
弱い者の味方ぶってる、お涙ちょだいのマスゴミのエサに見えるからです
それを見て感動している輩が、猿回しのサルに見えるからです
    • good
    • 0

なるほどその発想はなかった。

    • good
    • 0
    • good
    • 0

>パラピックって


パラピックって何?
http://kims-001.com/news/7958/
同様いい間違い?

>どう思われますか?
出たい人は出ればいいし出たくない人は出なければいいだけなんじゃないの
    • good
    • 0

ピンポーン



正解です....( ̄ー ̄)

..
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!