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なぜ物に感情移入してしまうのでしょうか?
今日携帯を買い換えました。前の携帯に愛着があり、悲しくなりました。処分はできる方ですが、物を手放す事が辛く感じて、毎回困ってます。なぜこんな事が、起こるのでしょうか?

A 回答 (6件)

「罪悪感」についてwikiで次のような説明があります。


> 自身の行動・指向・在り様などに関して、悪いことをした、している、と感じる嫌悪の感情のことである。
> 自身の何らかの行いについて、内在する規範意識(正しいと認識されるルール)に反していると感じる所から罪悪感は生まれる。
> 心理学において罪悪感は感情の一つとして扱われるが、不安・怒り・悲しみなどと異なり、困惑・プライド・恥などと共に自己意識感情に区分されている。自己意識感情は他人の意見に依存するのが特徴とされる。 罪悪感の本質とは、集団から排除される危険を感じたときに生じる、本能的な生命の危機感の表出である。

もしも、次のようなことがあるのでしたら、
> 以前、自分のしたことの統計を取ってました。 その統計を調べると
> 買ったのにちゃんと使わなかった物と、人から貰った使えない物+使った物、だと
> なかなか捨てられないみたいです。
> (罪悪感)のようなのが起きて、なかなか捨てれないんです。

「自分で買ったのならちゃんと使うべきである、それがまともな人間としての行いである。買ったのにちゃんと使いもせずに処分するなど正しい行いではない」「人から戴いたものを大切にするのは、ものだけのことではなく、下さった方の気持ちを大切にするということであり、それがまともな人間のあるべき姿である。戴いておきながら"使えないと処分したり"、"ちょっと使ったくらいで用済みと処分したり"は、下さった方の気持ちを無視することと同様であり、正しい行いではない」と内心感じるのであれば、「罪悪感」が起きても当然のようなものです。

そのような形で、《(買ったのにちゃんと使わなかった物)と(人から貰ったが、使えない物+使った物)だと、なかなか捨てられない 罪悪感が起きる》のならば、規範意識、道徳意識、人としてのあるべき行いの感覚が強いのでしょう。

でも、考えてみれば、たいていのモノは、多くの人の努力と汗と時間と金を掛けて作られているのですから、それをあっさりと処分するのだって、少々は罪悪感を感じても不思議はないと思います。

ものを処分・廃棄することにある程度の後ろめたさを感じるのは、心が健全な現れかもしれません。
自分の時間だって、自分の規範意識や道徳意識からすると価値の低いことに使ってしまえば、後悔のような気持ちが起きても不思議ではないです。

問題は、社会生活や人間としての生活や行動をするのに障害となってしまうような過剰な《処分忌避・処分罪悪感》が起きることなのでしょう。情愛を籠めて下さった品物でも、モノとしては不要になり、邪魔でアリ、場所ふさぎになっていれば、処分すべきです。でも、「これを下さったのだ」という記憶や感謝の念までは処分しないということならば、《写真を撮って残す》というのは真摯な態度だと思います。 また自分で購入したものでも、物品Aを購入したが、後で見つけた物品Bの方が現状優れているとなれば、物品Aには「買ったのに、悪かったね」と思いを寄せて《写真を撮って残す・物品Aは処分する》というのは、真面目すぎるくらいの態度だと思います。
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> 捨てるのが辛い=捨てられない自分にうんざりしてる=捨てられない自分も悪くはない


> って考えると悲しくなくなるって事ですか?

捨てることが出来ないのも、捨てることが出来ずにいることを辛く思ったり・そんな自分にうんざりするもの、人間ならばあることなんだと思って、「あぁ、人間ってのは、そういうモノなんだ」 「呼吸をしないと辛くなって苦しくなってどうしても息をしちゃうのと同じようなモノなんだ」と、自分を納得させてしまえば、《悲しさで辛い感じ》が薄れるということに、社会で有能と思われている人や、仏教の偉いさんも同じようなことに気付いていて、それをお経などにも書いて、弟子や信徒に説いているってことです。
 
「背が低い、成績が優秀でない、フィギュアスケートで転んだと言って、悲しむのはバカげている」と思えば、気が楽になるってことです。

気楽になったとしても、練習はするし、勉強もサボらないし、片付けもするし、飲食には節度が必要だし、出来るだけ合理的で納得出来る生活や考え方をするように努めるのは、大事なことです。

> 処分はできる方です

それならば、結構でしょう。 「処分が出来ない方」という人も大勢います。

> 物を手放す事が辛く感じて、毎回困って

想像ですが、たぶん、ぱっぱと処分することもあるのではないですか。 自分では、これまで「何を処分するときも、必ず、手放すことが辛くて困りながら処分していた」と思っていても、実態は違うことが結構あると思います。
一度、1ヶ月間、自分が廃棄あるいは処分したものを、毎日記録してみると良いと思います。
実態をしっかり自分で認識すると、それだけでも、感情的に辛く思ったりすることが減ると思います。
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この回答へのお礼

ありがとう

以前、写真を撮って統計を取ってました。

買ったのにちゃんと使わなかった物と、人から貰った使えない物+使った物、だとなかなか捨てられないみたいです。

また勿体ないなら分かるんですけど、勿体ないじゃなくて愛着があって(罪悪感、可哀想って思って)捨てれないんです。

振り返ると、捨てて生活しやすくなったし間違ってないと思う一方で、捨ててしまった罪悪感はやっぱりあります。

背や成績で落ち込む必要はないという話、参考にしようと思います。

お礼日時:2019/12/24 13:07

用語の意味は、人によってだいぶ違うと思いますけれど、『今日携帯を買い換えました。

前の携帯に愛着があり、悲しくなりました。処分はできる方ですが、物を手放す事が辛く感じて、毎回困ってます』というようなのは、『物に感情移入して』とは言わないように、私は思います。
『感情移入:自己の内的感情を対象の側に移入し,それが対象に帰属するものとして体験する場合の心的活動をいう』 投影、投射などのことも感情移入とも言うらしいです。
心理学上の概念の投射・投影は、自分自身の心の内に存在する欲求や感情などの性質を無意識のうちに他者へと投げ入れてしまう(自分自身の感情を対象の感情として移入する)ことよって、そうした自分にとって受け入れがたい欲求や感情などを他者の側に転嫁してしまう心の働きのことを意味する言葉であり、強い片思いの感情を抱いている人物が自らの一方的な感情を受け入れることができない場合に、片思いしている相手の何気ない言動や細やかな仕草の一つ一つに自分自身の愛情を投射してしまうことによって、相手の方が自分のことを好きなっているに違いないという錯覚を勝手に抱いてしまうようなケースや、はっきりとした敵意を向けられているわけでもなければ、明確に非難できる点があるわけでもないものの、何となく癇に障ったり不快な感情を抱かされる人物に出会った場合などに、そうした自分の心の内に存在する嫌悪感や憎しみの感情を相手に投射することで、相手の方が自分のことを不当に嫌っていると思い込むことによって、自分自身の憎しみの感情を正当化してしまうようなケースなど
『感情移入:他人の言葉や表情、態度を見聞きしたときに、その他人の感情や体験を自分がしているかのように感じ取り、喜んだり、悲しんだり、緊張したり、辛くなったり、幸福感を感じたり、共感すること』

ぼんやりとしていたり、何かを懸命に考えていたりしても、自転車をこぐ、道を歩いて角を曲がり駅に着く、箸を上手く使って食事をするなどのことがあるように、身体活動で既習のことは脳と神経と筋肉が自動的に適宜処理してくれます。人間のやることは電気化学的な反応なので、川の流れのように一度形成されるとその流れで処理されるし、その処理が上手くいかないとか、勝手が違うようになってしまうことを忌避・嫌悪するようにも出来ています。 慣れた部屋の作り、モノの配置、形状や用法・手順などが異なるのをいやがる、慣れたものを求める気分になるのは、仕方ないことです。

振られた相手、辛い出来事、恐怖や喪失の経験、嫌な思考や悩みでもう考えたくもないことなどでも、さっさと振り切れないでいる人は多いです。脳の中では、刺激反応系や情動系が古くからある機能で、知的・合理的思考に関わる系統は新しくできたものだそうですが、その両方を持って生きているので、脳は勝手に自律的にいろいろやらかすので、その結果は単純な処理にはならなくなります。期待に舞い上がったり、欲に目がくらんだり、緊張や萎縮でまともな状態を維持できなくなったりもします。試験の時間が限られていることが分かっているのに、三択、五択の選択肢をいつまでも迷いという事態も起こします。今日これからの服や靴、食事の選び決定でも、決めたらそれでおしまいに出来るとは限らず、あれこれ悔悟する人もいます。中には、確認した施錠、やった手洗いでさえも、何度も繰り返しやり続ける強迫状態で困る人さえもいます。 脳機能がそういう原始混合混在で整理さえ付かない状態である以上、買い換え=代替・交換が上手く出来ないひとがいても仕方ないです。それがイヤならば、機種交換で(受取&引渡)がセットの仕組みを利用するとか、自分で対策するのも手です。

多くの人は、試験で満点をえることは難しいです。いくつかは間違えるし、合っていると思って回答したのに間違っていた経験を多くしています。試験問題ではなく、学校生活、バイト、仕事、交友関係、料理、掃除、模型工作、健康増進、美容、ファッションなどでも、『こうやって』というのが上手くいったのか、どうも上手くはなかったのか、その見極めも難しいという経験を数多く重ねています。『自分の決断ややったことの結果がダメだった』のはよく分かっているのです。でも、『自分の決断ややったことの結果が、あれでも、まあそこそこ良かった』のかもしれないという思いもあって、煮えきれない思いや経験が多いのです。 いらない、使わない文房具、利用しない道具類、着ない服、仕舞ったままの新品の靴、飲み残しの薬、読まない本、もう使うこともないおもちゃやアクセサリー、滅多やたらにあっても不思議ではないです。 愛着や思い出の縁のために捨てない、処分しないのではなく、見極めと処分決定ができなかったので、山のように残っるというのは多いです。


仏教では『貪(とん)』というのは、「それは三有(さんぬ)への愛着である。それは苦を引き起こす作用がある」と説明されているそうです。「三界は安きこと無し」という理解があるくらい、生きているというのは、欲を離れることができず、そのことさえも辛く感じて、困るという、根本的な面があるそうです。ゴミ屋敷のようにゴミの中に生きるのが生きるってことなんだと、悟ってしまえば、つらさを感じることも、困ることもないのでしょう。 本当なのかどうかは分かりませんが、研究者や頭のいい人の机の周辺は書類などが乱雑に山になっていて、それをうっかり片付けてはいけないのだそうです。 「いらない携帯を捨てない私も、結構有能なんだ」と思って仕舞えば、辛いとか、困るとかは感じず、悩むこともなくなるのではないですか。
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この回答へのお礼

ありがとう

長い文で説明してくれてありがとうございます。なんとなく理解は出来たんですけど、何回か読み返したんですけど、理解するのに難しく理解できない部分が多かったです。

捨てるのが辛い=捨てられない自分にうんざりしてる=捨てられない自分も悪くはない

って考えると悲しくなくなるって事ですか?

お礼日時:2019/12/22 17:02

なぜこんな事が、起こるのでしょうか?


 ↑
脳が誤作動するからです。

我が子は可愛い。
なぜ可愛いのか、といえば本能という
ことになります。

しかし、本能だけではありません。

生まれて、色々世話を焼いていると
ますます可愛くなって行きます。

そのため、対象が物であっても、
長く接していたり大切に扱ったり
していると、脳が誤作動を起こして
我が子みたいな感覚になってしまうのです。

そのため、物に対する愛情が芽生えたり
します。
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この回答へのお礼

ありがとう

大切にしても愛着が分からない方法ありますか?

お礼日時:2019/12/22 16:49

その携帯で


想い出が沢山詰まってるからかも?
知れないですけどね


良い事も
悪い事も

過ぎてしまえば
想い出だから
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この回答へのお礼

ありがとう

死んだあとに思い出も何もないとは頭で分かってはいるのですが、悲しさが心から離れません。

お礼日時:2019/12/22 16:48

感情移入というか、愛着を持つということですよね。


携帯って相当に身近なものですから、そのような気持ちを抱いてもおかしくはないと思います。
写真撮ったり、誰かと連絡とったりもしますから、思い出も多くあることでしょう。

あなたは物を大事に使っているのではないでしょうか?
物自体には魂も何もないでしょうが、それを作った人たちがいます。
私自身もモノづくりの仕事をしていますが、自分が作った使い捨てに近いものを大事に使っているケースも割とあってとてもうれしく感じています。

手放すのが辛くなるというのは、手元にある間は大事に使ったということでよいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとう

大事に使ったからという言葉で少し心が救われました。優しい言葉をありがとうございます。

お礼日時:2019/12/22 16:46

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