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哲学者は世俗の人と同じ事を喋りえない人格を意味しないだろうか?

A 回答 (5件)

その生き方は凡庸か非凡か、聖か俗か、このように見て考えることは、凡その人がすることだろう。


その中に高貴な魂があるか、もしくは卑俗なそれであるか、そのような判別をして、こっちは善し、こっちはダメ、このように選別すること自体が未だ俗の中にあることの証明でもある。本質を捉えようとするのは、未だ本質が見えていないからです。
一方で、達した人は確かに聖俗を峻別することが出来るが、その人は凡庸の中に聖を検知して、決して他の人を侮らないし、軽んじることが無い。
相手の姿は余すところなく映し出しているが、真実の姿を見ていることを決して悟られることが無い。黒い鏡の様に。
そうでなければ、彼は耐え忍ぶことが出来ぬと悟られて、聖としての行いを成し遂げることができなくなる。
口では我は聖に達したと言う者でも、そのような兆候がわずかにも見られたなら、あいつは俗人だと軽んじられる。

哲人が世俗の人と、そのままで話をすることは難しいかもしれない。しかし、種々の喩えを用いたり、機縁に応じて語る事は出来る。
その話は目の前のその人を縁として生じるのであるけれど、その話の対象は目の前の人だけに限らず、伝え聞いた人や、遠くに影響を受ける人のためにもなる。

学びの源泉は何処にあるのか?
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一つは、自分以外の世の中の人も悩みながら生きていると言う事実があって、そんな人達も肌感で哲学的問いの中を歩いていると言うこと。


もう一つは言語を駆使した哲学的研鑽と言うものがあって、それは一朝一夕に、その研鑽を積んでいない者が理解する事はできないと言うこと。
例えば九九を習ったばかりの年少者に高等数学は教えられない。絵に興味が無く描いても来なかった人に、ピカソを見せても意味不明になる。

さらには、往々にして、哲学には、時代が後からついてくるものと言えるのでは無いだろうか。最近、書店でもニーチェ超訳みたいな本を見かけたけれど、時代がニーチェに追いついたと言う事かなと。哲学だけじゃ無く、色々な文化的産物には伝統的なものと革新的なものがあって、革新的なものには往時に少数の人しか理解出来なかったりする。
文化的産物でなく、科学技術でも、開発されてから汎用化されるまでに何十年とかかったりする。先端と、多くの人が在する現代とでは、すでに開きがあるので、理解出来ないものが世にあるのは当然と思って良いかもしれない。
上手く説明されれば、自分は何でも理解できると思ってるのはある種の傲慢の様な気もする。
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この回答へのお礼

それは違うな?たましいが凡庸だったらそれは哲学的問いじゃないよ?。

お礼日時:2019/12/25 05:12

人に何かを理解してもらうことを目的としてないのだが言い換えれば


他人に理解させるスキルが低い人の集団
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全く違うと思います。



哲学者も科学者もこの宇宙の真理の追求に人生を捧げた人たちのことで、専門性が高いゆえに
一般大衆にはなかなか理解されないということに過ぎないということではないでしょうか?

>世俗の人と同じ事を喋りえない人格

ではないですね。教えを請えば丁寧に教えてくれると思います。
また、そういう人格であるとするということは、哲学者いや、哲学そのものの否定になると思
いますが、哲学を否定したいということでしょうか?
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その通りです。

哲学者は、従来人々の依存する常識を疑うことが、彼らの作業であり、彼らの言語だからです。
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