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今年、私の通っている小学校の宿題で、
「上杉鷹山」について調べてくると言うものがでました。
「上杉鷹山」と言う人は、有名なはずだと先生は言うけど、
教科書には出ていないし、本で探しても見つかりません。
一体、「上杉鷹山」と言う人はどんな人で、どんな事をしたんですか?
どんな事でもいいですから教えてください。

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A 回答 (6件)

上杉鷹山について書かれた本で最も有名なのは、やっぱこれですね。


「代表的日本人」/内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫
鷹山をはじめ、西郷隆盛・二宮尊徳 等の偉人伝です。
数ある鷹山本の本家とも言える本です。
上杉鷹山の部分は文庫で約30ページ位で、立ち読みでも十分いけます。
高学年でしたら難しくは無いと思います。

原著は英語で書かれており、後、ドイツ語・日本語他に翻訳されました。
アメリカ他各国でベストセラーとなりましたが、日本ではそれほど売れなかったそうです。

かつてジョン・F・ケネディ大統領が日本についてスピーチを求められた際...
大統領 「日本人をほめなきゃならん事になったが、なんかいいネタないかなー?」
その部下「大統領、昔読んだ日本の中にいいネタがありました。ほら「代表的日本人」ですって。」
大統領 「おお。こりゃいい。薄い本だし、すぐ読めそうだ。きっとここにでているやつらはみんな日本では有名人なんだろうなー。これをネタ本に使えば、きっと日本人に大ウケだぞ。」
その部下「そうしましょう。大統領。」
大統領 「えーと。この本の中で政治家は~っと。...ふむ、上杉鷹山か~。これでいこうかなっ。」

とかなんとか言ったどうかは知りませんが、ケネディ大統領がウケると信じて上杉鷹山ネタをスピーチで披露したところ...
当時の日本人は、ほとんどが鷹山のことを知らず、ちっともウケず、大統領は大変気まずい思いをしたそうです。
もっとも、その後「ケネディが言ってた上杉鷹山ってだれだ?」ってことになって、日本でも彼のことが再評価されはじめたそうですが。

あと、TVの「水戸黄門」で黄門様一行が米沢へいくと必ず名君「鷹山公」が出てきます。水戸光圀と上杉鷹山では時代が違うのですが、ま、ご当地の有名人ってとこで「ご愛嬌」ってとこでしょうか。
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大人向けの本なので小学生にはチョイと難しいかもしれませんが、


以下の本を本屋さんで探してみてください。(図書館にあるかどうかは不明)

「小説 上杉鷹山」        学陽書房
「解説&ビジュアル 上杉鷹山」 PHP文庫
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NHKで以前ドラマ化し、ビデオもでています。


機会があれば一度ご覧下さい。
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こんにちは。


先にも述べられている通り、天明という年号の時代に浅間山が噴火して全国的な飢饉を引き起こし、ところによっては、死んだ人の肉を切り取って動物の肉だと言って売り歩く人さえいたという状態になったそうです。

その大飢饉のさなか、米沢藩では一人の餓死者もださなかったというゆ~め~なお話があります。

鷹山を語るにあたってちょ~入門的なお話で、知らないと笑われちゃうお話ですのでご紹介します。

参考URL:http://www.lint.ne.jp/~meirokun/youzanV.htm
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戦国武将の上杉謙信から10代目、上杉鷹山は天明の飢饉のころ米沢藩の財政を立て直した事で有名です。



詳しくは下のURL、そしてプロフィールの左側にある「ヒューマニスト:上杉鷹山」をご覧下さい!

http://www.e-yone.co.jp/yozan/profile.htm

参考URL:http://www.e-yone.co.jp/yozan/profile.htm
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下記のページを読むと、どんな人で何をしたか判ります。


じょうずにまとめてね!


上杉鷹山公の生涯 http://www.flowering.ne.jp/yonezawa/NHK_YOZAN/NH …

上杉鷹山
http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/retuden/yo …

上杉鷹山(うえすぎようざん) 10ページ有ります。 
http://www.mnet.ne.jp/~s-oka/youzan01.html
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Q成せば成る成さねば成らぬ何事も情けは人の為ならず

「成せば成る成さねば成らぬ何事も情けは人の為ならず」の意味を教えて下さい。

Aベストアンサー

というか、2つは別の格言です。
「成せば成る・・・」は上杉鷹山の箴言、
http://meigen.shiawasehp.net/a/y-uesugi01.html
「情けは人の為ならず」は昔からのことわざです。
http://www.nagaitosiya.com/a/laissez_faire.html

もしあなたが誰かから聞いたとしたら。その人も混同していたか、ジョークとして言ったものと思います。

別のバージョンとして、最後を「ナセルはアラブの大統領」と言い換えるものもあります。(笑)
http://plaza.rakuten.co.jp/chenpitao/diary/200804100000/

Q上杉 鷹山の財政再建策と成功の度合い

上杉 鷹山(上杉 治憲)に興味があります。
(1)具体的な財政再建策とそれはどの程度成功したのでしょうか?
(2)彼の伝記でおススメがあればお教えくださいませ。

5年前なにげなく立ち寄った伝国の杜に展示されている上杉公の業績の数々に感銘を受けました。
今月末に私も業績不振店の店長を任されます。
上杉公の行動から何かを感じとってみたいです。

最後にもう一点、上杉公は人員削減はどれ位の規模で行ったのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>(1)具体的な財政再建策とそれはどの程度成功したのでしょうか?

まず、最初に行ったのは、「自助努力」の精神を植えつけることから始めました。
例えば、これまでは米作中心で、その米の出来高により「年貢」を決めていましたが、当然、米作は天候に大きく左右され、また、どちらかと言えば「寒冷地」のため、米作での収入(年貢)には限界がありました。
そこで、鷹山が目をつけたのが、寒冷地に適した漆(うるし)、楮(こうぞ)、桑、紅花などでした。これまでは、これらの作物は栽培して収穫すれば、他国へ売買していました。
しかし、鷹山は、「これを加工すれば、もっと高く売れる」と提唱し、自ら桑や紅花などを城中の庭に植えました。
反対派の旧重臣らが、その桑の苗を全て抜いてしまう事件等が起きましたが、鷹山は、何度も黙って植え替えをしました。
そして、家臣、特に、下級の家臣たちにも庭や空いている土地に桑や紅花の栽培を奨励し、例えば、紅花は越後の小千谷(おじや)で紬(つむぎ)になっており、漆は能登で漆器などに加工されて高価で取引されていることを知り、自らの米沢で加工して、少しでも付加価値を付けることを断行しました。実際に小千谷から機織(はたおり)の技術者を高給で呼び寄せ、召抱え、機織技術の促進に努めた。
鷹山いわく「削れるところは削れ、必要なところには必要なだけ出資せよ」。
これには、旧重臣たちは、「我々は農民ではない」と、建議書を突きつけ、「我らは、幕府に主君の交代を訴えるを覚悟だ」と息巻いたが、前城主であった重定が聞きつけ、「このように石頭の連中を重臣に据えていたことが間違いであった」と切腹2名、後は全て謹慎を申し渡し、旧重臣である反対派を解任して鷹山を擁護しました。
やがて、鷹山の改革に共鳴する下級武士たちは、自ら荒地を開墾して新田開発や妻たちは、養蚕をし機織に協力しました。当然、こうした城中の武士たちが手本を見せたことにより、農民たちも、心を開いて、武士(主に下級武士ではあるが)たちと共同して殖産事業に加わることとなりました。
さらに、新田開発あるいは開墾をしていた下級武士や農民たちに、「せめてものわしの気持ちじゃ」と言って、町家から酒を買い入れ(正確には、鷹山の行動に感銘した酒屋の主人が無償で1斗樽を提供し)、陽の燦燦と照る中で汗を流して働く者たちへ一人一人自ら酒を注いで振舞ったという。
また、年号は不明ですが、
米沢城外の松川にかかる福田橋は傷みが激しく、修理が必要であったが、財政が逼迫していたため、藩では修理費が出せずに、そのままとなっていた。しかし、鷹山がまもなく江戸から参勤交代を終えて帰ると知った下級武士たち20~30人が、自ら、山の木を切り、橋の修理を始めた。農民たちも始めは遠巻きに見ていたが、「もうすぐお殿さまが帰ってきなさるんだってよ~」と話が広まり、橋の修理に1人2人と参加する者が増えた。下級武士たちは、彼らなりに、財政が逼迫している中で手当て(俸禄)をあたえられている。せめて、自分たちにできることはないか、と、始めた橋の修理であったが、農民たちも大いに協力し、橋は無事完成。
やがて、江戸から到着した鷹山は、その橋の見事さに感服し、橋の手前で馬を降り、徒歩で渡った。家臣たちは、「殿さまが徒歩で歩く(渡る)とはもってのほか」と、注意をしたが、鷹山は、「皆の汗とあぶらが浸み込んだ橋を、とうてい馬に乗って渡れぬ」と、橋の修理に携わった下級武士や農民の労せをねぎらった、と言う。
さらに、鷹山は、疲弊した農村に五人組、十人組というような組合組織を作り、お互いが協力しあう「互助精神」を作った。
貧しい農村では、老人や障害者は「厄介者」として、肩身の狭い思いをしていたが、働けないなら「庭の池に鯉を飼え」。その餌くらいはやれるだろう、と、鯉の養殖などにも知恵を働かせた。
また、火災や風水害で一村が危機に瀕した折には、近隣の村々が援助をすることも定めた。
鷹山が当主になった頃は、疲弊した土地を去る者も多く、当然、年貢は見込めない時代であったが、「殖産」により農民も生き生きとして働くようになり、鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招き、「長きにわたりご苦労であった」と、酒色や金品を振舞ったという。苦しい時代を共に生きてきた者たちへの「ねぎらい」と同時に、子々孫々まで、この地で生き抜いて欲しい、と言う願いが込められていた。
義父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738人が酒樽を贈られ、鷹山自身の古希には4560人に酒樽が振舞われたという。
まあ、長々と書いてきましたが、結論としては、漆や楮、桑、紅花等の地場産業に「付加価値」を付けることで、ただ単に「物売り」ではなく、「加工」して、少しでも「高く」売買することを思いついたことに、大きな意義があるのではないでしょうか。

>>(2)彼の伝記でおススメがあればお教えくださいませ。

堂門冬二氏の次の本はいかがでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%A8%E4%B8%80%E5%86%8A-%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%AB%A5%E9%96%80/dp/4087485463

>>最後にもう一点、上杉公は人員削減はどれ位の規模で行ったのでしょうか?

極論で言えば、旧重臣(鷹山の反対派)、およそ6~7人の排除だけで、それ以外の「人員削減」は一切していません。
ただし、下級武士・・・例えば、足軽(足軽と簡単に言いますが、武士としては最下位ではありますが、れっきとして武士です)などでは、当然、俸禄だけでは食べていけず、武士を捨てて農民になった者も数多くいます。その人数は歴史書にも書かれていないので不明です。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>(1)具体的な財政再建策とそれはどの程度成功したのでしょうか?

まず、最初に行ったのは、「自助努力」の精神を植えつけることから始めました。
例えば、これまでは米作中心で、その米の出来高により「年貢」を決めていましたが、当然、米作は天候に大きく左右され、また、どちらかと言えば「寒冷地」のため、米作での収入(年貢)には限界がありました。
そこで、鷹山が目をつけたのが、寒冷地に適した漆(うるし)、楮(こうぞ)、桑、紅花などでした。こ...続きを読む


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