【無料配信♪】Renta !全タテコミ作品第1話

戊辰戦争の際の両軍の武器についてです。
大勢として、薩長の新政府軍は、元込め式の最新鋭の銃を揃えたそうですね。
一方、幕府軍は旧式の先き込め式。
この差はなぜ起きたのでしょうか?
(両陣(両体制)の経済力の差によるのですか?
すなわち、もう薩長の経済力は幕府を凌いでいたのでしょうか?)

A 回答 (4件)

戊辰戦争は二年間に渡る戦いで京都から函館までの戦域がある



戦線毎に交戦勢力は異なるので
純粋に装備の差がある時もあれば
統帥の問題の時もある

幕府の直轄軍の場合装備差は小さかったけど
東日本の藩の装備は旧式からの転換が進んでなかった

新式装備は実験的な導入がほとんど

西日本の諸藩は薩摩や長州からの情報や戦訓などで意識変化が始まっていたが
東日本の諸藩は遅れていた
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
個々の事例では異なるのでしょうが
<西日本の諸藩は薩摩や長州からの情報や戦訓などで意識変化が始まっていたが  東日本の諸藩は遅れていた>のですね。
東日本の諸藩では、古くから伝わった武器(ハードの武器という意味でなく)に愛着のある軍人が多かったのでしょうね。

お礼日時:2020/01/03 14:39

幕府はフランスから武器を買っていました。

大砲も、小銃も。当然近代戦に耐えうる最新式です。勿論、大金を支払っています。薩長はイギリスから買っていました。幕府とは比べ物にならないくらい、資金力は劣っていた筈です。戊辰戦争は、イギリスとフランスの代理戦争になる筈でした。長年の太平で武士が戦争を忘れてしまった。だから幕府は戦えなかった。違います。奥羽列藩などの抵抗は凄まじかったです。江戸時代初期に建てられた、会津若松城は、官軍の猛攻撃を受けても落城しませんでした。トイレの捨て場がなくなって開城した、と噂され、会津の人々は怒っています。戦う方法すら忘れたのではないかと言われた、旗本たちも、上野に立て籠り、彰義隊として懸命な抵抗をしました。将軍、徳川慶喜が戦いを嫌って戦争放棄して、大政奉還して身を引きました。将軍も大名も旗本も領地は保持していましたが、やがて没収されました。しかし徳川慶喜は高貴な貴族として、金持ちで暮らしていました。
徳川の埋蔵金、まだ騒がれています。もう見つかっているという人も多いです。見つけたといえば、土地の所有者に大金を支払わねばなりません。文化財に相当するような、貴重な金銀ならば、政府による強制買取もあり得ます。安く買い叩かれると評判です。そして税金を取られます。だから埋蔵金を見つけても絶対に口外しない。当然ですね。でも幕末の幕府に隠すほどの大金があったとも思われないのですが。
しかし日本の城は強いですね。熊本城は加藤清正が築城しています。それが西南戦争で、薩摩が猛攻を加えても落ちなかった。近代兵器にも負けなかったのです。維新の時も、姫路城が籠城していれば、薩長は困ったでしょう。幕府が江戸城に籠れば、落とすのは並大抵ではないでしょう。城はそれだけ強靭にできていた訳です。
最後に、幕府が戦ったとすれば、どちらかが勝ちます。勝った方についていた、欧州勢力が、日本を植民地にしていたでしょう。徳川慶喜が臆病だったお陰で、日本は独立を保てたのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<幕府はフランスから武器を買っていました。大砲も、小銃も。当然近代戦に耐えうる最新式です。>ですね。
ところで、 "大勢" としては、幕府軍の方が最新式の武器を使っていたのでしょうか? あるいは、新政府軍側の方でしょうか?

お礼日時:2020/01/06 08:25

No1です。


下記のサイトも参考までにごらんください。
この方はきちんと資料を調べて書いていますね。

鳥羽伏見の戦い…なぜ旧幕府軍は薩長軍に敗れたのか
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2014/0 …
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
教えて頂いた資料によると
慶喜の戦意のなさと
<惨敗したその用兵は、あまりにも稚拙といわざるを得ない。この戦術の不在と現場指揮官の能力不足こそが、鳥羽伏見戦争の直接の敗因ということになるじゃろう>ですね。
<装備の差が出た>わけではない、とのことですね。

お礼日時:2020/01/03 19:12

はじめまして



以前は、武器に相当の差があったといわれていますが、現在の研究ではそんなに差がなかったといわれています。

薩摩、長州軍には当時世界最強だったイギリスが支援をし、幕府にはフランスが支援をしていました。ですから幕府も最新型の武器を所有していたのですよ。

幕府軍の兵力が圧倒していたにもかかわらず、薩長が勝利したのは、幕府軍の慢心があったこと、薩長が用意周到に迎え撃ったということのようです。当時の書簡などによると、幕府側は進軍さえすれば薩長は撤退すると考えていて、戦争の陣形にもなっていなかったそうですね。

戊辰戦争(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0 …
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<武器に相当の差があったといわれていますが、現在の研究ではそんなに差がなかった>のですね。
両陣営には<イギリス><フランス>の<支援>があったのですね。
勝敗の要因は<幕府軍の慢心があったこと、薩長が用意周到に迎え撃ったということ>によったのですね。
歴史の研究は進歩しているのですね。

お礼日時:2020/01/03 11:12

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