日露戦争付近に、日本から東マレーシアへ送られた「からゆきさん」のことが詳細にのっているHPなどありませんでしょうか?

またHPじゃなくてもいいのですが、日本からシンガポールへの当時の渡航日数などを教えていただければ幸いです。

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A 回答 (2件)

中国新聞04-12-26せ


『戦争の世紀を超えて』の書評
宮崎学さんの書評の中に、シンガポール沖を過ぎ行くバルティック艦隊を目のあたりにした「からゆきさん」が日本領事館に飛び込んで、指輪も簪も戦費に申し出でている。こんな例が沢山あったそうです。必要あればコピー送ります。
当時、明治37年ごろ、島原からシンガポール入港まで29日かかったことが書いてあります。「南オハルさんの話」http://204.3.203.53/oharu.htm
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私も探しています。


「正論」12月臨時特別号p315
「明治国家を押し上げた庶民たちの気概」
に武田元彦さんが書いています。
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Q日清、日露戦争当時の大韓帝国国民の対日、対清、対露感情は?

日清、日露戦争当時、大韓帝国は完全な独立を維持するのは難しく、清、日本、ロシアの何れかの勢力下に組み込まれざるをえなかったのだと推測します。
当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。日本人の勝手な考え方だと言われては困るので、国籍は問いませんが韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

> 韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。

全くこの条件が分かりません。

> 当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。

国民をどの層と考えているのかは存じません。
日清戦争当時、朝鮮は清の属国です。王を中心とした一派は清にすり寄りますが、失政により、最終的に甲午農民戦争という内乱になります。この時の処理の対立が日清戦争の引き金です。
日清戦争では、国王を中心とした一派は清にすり寄りますが、朝鮮という国自体は日本側に立ちます。これは、朝鮮内部の勢力争いの中で、この当時は親日的な勢力が優勢であったということを示しています。

日露戦争当時も国王を中心とした一派はロシアにすり寄りますが、様々な失政のため、国王は数度の暗殺未遂事件を起こされるほどに権威がなく、知識人階級の大部分は一進会に代表される親日的な路線でした。

この流れは、開化派から独立協会、一進会の系譜の中で一貫しています。
彼らは別に日本の傘下になることを望まないのですが、国王一派は当初中国、その後ロシアの傘下に入ることを望んでいました。日本の後ろ盾で独立と近代化を成し遂げようというのが目的です。
この方針は、日清戦争から1910年の併合まで概ね成功しました。彼らは条件付きとはいえ独立を勝ち取っていたからです。しかし、ハーグ密使事件をはじめとする種々の事件などにより、最終的には一進会の側(例えば宋秉畯や李容九)から日韓併合論が出てきています。国王よりも日本を取った、といえそうです。

したがって、知識人に関していえば、
日本のほうが、国王・清・露よりも苦難が軽いと考えていたといえるでしょう。

> 韓国、北朝鮮の人々の心情を、ある程度、代表しえる回答を希望します。

全くこの条件が分かりません。

> 当時の大韓帝国国民は大勢として、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が軽く、どの国の勢力下に入ることが最も苦難が重いと考えていましたか。

国民をどの層と考えているのかは存じません。
日清戦争当時、朝鮮は清の属国です。王を中心とした一派は清にすり寄りますが、失政により、最終的に甲午農民戦争という内乱になります。この時の処理の対立が日清戦争の引き金です。
日清戦争では、国...続きを読む

Q日露戦争当時の日本側軍用地の確保の仕方は?

手元の書籍には現地の民家を買い取って司令部として用いる場面が出てきます。では、兵士の宿舎地の他、軍用地の確保は如何にしていましたか。旅順から奉天まで時々刻々戦場が移動したので広大な軍用地を必要としたのではないでしょうか。

正誤は不明ですが雑多な知識を羅列しておきます。
・当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。
・当時の日本軍は国際法を厳格に守っていた(らしい)。
・遼東半島はロシアの租借地で、このロシアとの交戦国は軍用地代を清に払うべきなのか?。国際法上、どうだったのか? 日本はどうしていたのか?

異説があるのを承知の上で自説を述べるときは、自説の根拠となる資料名の提示もお願いします。
知識がないので実際に即した例を作れないのですが、
例1 用地は清国民から適正価格で買い取っていたという説があるが、実は収奪していた。
例2 用地は清国民から収奪していたという説があるが、実は適正価格で買い取っていた。
仮にの話ですが、例1、例2などを主張するときは自説の裏付けとなる資料名を挙げて下さいませ。無用な水掛け論の防止策です。
よろしくお願いします。

手元の書籍には現地の民家を買い取って司令部として用いる場面が出てきます。では、兵士の宿舎地の他、軍用地の確保は如何にしていましたか。旅順から奉天まで時々刻々戦場が移動したので広大な軍用地を必要としたのではないでしょうか。

正誤は不明ですが雑多な知識を羅列しておきます。
・当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。
・当時の日本軍は国際法を厳格に守っていた(らしい)。
・遼東半島はロシアの租借地で、このロシアとの交戦国は軍用地代を清に払うべきなのか?。国際法上、どうだっ...続きを読む

Aベストアンサー

 なかなか面白い切り口の質問ですね。ただ日露戦争を主計的な目で書き残した資料が記憶する限り見当たらないので、手持ちの資料でも傍証的な資料での回答とさせてもらいます。

>当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。

 当時の米ニュース週刊誌(フォトジャーナリズム)で、日露戦争の間従軍取材を行ったコリアーズ誌(R.F.COLLIER&SON)によれば、戦争の間日本の大部隊が移動した後に、焼き払われた村や集落、略奪された家、さらに逃げ惑う現地人などの姿や光景を見ることは一切なかったと報告されています。外国の従軍記者たちの前だけこのような芝居を打っても、いずれ事実は明らかになることは明白ですので、日露戦争を通じて日本軍の軍規はかなり厳格に守られていたのではないでしょうか。

 対するロシア軍は前線から撤退する際、頻繁に建物や食料に火を放っていたため、日本軍の紳士的な態度はいっそう対照的に見え、各国の従軍記者たちを驚かせたようです。

 また戦闘終了後の彼我の戦死傷者の収容は、敵味方の区別なく行われた記述が幾つも見られていますので、それなりに互いがモラルを持って闘っていたことは歴史的事実です。

>当時の日本軍は国際法を厳格に守っていた(らしい)。

 日露戦争中日本軍は当時日本では屈指の国際法の権威である、有賀長雄を法律顧問として同行させていました。このことからも日本は少なくとも対外的には、国際法を遵守した上で戦争に臨んでいるという姿勢をアピールしていたことは確かです。

 ただ日清戦争時に起きた「銀塊事件」や「旅順虐殺事件」を見れば分かるように、全軍に亘って厳しく規律や国際法を守らせることは、まず不可能だったとも言えるのではないかと個人的には考えます。しかし日露戦争は今もって古き良き時代の戦争というイメージを頑なに守っていることもあって、もし当時不祥事が起きていたとしても、それが明らかになることは今後もまずないと思います。

>遼東半島はロシアの租借地で、このロシアとの交戦国は軍用地代を清に払うべきなのか?。国際法上、どうだったのか? 日本はどうしていたのか?

 残念ながらこの件に関しては、詳細な資料や知識を持ち合わせていません。ただ日本が日露戦争で軍用地代を清国に支払っていたという話は寡聞にして知りません。

 日露戦争を通じて、日本軍は戦地定立病院や包帯所、各部隊の司令部などは民家や廟などを利用していたことは事実です。しかし一般兵士たちや野戦病院などは良くて天幕を設営したり、あるいは塹壕内に横穴を掘った中に宿営したり、いわゆる掘っ立て小屋などを設営しての露営がほとんどだったようです。
 百や千の規模の部隊ならなんとか屋根の下に詰められますが、当時の部隊は5桁6桁の兵士の移動でしたので、いちいち家屋を接収することなどは逆に非現実的だったはずです。当時の日本軍は後の太平洋戦争で、兵站をまるで無視した無謀な戦争を遂行した同じ軍とは思えないほど、緻密で先見の明を持った兵站業務をやり遂げていました。ただ弾薬(特に砲弾)の不足だけは当時の国力の限界を見せつけましたが。

 ではその宿営地の確保に関して金銭的な問題はどうしていたかということですが、これも確証はありませんがそれだけの大部隊を収容させるだけの広大な用地ですので、その持ち主をいちいち探し出すことはこれもまた非現実的でしたので、個人的には無断借用的な(もし地主が居たとしてですが)方法をとったのではないかと思います。

 これも前述のコリアーズ誌従軍記者のレポートですが、日本軍は行軍途中にある畑の作物などは、目に付く限りほとんどのものを一括で青田買いしていて、地元の農民たちに非常に喜ばれていたという記述がありますので、一方的な略奪などはほとんどなかったのではないでしょうか。

 さらに開戦してからの戦地は急激なインフレになり、各国の従軍記者はもちろん、日本軍もその物価の高騰に困惑していたということです。

 以上このような形でしか回答できませんでしたが、多少とも参考になれば幸いです。

 なかなか面白い切り口の質問ですね。ただ日露戦争を主計的な目で書き残した資料が記憶する限り見当たらないので、手持ちの資料でも傍証的な資料での回答とさせてもらいます。

>当時の日本軍は軍規が厳格に守られていた(らしい)。

 当時の米ニュース週刊誌(フォトジャーナリズム)で、日露戦争の間従軍取材を行ったコリアーズ誌(R.F.COLLIER&SON)によれば、戦争の間日本の大部隊が移動した後に、焼き払われた村や集落、略奪された家、さらに逃げ惑う現地人などの姿や光景を見ることは一切なかったと報告...続きを読む

Q『坂の上の雲』当時は本当に日清・日露戦争と呼んでいた?

ネットにこう書いてあるという回答ではなく、当時はどう呼んでいたのか、本当にご存じの方、教えてください

Aベストアンサー

明治27年10月27日号外では
戦争が起きたと言う認識だけです。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/D08/d0821.jpg

俗に言うのはこれ。
http://blog-imgs-26-origin.fc2.com/h/o/n/hontana/20080829214902.jpg

日露号外。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/D08/d0821.jpg

当時の新聞もそうですが、戦争が起きたと言う「事実」と
両軍の動きなどの詳細な事実認識が優先されています。

通称はこれ。
http://image.blog.livedoor.jp/hisako9618/imgs/1/6/16d6d28e.jpg

>ネットにこう書いてあるという回答ではなく

正月なので回答していると心得て下さい。^^;
通常であれば確実にスルー。つ^_^)つ

Q日露戦直後に東清鉄道をロシアが手放していれば

仮定の話で申し訳ございませんが、もし、日露戦直後に東清鉄道におけるロシア帝国の影響力が大幅に減少していたら(例:全線が日本のものになる、アメリカなど、第3国との共同経営になる)、

1.ロシアは満州進出を諦めていたか否か(史実では、日露戦後のロシアはバルカン半島進出に意欲を見せていますが、それがもっと早い段階で現れていたか)

2.日本はロシア軍の復讐戦を恐れずに済んだか否か(ロシア軍の満州における作戦行動が大幅に制限される点に注目)

を、推察で結構ですので、教えて下さい。

Aベストアンサー

>1.ロシアは満州進出を諦めていたか否か

一時的には諦めるでしょうが、完全には諦めず、ロシアに有利な機会が到来すれば、また進出のチャンスを窺っただろうと思います。
ロシアは南下政策ではトルコとも衝突していますが、それは実に400年以上もの長い間、ロシアはトルコと衝突を繰り返し勝ったり負けたりしながら、南下しようという努力をしていました。
たとえ日露戦争で負けて、東清鉄道を失い、すぐには挽回が無理だとしても、年月が経てば戦争の被害は回復するし、日本と中国の関係や列強の力関係、思惑もどう動くかはわからないのですから、完全に諦めてしまう事はないと思います。
一回負けたぐらいで将来に渡り全てを諦めるとは思えません。
史実ではそういう長い歴史の目で見る事は適わずに、ロシアはソ連に変わってしまいましたが・・・


>(史実では、日露戦後のロシアはバルカン半島進出に意欲を見せていますが、それがもっと早い段階で現れていたか)

いいえ。そうは思いません。
歴史的に見れば元々バルカン半島にロシアの目は向けられていますが、日露戦争後の場合は、トルコにおける青年トルコ革命の成功によるトルコ帝国の内紛と、それに乗じたブルガリアの完全独立があった事が大きな要因だと思います。
そうした出来事があった事からロシアはブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャをバルカン同盟として纏め上げ、トルコ、オーストリアというロシアと敵対する勢力への対抗手段の一つにするよう動きました。
もし、トルコでの革命が無く、ブルガリアの完全独立がなされなかったら、ロシアがそこまで積極的に動いていたかは疑問です。


2.日本はロシア軍の復讐戦を恐れずに済んだか否か(ロシア軍の満州における作戦行動が大幅に制限される点に注目)

前述した通り、ロシアが完全に満州を諦める事は無かったと思うので、その脅威は残ったでしょう。
また、満州における東清鉄道などの権益が日本側に渡り、日本軍の影響が満州で強くなると、ロシアにとり今度はシベリアの防衛問題が出てきます。
すぐに日本軍がシベリアに触手を伸ばすというものでもありませんが、脅威がシベリアに一歩近づく事になります。
当時、シベリアのレナ川周辺では金が産出され、ロシアの金生産の25%を占めるほどでした。シベリアでは以後も金鉱山が発見されています。そうしたシベリアはロシアに必要不可欠であり重要な資金源でもありました。
南下政策とシベリア防衛も合わせて、極東ロシア軍の戦力は整備されるでしょうから、日本とロシアの睨みあいになるかと思います。
東清鉄道を失えばロシアにとり軍事力の移動が速やかにはいかなくなりますが、1916年には現在のシベリア鉄道のルートが完成します。
結局はこのシベリア鉄道がロシア軍の軍事行動の要となり、満州への脅威となります。
シベリア鉄道が完全に完成する前の時点でも、日露戦争時点でシベリア鉄道はチタ方面は完成していましたから、その方面からの満州への進出は可能です。


つまり短期的に見た場合はロシアの満州進出は停滞するでしょうが、長期的に見た場合はロシアが捲土重来でまた満州に進出を企む事は充分ありえたかと思います。

>1.ロシアは満州進出を諦めていたか否か

一時的には諦めるでしょうが、完全には諦めず、ロシアに有利な機会が到来すれば、また進出のチャンスを窺っただろうと思います。
ロシアは南下政策ではトルコとも衝突していますが、それは実に400年以上もの長い間、ロシアはトルコと衝突を繰り返し勝ったり負けたりしながら、南下しようという努力をしていました。
たとえ日露戦争で負けて、東清鉄道を失い、すぐには挽回が無理だとしても、年月が経てば戦争の被害は回復するし、日本と中国の関係や列強の力関係、思惑...続きを読む

Q日露戦争後の日露関係。

1905年9月 ポーツマス条約調印。
1907年7月には、第一次日露協約。

日本は、戦死傷者約20万人、戦費17億円?を費やし、国民の不満は爆発して日比谷焼き打ち事件も起きています。
それなのになぜ、戦後2年間ほど経つと日露両国は、協約を結ぶほどの関係ができたのですか。
何が両国に協約を結ばせたのですか。
仲直りするには早ければ早いほどよいに決まっている、と思っていますがすっきりしません。
なお、1916年2月2日の読売新聞には、「露から続々と軍器の注文があって、砲兵工廠では昼夜の分かちなく大多忙を極めている…」とあります。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

主戦場が中国だったので、双方の国民に悪い感情が残らなかったのでは、と思います


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