人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

私は大学で宗教学の授業を取っているのですが、宗教とは何か?という問いに対してある生徒が「人間は皆等しくなんらかの宗教的価値観を持って生活している」という論を展開して大きな議論となりました。その生徒が言うには、「突き詰めると完全に物事の真理を解明する事は不可能であるという点で、科学も一種の宗教である」とのことでした。私は留学生で、ディスカッションするのにまだ言語力が不十分でただ聞いていることしかできなかったのですが、議論として面白いテーマだと思ったので、みなさんの意見を聞いてみたいと思い、質問を投稿させていただきました。ちなみに私は多くの日本人と同じように文化としての仏教的価値観は受け入れつつも根本的には無神論者的視点で物事を捉えています。ここで聞きたい事をまとめると、
1、そもそも宗教の定義とは何か
2、科学は宗教たり得るか
です。

  • 画像を添付する (ファイルサイズ:10MB以内、ファイル形式:JPG/GIF/PNG)
  • 今の自分の気分スタンプを選ぼう!
あと4000文字

A 回答 (22件中1~10件)

宗教の定義:庶民をグループ化する理屈、又そのグループを利用して統一行動を取らせる手段である。



精神論なら真理は1つ『生き物は必ず死ぬ』という事だけで、主義・主張による善悪はご都合主義と言う。

強いて言うなら、悪とは生き物の心身を傷つけること。善にはお節介や自己満足も含まれるので曖昧だけど、私的には万物を労る事…特に女・子供は自分の命を賭けるほど救助を優先する事ですね。
    • good
    • 0

雑学的な観点から神を導き出すのは困難、キリスト教神学から始める、興味本位で議論しても意味がない、聖霊に捉えられなければずーと分から

ないまま取りあえず聖書を読むこれが信仰の第一歩、信仰の定義とは信仰は完成してこそ神に祝福される、キリスト教だけが完璧に完成された、アブラハムによって信仰は完成された、信仰の父!
    • good
    • 0

1.当たり前の倫理観を大袈裟にパフォーマンス、そして必ず幸せになれる…しかし生きているうちは無理かもしれない。


この世を去ってからの世界観、あってない話が多い。

2.科学は宗教ではないと思います、それを取り巻く環境を宗教が利用することはありますが現実的過ぎますから無理。

宗教で必ず得をする人たちがいます、それが宗教の根本であり嘘でもある。
信者とは読んで字の如く、「儲け」の事であり利益を生むものである。
宗教は金の掛かるもの、ボランティアではないのです。
    • good
    • 0

宗教の根源は、誰かが誰かを支配する為に考えた方法。



言い方悪いけど、王を神とする事で、反逆を抑える手段かな。

つまり、宗教の殆どは神なる存在を創り出し、その身内としての誰かが支配をするワンパターンのやり方。

です。
    • good
    • 1

1、について


 A世界の事象を根本的に説明集約する神がいること 
 B教祖(宗教を始めた人)が話した言葉を、文章にまとめた啓典(経典)をもっていること
 C根本的啓典に疑いを持たず、信じる集団(信者)がいること
2について、
 よくある質問で、どちらの立場でも言い逃れが出来る内容です。
 なぜなら、「宗教の定義」が了解されないまま議論がされるからです。
 このなかでもすでに17人の立場の人が、いろいろと言っています。
 また1のA・Bは科学でも当てはまります。
 「神」を「法則」、「教祖」を「発見者」と言い換えれば科学になります。
 多くの神を信じる人はCの立場ですから、「私は正しい」と自己主張します。
 外から見ると滑稽(こっけい)ですが、本人たちは、大真面目(おおまじめ)に議論しています
 
 科学は「真実」を追求する学問であるとか「再現可能な事実」などといっても、信者には通じません。
 宗教と科学の大きな違いと言えば「啓典」に合わない事象や法則が出た時に
「事象や法則を疑い、啓典を疑わない」ためには「事実の解釈を捻じ曲げる(優先する)」のが宗教であり、
「事象や法則」の合理性のためには「啓典(基本法則)」を書き変えるのが、科学であるということぐらいです。
    • good
    • 0

1.遵法や倫理、道徳観のような人間がもつ社会のOS.宗教はそれの1つ。


2.「物事の心理」とは?
    • good
    • 0

人の集りです

    • good
    • 0

>そもそも宗教の定義とは何か



自分の見解は、「死んで無に帰すことへの回避(方法、手段など)を示してくれるもの」
(実際に回避できるかはおいといて)

>科学は宗教たり得るか

自分の見解は、「たり得ない」
「科学」と「宗教」の違いは、第三者が検証できるかどうか。
    • good
    • 0

宗教とは苦行や徳積みによって信念を強化して幸福に繋げる理念


科学も科学教と言う一種の宗教です。
    • good
    • 0

「宗教」と言う言葉を一つの概念として扱おうとすると、様々な要素がくっ付いてきて、全部を説明するには本数冊ぐらいのものになってしまいます。


 なので、もう少しシンプルに「宗教の本質」を考える必要があります。

一般的に「宗教」とは「超自然的な力を信じること」がどの宗教にも共通な要素であると言えるでしょう。

その上で「信じる」という行為は
①道徳的規範を強制する
②自然現象について、超自然的な力を理由にできる
という効果を持つと言えます。

そのため、たとえば為政者は特に①を使って統治行為を行うことが可能になります。つまり「超自然的な力が、この人物をこの国の指導者に選んだ」というように、人々の道徳的規範と統治を一体化させることができるわけです。

このような形で宗教=道徳、というのは広くそして無意識に全世界に広がっていて、だからどこの文化に属していようと「なんらかの宗教的価値観を持って生活している」というのはほぼ正しいといえます。

質問者様は留学生ということですが外国でディスカッションを聞いた日本人ということでいいのでしょうか?
だとすると、イスラムやキリスト教などの一神教文化と、日本の仏教思想や土着宗教(神道など)・儒教的道徳観がミックスされている文化では根本的に「宗教」という概念が異なることに注意が必要です。

もしそのディスカッションが一神教国の価値観の元でおこなわれたなら、無意識の前提として「道徳心=宗教的価値観」になっているからです。たぶん質問者様はこの部分に大いに違和感を覚えたと思いますが、それは日本では「道徳心」が必ずしも宗教(神道や仏教)だけでなく、儒教的な価値観も反映していていて、一神教文化に比べれば宗教に対して距離がある、または多少客観的に見ている、という無意識の前提があるからです。

たとえば、日本の場合「悪いことをすると罰が当たる」など言いますが、これは神道的な価値観が基本であると言えるでしょう。つまり「誰も見ていなくても天(超自然的な力)が罰を与える」という考え方によるからです。
 しかし、同時に「兄弟仲良く」という道徳観は儒教的な孝徳の考え方によるものが中心です。

これが一神教になると「悪いことをすると、死後裁きにあう」となります。兄弟は「同じ親から生まれが、それぞれが神と契約しているので対等」という考えになります。
 だからヨーロッパ言語には兄姉・弟妹という儒教的な長幼を意味する言葉は無く、brother・sisterしかないわけです。

キリスト教の場合は「すべての事象は神の意思」であるわけですが、日本人にとっては「何でもかんでも神の意思のわけがない」という根本的な違いが内包されていることにも注意が必要です。

翻って「すべての事象は神の意思」という文化の人の発言として「人間は皆等しくなんらかの宗教的価値観を持って生活している」という言葉を出したなら、その理解は日本人のそれとは異なることに気がつくでしょう。
 また日本人だけでなく、仏教的な思想をもつアジア人はこの論に違和感を強く感じると言えます。

ディスカッションしていた人々がどのような文化的な背景を持つか分かりませんが「宗教の定義」を「超自然的な力を信じること」という一点に絞って、考えても一神教と多神教(仏教を含む)では宗教という定義がかなり異なるわけです。


②の自然現象について、超自然的な力を理由にできる
という部分については、別の要素があります。それは「人間が知性を持っていること」です。

古代から人間は自然に対して数々の疑問をもっており、科学的な視点を取りつつも科学技術の限界によって宗教的な説明になっていった、という歴史があるからです。

たとえば日本人であっても「地球は太陽の周りを365日かけて回る」と言うこと知っています。ならば元旦の初日の出であっても「単なる365日の1日」にすぎません。ところが日本人は寒いなかわざわざ初日の出を見に行き、万歳三唱や願掛けを行います。これは諸外国人からみるととても奇妙な風習にみえるわけです。

この理由は、日本人の中に「天岩戸の伝説」に代表されるような歴史的事実があり、それが神話化されて今の社会にもうけつがれているからだといえます。これは科学的な説明として地球の自転・公転を知る前に、文化的に重要な事象が刻み付けられたからで、ギリシャ神話やエジプト神話などにでてくる太陽神は、それぞれの文化で「太陽は365日で回る、月との関係で月食が起こる」という天文学が発達するとともに、太陽信仰が薄れたのとはちょっと異なるわけです。

要するに古代であっても「科学的な説明がつくなら、その部分は宗教的な説明から脱落する」と言う事例を人類は何度も繰り返してきているわけです。

となると「科学は宗教たり得るか」にも注意深い考察が必要になるといえます。
この点についても実は一神教文化の価値観と多神教的価値観ではかなり異なる意味合いをもっているといえます。
その点については#11さんが詳しく説明している通りで、事実欧米やアラブの科学者には「科学の精密さを使って『神の存在』を証明する」という考えの人々がたくさんいます。
 
 彼らは「これほど緻密で正確に動く『自然』が偶然に出来たとは考えられない。必ずこれをデザインした存在があるはず」と言い切ります。つまり「インテリジェント・デザイン説(ID説)」です。

ところが多神教の文化や、儒教的な道徳感をもつ人々は「天=自然現象」だと思っていても「それをデザインした存在がいて、その存在が神である」という具合にはなりません。

これは戦国時代の宣教師に日本人の農民が「全知全能の神ならなぜ、今頃になって日本にやってきたんだ?」という疑問を持つのと何ら変わりがないわけです。
 つまり「全知全能で宇宙を作ったなら、当然にその中に日本も含まれていて、知っていたはずだが、1000年もたってからようやく日本に宣教師を派遣するとはどういうことだ?」という疑問になるわけです。

多神教である日本人にとって宗教と科学の関係性は一神教の考え方とは相当に異なるのです。

なので、一神教の人々の考え方からすれば「科学は宗教たりえる」といえます。科学を使って「神は存在する」証明ができると、考えている人が多数いるからです。そしてこのような考え方を神学(スコラ学)と呼びます。

そしてこのような考え方は近代科学が発達した現代に生まれたわけではなく、むしろ「近代科学を産んだのはスコラ学」という関係性にあります。

これが非常に面白部分で、そもそも近代科学の基礎とされるルネッサンス自体が「ギリシャ・ローマ文化を使って神を問い直すこと」であり、これがのちのち近代科学という形で発展していくのですから「科学は宗教たり得るか」というのは問いとしてナンセンスな部分があり、むしろ「宗教(スコラ学)なくして近代科学は生まれたのか?」が本来正しい命題になるといえます。

ただ、これもスコラ学などを知らずに科学を発展させてきたアジア人からすれば意味のない問です。
なぜならアジアの歴史から見れば「科学は神と関係なく発展させることは可能」であることはすぐに分かるからです。ただその場合「近代的な手法」にいつたどり着いたかかは分かりません。

たとえば中国には渾天儀といういわゆる「天球儀」が紀元前から存在していましたが(それを使えば日食も計算できた)、ルネッサンス期の天球儀とちがって、龍や亀などの宗教的モチーフが配置されていて、アジアでは科学と宗教が混然としていたからです
(たとえば、神奈川の寒川神社には天明2年(1782年)に作られた渾天儀がありますが、科学的なモノに龍などの思想的デザインが入っています)

宗教と科学の関係性は、歴史をみれば明らかですが、時代や地域によって異なる前提があり、それを整理しないで議論すれば紛糾するしかありません。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング