ホビーショップで「零式艦上戦闘機32型」というプラキットを買ったのですが、
塗装で本体が濃緑色と明灰白色と2パターンに分かれていました。
32型にこだわらず、零戦をみんな含めて
この2色はどういう時(どういう違い)に使われたのでしょうか。
またなぜ濃緑色の方が有名になったのでしょうか。

A 回答 (4件)

以下のサイトに良い記事があります。


私も小学生の頃、大好きでした。
あの頃は結構正確に鉛筆で書けたけど、もう忘れてしまいましたよ。

http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj1998/10043/in …

参考URLと共に好きなURLです。
戦争を美化するつもりは毛頭ありませんが、これは芸術品だと思います。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/astroboy/
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私も戦争を美化するつもりは全くありませんが、今のジェット機よりも昔プロペラ機の方が魅力を感じます。特に零戦は小さい頃も今も、『戦闘機』としてでなく『ひとつの飛行機(セスナみたいな一般機)』としての魅力が強かったです(なんと表現していいか難しい)。
・・・ついでに参考URLは、とても参考になりました。

お礼日時:2001/08/06 11:38

濃緑色は地上の駐機中の木の間や擬装ネット等を利用して、空から発見されなくする為の色で、


明灰白色はくもなどに溶け込んで発見されにくくするための色ですね。

ミッドウェイ等で空母を失ってからは、海軍機といえども
地上からの出撃が多くなったのでそれに応じて濃緑色が使われたんじゃないかな?

緑でも下側は明灰白色だったと思います。
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この回答へのお礼

お礼をするのを遅れました。ありがとうございました。

>緑でも下側は明灰白色だったと思います。
そうですね。塗装例でも下側は確かに明灰白色です。

空母を失った頃から、かわったのですね。

お礼日時:2001/08/07 18:29

たしか空中戦の時は、明灰白色(当時はこれを銀色と言ってました)が地上から目立たなかったためだと記憶してるのですが



宙返りした時など、ピカッと日光が反射してきれいだったんです。

僕の推測ですが、濃い色のは戦争が激しくなって海外の前線基地の滑走路の付近のジャングルに格納というか置きっぱなしに

する時、敵の目に見つかりにくい濃緑色を塗って隠したのだと思います。

何か戦局が思わしくなくなってからの国防色のような気がしてあまり思い出したくもないし好きではありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
Eivisさんは戦争経験者ですか。思い出させてしまってすいません。
そのような意見を聞くと、とても参考になります
しかし未経験者の私にとってプロペラ機はなぜか好きなんです。

お礼日時:2001/08/06 11:25

肝心の色の事を書いていませんでした。



三菱重工の色(Corporate Colour というのでしょうか?)と聞いたことがあります。
当時は殆どの飛行機が三菱製だったので、その色になったのではないかと思われます。

海軍の指定色ではないと思います。

この回答への補足

お礼は以前したので、補足とさせていただきます。
明灰白色が三菱重工の色で、濃緑色が海軍の指定色ということでしょうか?

補足日時:2001/08/06 11:42
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Q零戦に他社製エンジン

昔三菱が製造した「零戦」には、中島飛行機製「栄」エンジンが搭載されていた。(全機ではないが)
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当時三菱は、自社でエンジンを造っていたはずだが。
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Aベストアンサー

単純に、三菱製発動機では要求を満たせなかっただけのようです。
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Q零式戦闘機の国産化率

有名な零戦は無線機はアメリカ製で機関砲はスイス製であったと聞いたことがありますが,そのほかの機体部分については100パーセント国産のものだったのでしょうか?

Aベストアンサー

零戦の、武装や照準器、無線機は確かに100%国産でなくイギリスやドイツアメリカ等のコピー品もあります。

武装ですが、
7.7mm機銃は、はイギリスのビッカース社製品を国産化したものが付けられ、
昭和12年に正式採用された、97式7.7mm機銃が採用されています。
20mm機銃はスイスのエリコン社製品「FF20mm機銃」のライセンス権を獲得し、
昭和14年に「99式1号20mm機銃」として制式採用したものです。

航空機用射撃照準器。
海軍が、昭和13年に研究用としてドイツから輸入していた「ハインケルHe112戦闘機」及び
「He118急降下爆撃機」に装備されていたRevi C2という初歩的な照準器をコピーして
「98式射爆照準器」として正式採用していたものを使うことになった。

無線機は、国産の96式空1号無線電話機でしたが、雑音ばかりで会話が聞き取れない
ありさまでした。
大東亜戦争前は精度がよかったが、開戦後に真空管の精度が落ち
アースも不完全になってしまったため、まったくと言っていいほど使えなくなってしまいました。

昭和18年になり、新たに「3式空1号無線電話機」が登場し、零戦52型以降に
搭載されましたが、そのときはすでに零戦は諸戦期ほどの活躍はできなくなっていました。

クルシー無線帰投方位測定器は、広い洋上を行動する上で
自分が向いている方向を探知するのに必要なものだったがこの種の艤装品も独自のものが
開発できなかったため、アメリカのフェアチャイルド社が対日禁輸令発布以前に輸出していた
クルシー式RC-4型をコピーしたものを昭和13年に制式採用して使っていました。

当時は、まだ銃や照準機等は世界のレベルに達していなかったので、
ライセンス生産に頼らざるを得なかったのです。

しかし、高力アルミニウム合金を主材とし、外面は全て沈頭鋲を採用したり
軽量化、航続距離の長さ、旋回性の良さ、広い視界、操縦性の良さ等
他国が追随できない技術も持ち合わせていました。

零戦は当時最高傑作の戦闘機で有ったことには変わりません。

零戦の、武装や照準器、無線機は確かに100%国産でなくイギリスやドイツアメリカ等のコピー品もあります。

武装ですが、
7.7mm機銃は、はイギリスのビッカース社製品を国産化したものが付けられ、
昭和12年に正式採用された、97式7.7mm機銃が採用されています。
20mm機銃はスイスのエリコン社製品「FF20mm機銃」のライセンス権を獲得し、
昭和14年に「99式1号20mm機銃」として制式採用したものです。

航空機用射撃照準器。
海軍が、昭和13年に研究用としてドイツから輸入していた「ハインケルHe11...続きを読む

Q零戦と一式戦のエンジンは同じ

むかし、シューマッハのベネトンルノーとデーモンヒルのウィリアムズルノーがタイトル争いをしていましたが、エンジンは同じルノーでした。空力やシャーシはそれぞれの思想があったようですが。

小型軽量エンジンの運動性重視の零戦と一式戦
爆撃機エンジンで速度重視の機首の太い雷電と二式戦
2000馬力でバランスのとれた?紫電、紫電Jと四式戦
似たエンジンから似た用途の戦闘機を開発していますが、どんな思想、工夫で開発したのしょうか。

零戦は機銃4丁で軽量化するため、防弾をうすく、一式戦は機銃2丁で、そのぶん防弾を厚くしたのでしょうか。いろいろおしえてください。

Aベストアンサー

sumiyoshigawaさん、こんにちわ。


似たエンジンから似た用途の戦闘機を開発していますが、どんな思想、工夫で開発したのしょうか。


それは陸海軍の性能要求によって決められるのであって、メーカーの設計思想で決まるのではありません。
たとえば、陸軍機は陸伝いに補給をするので、航続力を重視していないので、防弾に余裕がありましたが、海軍機の場合は大海原ですので、補給ができないので航続力が必要となり、防弾が軽視されたというようなお話があります。
ただし、雷電と紫電改は局地防空戦闘機なので航続力が犠牲になり、その分防弾が施されています。エンジンは質問者様がお書きのとおり、大体共通性がありましたが、武器弾薬についてはバラバラで共通性がなく、最後まで統一されませんでした。
詳細は下記のURLを参照ください。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
鐘馗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BC%8F%E5%8D%98%E5%BA%A7%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
疾風
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F



零戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AD%E6%88%A6

雷電
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E9%9B%BB_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)
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sumiyoshigawaさん、こんにちわ。


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それは陸海軍の性能要求によって決められるのであって、メーカーの設計思想で決まるのではありません。
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Q零戦の機体の色

零戦は最初の方は白かったのに、五十二型あたりから緑色になりましたが何故でしょうか?

Aベストアンサー

他の回答者の方々が書かれているように、五十二型以前の機体にも濃緑色で塗装された機体はあります。太平洋戦争開始時は銀あるいは灰白色の機体がほとんどでしたが、中期以降濃緑色で塗装される機体が増えました。

これは米軍機が、対零戦の戦闘方法を変えたことによります。零戦は徹底的な機体の軽量化により、航続距離の延長と低空での運動性能の向上を図った戦闘機でした。それに対して米軍機は機体が重かったため旋回能力が低く、格闘戦には向いていませんでした。しかし高出力のエンジンを積んでいたため、直線での高速性では優っていました。

米軍は昭和17年にアクタン島に不時着した無傷の零戦を入手し、零戦の運動性能の高さと防弾能力の欠如を知りました。その後零戦とのドッグファイトを避け、上空からスピードを付けて急降下しつつ銃射し離脱する、いわゆる一撃離脱戦法に切り替えました。

それに対して、エンジンの出力に劣る零戦は、有効な対抗策を採ることができませんでした。零戦の濃緑色塗装が機体上半分のみに限られていることに気付かれましたか?これは上空を飛ぶ敵の機から発見されにくくするため、機体に迷彩を施して、少しでも帰還率を上げようと図ったからなのです。

他の回答者の方々が書かれているように、五十二型以前の機体にも濃緑色で塗装された機体はあります。太平洋戦争開始時は銀あるいは灰白色の機体がほとんどでしたが、中期以降濃緑色で塗装される機体が増えました。

これは米軍機が、対零戦の戦闘方法を変えたことによります。零戦は徹底的な機体の軽量化により、航続距離の延長と低空での運動性能の向上を図った戦闘機でした。それに対して米軍機は機体が重かったため旋回能力が低く、格闘戦には向いていませんでした。しかし高出力のエンジンを積んでいたため...続きを読む

Qなぜ零戦はエンジン周りだけ黒いのでしょうか?

 太平洋戦争で活躍した零戦を見ると、どの写真でもエンジン周りのカウリング部分だけが黒に塗装されています。
同時代の他の戦闘機についても調べてみたところ、以下のようになりました。

機首全体が黒・・・零戦、96艦戦
機首の上面だけが黒・・・隼、飛燕、雷電
機体と同じ色・・・紫電、鍾馗、疾風、5式戦、双発機全般

機首の上面だけを黒く塗っている場合も多々ありました。
機首を黒く塗る理由は何でしょうか?

Aベストアンサー

 機種を黒く塗装する理由は、反射を防ぐためです。

>機首全体が黒・・・零戦、96艦戦

 零戦が支那事変に登場した際には、機体全面が無塗装であったため機首を全面黒塗装しました。その後空母に搭載するのに零戦や96艦戦や99艦爆、97艦攻など艦上機が防錆をかねて明灰色塗装した際にもやはり黒塗装を施しました。

 このカウリング黒色塗装は、このほかオレンジ色(橙色)塗装の練習機にも使われています。これを『反射防止塗装』と称したようです。つまり、銀色や明るい色で反射しやすい塗装のばあいに機首を黒色したことになります。


>機首の上面だけが黒・・・隼、飛燕、雷電

 日本陸軍機のばあいも無塗装や銀色系の場合は、隼、鍾馗、飛燕など上面を艶消し黒色塗装しています。

 上面黒色の雷電の写真ですが、これは戦後アメリカ軍がテストした時のもので、雑誌『航空ファン』1966年4月号にその詳細が書かれていて、アメリカ軍もやはり全面銀色だとまぶしかったようです。


>機体と同じ色・・・紫電、鍾馗、疾風、5式戦、双発機全般

 機体色が濃緑色後は、機種を黒くしなくても苦労はしなかったようで、渡辺洋二『隊員たちの写真集 本土防空戦 海軍航空隊篇』のなかに「霞空の零戦にはカウリングの黒色塗装を落とし上面だけ黒色塗装をしたものが何機かあった~」(同書21ページ)とあります。

 

 機種を黒く塗装する理由は、反射を防ぐためです。

>機首全体が黒・・・零戦、96艦戦

 零戦が支那事変に登場した際には、機体全面が無塗装であったため機首を全面黒塗装しました。その後空母に搭載するのに零戦や96艦戦や99艦爆、97艦攻など艦上機が防錆をかねて明灰色塗装した際にもやはり黒塗装を施しました。

 このカウリング黒色塗装は、このほかオレンジ色(橙色)塗装の練習機にも使われています。これを『反射防止塗装』と称したようです。つまり、銀色や明るい色で反射しやすい塗装のばあい...続きを読む

Q二次大戦中の日本の現状(軍、一般市民も含め)

あるきっかけでバンザイ突撃というものを知りました。
衝撃を受けました。

そこで二次大戦中、言い方悪いですが日本がおかしくなっていったころの日本について知りたいです。

なにかいいサイトありませんか?

Aベストアンサー

質問者さんは慶應SFCの学生さんのご様子ですね。
大学の図書館で本を読んで調べてみようとは思われませんでしたか?
「戦時中の日本」に関する本は10冊や20冊見つかると思いますよ。

ただ「バンザイ突撃」と言う言葉すら大学生になるまで知らなかったと言うことは、過去の日本についての知識はほとんどないみたいですね。まあ、高校の授業や大学受験の日本史で「バンザイ突撃」については勉強しないとは思いますけど。

中央公論の「日本の近代」シリーズでも通読して日本史の基礎を身につけてから「二次大戦中の日本の現状(軍、一般市民も含め)」を調べても遅くないと思いますよ。

もっと本格的に行くなら、同じく中央公論の「日本の歴史」シリーズです。私はこれが家にあったので中学の時に暇を見て全巻読みましたが、実に面白く、私の日本史の知識の基礎になりました。

「日本の近代」も「日本の歴史」も大学の図書館に必ず備えてあるでしょう。質問者さんは地頭は良い筈ですから、本を読む努力を怠らなければすぐに日本史の素養が身につくはずです。

Q旧海軍の零戦搭載エンジン、アツタ型について教えて下さい。

アツタ型エンジンは愛知航空機が生産していたと聞きますが、このアツタは今の名古屋市熱田区の熱田と関係があるのでしょうか? チョット気になりお聞きします。何か教えていただければ有難いです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「旧海軍の零戦搭載エンジン、アツタ型について教えて下さい」なんて言われると困っちゃうんだよね。だって、零戦のエンジンは「アツタ」じゃなくて「栄発動機(さかえはつどうき)」なんだから。

でも、ご質問の本文の方では愛知航空機とアツタ型エンジンについて質問されていますから、こちらが本命なのだと思って回答します。

海軍九六式艦上戦闘機のエンジンは「寿(ことぶき)」、零式艦上戦闘機のエンジンは「栄(さかえ)」、紫電改のエンジンは「誉(ほまれ)」といった具合に、海軍では戦闘機のエンジンに縁起の良い名前を付ける伝統がありました。

一方、彗星艦爆に装備されていたエンジンの名称は、熱田神宮にあやかって付けられたそうです。私がこの話を戦記雑誌の「丸」か何かで読んだのがかれこれ半世紀も前の事なので、今回このご質問に回答するにあたって裏付けとなる資料を見つけようと思って捜したのですが、あいにく見つけることができませんでした。ですので、この話を断定することができません。そのように伝えられているという程度にご理解いただければと思います。

熱田神宮は皇室とも関係のある格式の高い神社であり、皇室の先祖の危難を救ったと伝えられる草薙の剣(くさなぎのつるぎ)をご神体として祀る武運長久の神様でもあります。そのようなことから、皇国の危難を救うべき軍用機のエンジンの名前に採用されたのではないかと想像します。

>「栄」ですがこれも名古屋市中区栄に関係しているかも?

う〜んこれはどうでしょう ??? 私たちは零戦といえばプラモデルか写真集のイメージで捉えがちですが、当時は世界トップレベルの性能を追求して技術の粋を結集し、膨大な国家予算(軍事予算)を投じて開発・生産され、我が国の命運を左右すると信じられた最新兵器だったわけです。言葉は悪いのですが、そんな「行き当たりばったり」な命名をしたとは到底思えないのですが...。

「旧海軍の零戦搭載エンジン、アツタ型について教えて下さい」なんて言われると困っちゃうんだよね。だって、零戦のエンジンは「アツタ」じゃなくて「栄発動機(さかえはつどうき)」なんだから。

でも、ご質問の本文の方では愛知航空機とアツタ型エンジンについて質問されていますから、こちらが本命なのだと思って回答します。

海軍九六式艦上戦闘機のエンジンは「寿(ことぶき)」、零式艦上戦闘機のエンジンは「栄(さかえ)」、紫電改のエンジンは「誉(ほまれ)」といった具合に、海軍では戦闘機のエンジンに縁起...続きを読む

Q四式戦闘機、五式戦闘機、紫電改どれが最強だと思いますか?

四式戦闘機(疾風)、五式戦闘機、紫電改どれが最強だと思いますか?私は急降下速度と20ミリ機銃胴体装備の点で五式だと思うのですが・・・

Aベストアンサー

私の持っている本に、No.3の答えの記載とおなじで、「戦後の米軍の調査で日本の陸海軍戦闘機中で四式戦(疾風)が最優秀と評価された」と書かれています。
五式戦、紫電改の生産機数がそれぞれ約400機に対し、四式戦は約3300機と多く、実戦を経て改良が良くなされている為と思われます。
性能的にはたいした差はないでしょう。

Q零戦と1式戦隼の後継機は

零戦は96艦戦の後継機、1式戦隼は97戦の後継機です。
1)零戦の後継機烈風は実用化されませんでしたが、1式戦のあとは2式戦しょうき(変換できず)、2式複戦屠龍、3式戦飛燕、4式戦疾風、5式戦と多数開発されてます。この違いは何でしょうか? 陸軍と海軍はあまり連絡がよくなく、新機開発の考え方も別だったようですが、他にもありますか。
2)零戦は空母だけでなく、地上基地でも多数使用されました。陸上戦闘機という点では雷電、紫電、紫電改も艦戦ではないですが、後継機と見ていいのでしょうか。特に紫電改は4式戦とならんで日本の最強戦闘機と位置づけられていますが。
3)一方、陸軍機も2式戦、2式複戦は1式戦とは用途が異なるので後継機とはいえなさそうで、3式戦もエンジン不調で、実用的な後継機というと4式戦と5式戦でしょうか。

Aベストアンサー

1)陸軍は「隼」を挌闘戦メインの軽戦闘機、「鍾馗」を一撃離脱型の「重戦闘機」と位置付けて別個に開発していました。
 つまり、侵攻/制空任務を軽戦に、防空任務を重戦に振り分けて別の機体を整備した方が戦果は挙がる、という思想です(更に言えば、挌闘戦偏重だったものが、欧州から遠く漏れ伝えられる戦訓から、優速を活かした戦法もアリらしい、ということにこの時期なってきていた)。
 更にこれらの後継機(「疾風」。計画段階では鍾馗の出力向上型だったが、重戦・軽戦の枠は考慮されていない万能を目指した)や、ドイツ伝来の液冷エンジン試用機(重戦・軽戦の開発が試みられたが、軽戦型が優良であるとされ、これが後の「飛燕」。設計陣は「中戦である」という意識を持っていたという)、とこれの胴体のリサイクル品(5式戦)と様々なラインが混在していたのが、多数の種類を産み出す原因でしょう(あと、中島の設計陣が厚かった、というのもあるかもしれません)。
 対して海軍は基本的には空母に艦載機を積んで作戦をします。空母は陸上基地よりも運用できる機体数で制限を受けるわけで、そこで軽戦と重戦を混載するなどと言うことは到底出来ません。そこで、どっちにも使えるモノを目指していました(例えば当時としては大口径な20粍機銃は迎撃も視野に入れての搭載です)。

2)、3)後継機、という概念によると思います。
少なくとも極地戦闘機は「艦載」でない以上、零戦の正統な後継機だ、とは言えないでしょう。しかし、末期には載っける船なんか無かったわけで、海軍航空隊が手にした主力戦闘機、と言う意味では後継機であるという言い方も出来ると思います。
 同様に、陸軍でも大戦後半には「重戦」「軽戦」の区別は限りなく薄くなっていますし、そもそもそんな余裕も無くなっているわけでして・・・

1)陸軍は「隼」を挌闘戦メインの軽戦闘機、「鍾馗」を一撃離脱型の「重戦闘機」と位置付けて別個に開発していました。
 つまり、侵攻/制空任務を軽戦に、防空任務を重戦に振り分けて別の機体を整備した方が戦果は挙がる、という思想です(更に言えば、挌闘戦偏重だったものが、欧州から遠く漏れ伝えられる戦訓から、優速を活かした戦法もアリらしい、ということにこの時期なってきていた)。
 更にこれらの後継機(「疾風」。計画段階では鍾馗の出力向上型だったが、重戦・軽戦の枠は考慮されていない万能...続きを読む

Qドイツは西ドイツと、東ドイツにいつ分かれたのですか。また何故分かれたの

ドイツは西ドイツと、東ドイツにいつ分かれたのですか。また何故分かれたのですか。さらにどういうきっかけで、いつ併合したのですか。ベルリンの壁についても教えてください。

Aベストアンサー

ベルリンの壁の方は分かりやすいサイトがあります。

ここのサイトは簡単に教えてくれるのでいいと思います。

参考URL:http://www.mauer.jp/top_j.html


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