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スポーツにはまったく縁がない者です。
「空手家」とよく言いますが、「空手をやっている人」とは明らかに響きが違いますよね。
「空手家」は段を持っている人の呼び名でしょうか?
ある知人は以前空手をやっていました。しかし空手では試験を受けませんでしたので段は持っていません。
この人の場合は「空手家だった」とは言えないのでしょうか?

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A 回答 (7件)

Gです。

 大晦日に間に合いました。 <g>

まず、変換誤字がたくさんありました。 ごめんなさい。 未知(道)、意思(石)、何ですね(なんですね)などすみませんでした。

続きです。

もう少し道の事について書かせてください。

空手道を考える時に道とはと考えさせる指導員をもっともっと作っていきたいと思い教え始めて早くも20年近くなります。

今どれだけの自称師範と呼ぶ人がその道を作り上げた恩師を心から尊敬しその道を毎日24時間歩もうとしているのだろうか。 道は生きるために必要な物でなくてはならないのです。 毎日の生活に使えないものがなぜ道と呼ぶことができるのでしょうか。 自分を毎日知識、精神力、体力全てを鍛えるのが道なわけです。 人生の歩みは歩くようにできた道を歩む事であり、歩み事で自分を向上させる糧でなくて何のための道でしょうか。 空手道はその道のひとつに過ぎません。

武道にしろ空手道にしろ、道が見え始めるために級と言うレベルがあるわけです。 初段は段の始めであり一段ではないですね。 有段者として有級者から脱皮しなくてはならない事を表すべき物です。 

今どれだけの有段者が「一撃必殺」の有意義な意味を理解しているのでしょうか。 人間と言う生き物を一撃で殺す能力の重要性とはどこにあると考えているのでしょうか。 打ったり蹴ったりして人を痛める技を教える指導員は何を考えて教えているのでしょうか。 「使っちゃいけないよ」と教える事がいかに矛盾している事なのか一瞬でも考えた事があるのだろうか。 一生使えるように教えなくては意味がなくなります。

空手小屋から空手家に脱皮するためにどれだけの努力をして、空手の家に住めるようにしているでしょうか。 一撃で人を殺せるようになるだけが目標では小屋でも良いから雨を凌げば家と言えると言うのと変りありません。 ドアをつけ窓をつけトイレをつけキッチンをつけ水道を引き電気を引き電話線も引き、生活に必要な物を備え、食物を蓄えられ、たまにはゆっくりお風呂に入れるようにするだけでも多くの努力や犠牲とも思われる事をしなくてはなりませんね。 それらをするから有意義な家が作られそれが向上と言うもの以外ではないと言うわけです。

いろいろな小屋を何年もかけてやってもこの人生の喜びが得られ、努力と苦労をする事無しには喜びを感じる事を実現する実力はつかないわけです。 あれもやりこれもやりでは所詮いろいろな小屋を作ったに過ぎないわけです。 いろいろな幼稚園に通うだけで年だけ大人になると言う事と同じなわけです。 それが結局「我流」と言う物になってしまうわけです。

日本語に大家と言う単語がありますね。 上に書いた「家」の観念が組み込まれた物だとお分かりだと思います。

実力は自分の物だけではなく分け与える事ができるだけの実力を持つ事が結局向上心を高め、試練に立ち向かえる人たちを導く事にもなるわけです。 板と板との間に箸や鉛筆などを入れ隙間を作り割りやすくして割った所で所詮板を重ねただけの数枚を割る実力にはならないわけです。 そして割れる実力、破壊力、を道を行く者として、何のために持たなくてはならないのか、どれだけの自称師範が分かっているのでしょうか。

柔道や剣道が道といいながら結局はボクシングやフェンシングと変わりないスポーツに成り下がってしまったのはある意味では当然の結果と言う事になるでしょう。 柔道が競技として認められたにもかかわらず「競技としてのポイント制を今後取り入れる」と言う国際連盟での話があると「本家としての一本制をとる日本としては恥じる事だ」と言うコメントが出る事自体が柔の道と言う物が日本には存在するのかと言う疑惑も私には理解できます。

ご質問の空手家・空手道の沿った私個人の信じるところを長々と書いてしまいましたが、runbiniさん以外の方々にもこの回答を読んでくださり、こう言う古びた考えもまた残っていて新年からのトレーニングの糧にしていただければと思い書かせてもらいました。 なお、これらは全て私個人の信じる事であり、私の弟子でない限り押し付けようとも理解していただく事は期待しておりません。 また、これらに対して他の回答者による反論や批判はお断りしますのでよろしくお願いいたします。

もうそろそろ日本では新年を迎えますね。 来年がよりすばらしい年になる事を一万キロはなれたところから祈っています。 

この回答への補足

空手暦40数年の知人が皆様の回答を読んでどなたも素晴らしいと言っていました。特にGanbatteruyoさんについて「いちいちごもっともと言うのが感想ですが、これだけ懇切丁寧には感心します。余程お優しい方でしょう。」とのことです。私にとって未知の世界の方々から回答がいただけて嬉しいです。改めて皆様に御礼申し上げます。

補足日時:2005/01/06 07:30
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この回答へのお礼

道とは、家とは。新しい年を迎えるにふさわしい良いお話でした。後者の知人にも読んでもらいます。遠い記憶の中の、アジアのある偉大な人を思い出しました。空手家(に限らず武道家)は道を歩む人を指すのですね。ありがとうございました。私もそんな生き方ができたらと思います。
お先に2005年に行ってお待ちしています。今年は大変お世話になりました。来年も皆様にとって良い年でありますように!

お礼日時:2004/12/31 23:19

Gです。

 ごめんなさい、補足があるのに早く来れなくて。 今日が道場での年収めとなります。 

>昔は空手道と言っていたそうですが、この空手家の話と関連がありますか?

今も空手道と言います。 ただ、空手道といえることをやっているかと言うと疑問が残るのが多いということです。 空手道や武道など 道という名前のついたものはそれなりの認識を持っていなければ呼ぶ「価値」がないと私は思っています。 空手道らしきことやって自称空手道が多すぎると言う事でもあります。

道とはその上を歩む物でなくてはなりません。 その横を沿って流れている物が「流派」なわけです。 ですから、どの流派でもその道に沿っていなくてはならないということでもあります。

いろいろな道を行ったり来たりしていてはその道を見ることができません。 それは教えるものがどれだけ深く広くその道を知っているかによって変ってきてしまいます。 しかし、道は全て同じ所へたどり着きます。 道が違うだけの事です。

たどり着く事が武道の道ではなく、歩く事が未知なわけです。 舗装された道の時もあるでしょう。 また、いばらの道も待っています。 川や山を自分の足で一歩一歩越えるのが武道の道と心得なくてはなりません。 そうする事で道端の意志を拾い不滅を感じ取り、野菊の美しさを感じ、雑草の力に感動し、体にも精神にも傷を受け治し方を知り今後の傷を防ぎ方を知り、必要であれば「殺す」技術も磨きながら道をいくわけです。 ハイゥエイを車で走ってはこれらの事は分かりませんね。

あれをやり、これをやり、では武道の奥の深さが分かるわけがないのです。 なぜ、級や段があるのか。 これらはその道でどれだけ歩いたか、ではないのです。 あくまでも、次の試練(次に体系付けられて仕込まれた指南)から習える準備ができたかどうか、何ですね。 

数字を知らなくては1+1は習えないし、1+1が分からなければ微分積分を教える事はできません。 アルファベットを知らない人に英作文は教える事ができませんね。 白帯で白帯のことを習うのは白帯びを卒業するためではなく、次の帯で習う事が出来る自分を作り上げると言う事に過ぎません。 ですから、当然のごとく黒帯を締めるということは黒帯で習うべき事の準備ができていると言う証拠でなくてはならないわけです。

しかし、この根本的なことが分からなくて、試合の練習をし昇級/昇段試験のための練習をし、型の動作の順序を覚えただけの「空手道」では「作法」なら分かっていても何段であろうと本当の意味での空手道たる道が分からないわけです。

全ての名前のついた「技」は物理的に使い物になりません。 使うために習う物ではないからです。 まず、ここで「疑惑」「挫折」が起こります。 しかし、教えるものがしっかり導く(いい言葉です。道をいくために手を引いて歩く、と言うことです)事で、これらの技から100も1000も使える本当の技を教える事ができるわけです。 これが立ち方であろうと、けり方であろうと、殴り方であろうと、全く同じ事です。 

重心を下げて立つ事を賞賛するだけの教え方では習う事は何もありません。 これらの技はあくまでもアルファベットや数字に過ぎません。 型は単語のスペルに過ぎません。 これだけよくできても文章は作れませんね。 英語カテの私の回答を見ていただければひとつの筋が見えると思います。

各種の武道をやる事は結局我流になってしまうと言う事実が起きてしまうのはここなわけです。  何年もかけてひとつの武道の真髄がわかって初めてその道が見えてくるわけです。

ごめんなさい。 道場に行かなくてはならないので、もう少し締め切らないでください。
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この回答へのお礼

お忙しいところ奥深いお話をありがとうございます。
道のお話感謝します。級や段はご褒美でもまして飾り物でもないわけですね。「道」を歩んでいる人が次の試練の準備ができているという証なんですか。日々努力されている方に頭が下がる思いです。前者の彼は今年は日本に来れなかったので空手道場見学は来年になりそうです。関係ない私一人で行くには勇気が足りません。後者の彼はエライさんなので道場を経営しているわけではありません。話していると生々しいお話はどんどん出てきますけどね。気楽に質問したつもりですが、さまざまお聞きできて嬉しいです。ご存知のとおり私は空手をわかったつもりで云々言っているのではありません。あくまでも自分に無いものを持っていらっしゃる方々のお話をうかがっているだけです。この質問は来年まで開店しているつもりです。お時間がある時にまた書き込んでやってください。

お礼日時:2004/12/30 10:54

1本ちゃんと道が見えていれば何も文句は言いませんし、喜んで門出を祝いましょう。


また戻ってきたら喜んで迎えいれましょう。

ただ、大体が戻らず、中途半端で次に移り、終えてしまうから「いけない行為」とされています。

師匠に自分の考えをぶつけてみれば、今度はこうしてみろと逆に教えられるでしょう。
道もおのずから見つかり、
困ったら師匠に相談すれば良い事です。
この人は前に進めます。

これを勝手気ままにやれば永久に我流になるだけです。

いけないとは言いません。
やり方(出家の仕方)が問題なのです。

この回答への補足

ここをお借りして皆様にお礼を申し上げます。
武道には試合がありますよね。の~んびり暮らしている私にとっては、優劣を決めて順番をつける(あるいは序列に組み込む)という感覚は普段あまりない世界です。
そして生き方そのものが武道ということも。
ですから武道をされている皆様がおっしゃる事はなるほどと思い、とても参考になります。

補足日時:2004/12/29 22:45
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この回答へのお礼

やめ方なんですね。この人は戻ろうと思えばすぐにでも受け入れられます。しかし生活が変わってしまったのでしばらくは無理でしょう。この人が真の空手家であったかどうかは死ぬ前にわかるというわけですね。

お礼日時:2004/12/29 22:42

そもそも、なんで「空手家」という表現を使いたかったのでしょうか?


そこが見えないと、なんとも言えません。

そういうひとつの型に嵌った考え方自体が、武道と呼ばれるものを30年ばかりやってきた私には違和感を覚える次第です。

空手家,柔家とか関係なく、自分が何者(どういう生き方・価値観を大事にしていく者かという意)なのだと名乗れればそれで良いのです。
たまたま、自分が何者かを見つける触媒だったものが空手なりなんなりであっただけなのではないでしょうか。

「空手家」なるものは、まずは本人が自称し、かつ周りがそれを認めれば誰でもなれるのです。



先の回答にあったところが気になるので、指摘をしておきます。

宗教の世界は理の世界です。
理が自身に混在しているのであれば、自身で宗派を開けば良いのです。
破門とは、その者が属していた世界がその者を追い出そうとする行為です。
その者が、その理で生きている人間であれば大きな問題でしょうが、既に自身の理が違うところにありそれに拠っているのであれば、(経済面以外では)苦にもならないでしょう。

また、落語・相撲のくだりがありましたが、それもまた関係ない話です。
派閥を2股することが許されないのと同じ理由なので、ここで論議する対象ではありません。
派閥の領袖が起こす嫉妬や愛憎,自己顕示欲が元でおこる話(破門)である以上、当人の生き方・在り方を当人が考える上では全くどうでもいい話です。

なにかしらの庇護を受けたものは、その庇護者に恩を返さなくては成りません。
そのときに、庇護を返す先が2つあるばかりに身動きできなくなる状態を庇護者は嫌うのです。
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この回答へのお礼

> そもそも、なんで「空手家」という表現を使いたかったのでしょうか?
> そこが見えないと、なんとも言えません。

ちょっとした知り合いが空手をやっていて海外本部長なんです。ほかの知り合いは空手をやっていました。今度空手家の事を書いた本を読みます。という、この普通の人の環境で考えて、「空手家ってどういう人のことを言うんだろう?」と素朴に思ったので質問させていただきました。

> なにかしらの庇護を受けたものは、その庇護者に恩を返さなくては成りません。
> そのときに、庇護を返す先が2つあるばかりに身動きできなくなる状態を庇護者は嫌うのです。

なるほど。深いお話をありがとうございます。本人が空手家として生きれば、そして周りも認めれば空手家なのですね。

お礼日時:2004/12/29 21:27

こんにちは。

^^
私もGさんの意見と似ています。

テコンドーをやり、空手もなさっているようです。
強い武道家である事は認めますが、

空手家とは言えないと思うんです。
道は1つですから、勝手に2個に増やされても困ります。
空手の足技は、空手で克服して己を磨くのが普通で、
楽に足技を他から取ってくるのはいかがな物でしょう?

強くなりたい。
これは勝手ですが、空手道からは外れています。
K-1目的や、自分の流派を作るなら話は別ですが、
もう、空手家と称すのは止めて頂きたい。
武道家と称してほしい。
これが実情なのではないでしょうか?

武道家だとは認めます。
しかし、「空手家」はもう一方の方に失礼だと考えます。

もう一方の方は、自分なりの道を進む立派な「空手家」だと思います。
段が無くても、暫く(かなり長期に渡り)休部していたとしても、空手家だと思います。

少なくとも私はGさんより相当甘い考え方です。
それでも、2また道は考えものです。

落語、相撲、日本料理界、宗教界なら、即破門の振る舞いだからです。

この回答への補足

ところで「道は1つですから、勝手に2個に増やされても困ります。落語、相撲、日本料理界、宗教界なら、即破門の振る舞い」なのに、武道では柔道○段、空手○段、剣道○段、合気道○段、あわせて○○段、とかいう方も多くいらっしゃいますよね。この方たちはどうして認められているんでしょうか?また、この方たちを柔道家、空手家、剣道家、合気道家と呼んではいけないんでしょうか?

補足日時:2004/12/29 19:05
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この回答へのお礼

こんにちは。^^
なるほど、武道家と呼べばいいんですね。最初の彼のために付け加えさせてください。テコンドーと空手は似ているところはありますが全く別物だという事を承知で空手をしていました。特にテコンドーの足技についてはここ30年くらいものすごく力を入れて研究されてきたので空手とは違うと言っていました。そのほかにも色々言ってくれたのですが、スポーツオンチなのでよくわからなかったです、はいすみません。

お礼日時:2004/12/29 19:04

Gです. runbiniさん、こんにちは!



この件はアメリカで伝統空手を昔どおりに教えている私としては全くの個人主張ですのでそのつもりで読んでください。

今の日本の「空手」の現状から見ると「空手家」はほとんどいないと思いますのである意味では死語になってしまっていると思います。 

空手とは試合をしたり型を踊ったりする物では決してないと信じる私は空手は人生の生き方のひとつとみています。 空手がその人の「生き方」であれば私はその人を空手家と呼びます。

しかしそうでなく空手着を着ている時だけ空手をするようでは、何段であろうと、私はその人を空手家とは呼びません。 また、「必要以上」に商売として道場を経営している人も私は空手家と呼びません。

昔は空手が生き甲斐であり、弟子を育てるのを目的とし、自分の時間を空手(パンチやキックは空手のほんの一部の中の一部)が基本となって生きていた人たちが空手を教えることができるだけの実力と指導力を持った時点であの人は空手家だ、といわれる「身分」になりました。

「身分」である以上「私は空手家だ」と言う表現はおかしいことになります。

「実力」を認められることになりますのである程度の段位を持っていることにもなるでしょう。

しかし、空手を毎日使わなくてはならないと教える私はkarate-kaと言う単語を弟子たちに使っています。 つまり、毎日「生活方法である空手」を使おうとする/使えることが実力のひとつと見るわけです。 ですからまだ若い弟子たちにはYou are my baby karate-ka. と読んでいるわけです。

この英語単語としてのkarate-ka/karatekaは一般的に空手(キックやパンチだけでも)を頻繁に練習する人の事も含まれて使われています。 

「空手家だった」と言う表現ですが、空手と言う最良の生き様を信じる私にとって、その最良であるはずの事をもうやっていないとはその人の先生がよくなかったか、最良の物を捨てるだけの価値しかみる事ができなかったのか、と感じるわけです。 つまり、空手家と呼ばれる人は一生空手家でいるだけのものが出来上がっていると判断されるわけです。

ですから、もう過去の事になってしまった、と言うことであれば、「空手家だった」ではなく「空手をしていた」と表現すべきものだと私は思います。

と言う事で、私個人の考えで説明しましたが、一般的にこの単語は「先生/師範」のような「地位」でも、「練士/教士/範士」のようなでも「資格」でもありませんので、人それぞれの解釈を持つものとされています。 ですから、人によっては道場を経営していれば空手家ですし、何段以上なら空手家と呼んでもいい、と言う人もいると思います。 ただ私は空手家なら空手着を着ていなくても空手家であると分かる人(拳にたこができていると言う事ではなく)の事をそう呼んでいるということです。

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

この回答への補足

空手家なら空手着を着ていなくても空手家であると分かる人の話は納得できます。昔は空手道と言っていたそうですが、この空手家の話と関連がありますか?

補足日時:2004/12/29 06:26
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この回答へのお礼

Gさんこちらでもこんにちは!知人はテコンドーを子供の頃から始め国際免許2段?を持っています。日本に興味を持ってからは空手も始め、段を取る試験にお金がかかるので取らずにいました。が、道場訓や二十訓通りの生き方をして、私によく「真の空手家は」という話をしてくれていました。その後経済事情で働き始め、空手の方をやめました。これについて彼は恥じていました。が、色々見ていると彼の空手に対する考えは日本への憧れというかちょっとファッション的な要素もあったようです。もう一人のちょっとした知り合いは空手家と呼んでいいと思います。本のモデルにもなった人で副業はほとんどせず、生き方考え方がすべて空手なんです。来年はアジアの支部を中心にあちこちでしごいて来ると言っていますが津波の後の励ましになりそうとのことでした。

お礼日時:2004/12/29 06:18

あくまでも職業として空手をしている人でしょうね。


例えば道場を経営しているとかそこの指導員とかで給料が空手だけという人です。

この回答への補足

とすると空手を副業にやっていたり、空手以外の副業を持っていたら「空手家」とは言わないんでしょうか?
どっちみち知人は「空手家」ではなかったということですね。

補足日時:2004/12/28 23:33
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