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昭和32年、日本でもコカコーラの製造が開始されたと伺いましたが
昭和30年代(とくに35年まで)、四国や九州の田舎(農村部)などではコカコーラはどのような価値でしたか?

A.話は聞いたことがあるけど都会に行かないと飲めない
B.裕福な家の子供が飲んだことを自慢するような飲み物
C.田舎の商店でも売っていて、子供の小遣いでも買える
D.田舎の商店でも売っているが、大人に買ってもらえないとなかなか飲めなかった
E.存在自体をあまりよく知らない、都会へ行った人の土産でもらったら超ラッキー
F.存在自体を全く知らない、大人になってから存在を知る

四国の田舎を舞台にした自主制作映画を作っていて色々調べています。
ぜひよろしくお願いします

また、コーラが広まっていないとしたら、
田舎の子が「うめえ!初めて飲んだ!」となるジュースはなんだったでしょうか?

A 回答 (6件)

昭和30年代後半生まれ。


生まれも育ちも「南関東」だけど、周りは農家が多い田舎町。
なので昭和30年代前半や四国の事は分かりませんが、子供の頃[昭和40年代]の『コカ・コーラ―』についての記憶を書きます。

① ペプシコーラ―の方が有名だった。コカ・コーラの位置づけは低かった。

② コーラ全般に対してだったと思うが、飲むと骨が溶けると言われ、子供は飲んではいけないと言われた[小学校の朝礼などで]

③ 記憶違いかもしれないが、近所の雑貨屋に瓶入りの自販機があり、買うことは簡単だった。

④ 『コカ』を使っていることから、「コカイン」と同じ麻薬成分があり、その為に常習性が生じるというデマがあった。


> 田舎の子が「うめえ!初めて飲んだ!」となるジュースはなんだったでしょうか?
私の住んでいるところでは三ツ矢サイダーやラムネがポピュラーな飲み物だった。

キャラクターの「リボンちゃん」による人気もあったと思うが、「リボンシトロン」は憧れ。
 https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9C …

あと、タケダ(武田製薬工業)の「プラッシー」という飲み物があり、それは販売戦略(流通ルートが抑えられており新規参入が出来なかったのが実情 by 高校の時に使用した「マーケティング」教科書)の関係で「お米屋」「米穀の関係店舗」でしか買えなかった。少し離れたところに住んでいる幼馴染の家が「コメの精米」を行っている関係で扱っており、遊びに行くと偶に飲ませてもらえたのがうれしかったですね。
 https://namakemonoyoshi.com/archives/5495
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1.ロケーション


 地方の当時人口が20万人以上の沿岸部の「市」です。
 人口が増加途中で暫くして30万人を超しました。
 親戚がそこそこお金持ちで、そこでの話しです。

2.コーラの記憶
 親戚に行った時に「コーラという飲み物があるけど、飲んでみるか」と言われて飲んだ。
 何か不思議な味で、シュワッーとして美味しかった。
 コカ・コーラの瓶入りで、20本か24本入りの箱でした。
 しばらくしてまた行くことあったが、簡単には飲ませてもらえなかった。
 理由は、「子供には早い」とか「子供には悪い」とか言われていた。それと高かった!!
 ジュース類の記憶がありません。ラムネかよくてサイダー。

3.その他の記憶
 昭和34年か35年頃で、馬車が多くありましたし、バタンコ(三輪自動車)が多かった。
 テレビも滅多と無い。冷蔵庫は電気でなく、上の段に2貫目位の氷を置き、下段で冷やしていた。
 まだスーパーマーケットは無かった。 洗濯機は上部に手回しロール絞りが付いていた。
 玉子は専門の店でバラ売りで、台の上に木枠を作り籾殻を10センチくらい敷き詰め、
 その中に半分埋めるようにして並べていた。

 野菜や果物はビニールハウスは無く、ほぼ露地栽培でした。
 一部でガラス温室のブドウがあったくらい。
 主の輸送はトラックでなく貨物列車かと思います。
 ミカンは木造船で港に入ってきていました。
 よく言われる、バナナは高級品でした!! メロンは存在を知りませんし、せいぜいマクワウリです。

総合するとBを選択します。Cは無理です、月の小遣いで数本しか買えない価格だったと思います。
まだ見たことがない人も結構いたのでないかと思います。
土産も考えにくい・・・瓶回収や瓶代にうるさかったので。
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京都在住ですが最初に飲んだのは親と行った近所の喫茶店で


ただたんに名前だけ聞いていたコーラがメニューにあったので注文
(誰も飲んだこと無し)
一口飲んでこれ薬だと親に渡すと親も飲み薬だと言ってましたね
ちなみにアメリカでは最初薬として作られたのであながち間違った印象ではありませんが……
その後誰かからペプシを1ダースもらい
それを飲んで慣れました(笑)
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昭和22年生まれですが、コカはなかったけど、ペプシが中学1年の頃より駄菓子屋で売られるようになりました。

うまいというより、いろんなミニ景品に興味ありで。値段は60円でみかん水やラムネが15円なので、かなり高い飲み物で、景品につられて買うで、あんな喉をさすような痛みのある飲みものが好きな奴なんていなかったです。また、カルピスは、夏のお歳暮での贈り物だけで、買ってまで飲む人はいません。

それから、コーラなどはソーダ水(炭酸飲料水)でジュースなどは言いません。ジュースとは本物の果汁ってのが関ヶ原より西の日本語です。コーラなどをジュースと言った瞬間で、このアホがロクに調べもせずに四国の田舎を舞台などヌカスな!となります。

また余談ですが、肉といえば牛肉で、豚じゃないです。「豚まん」は食べるもの、「肉まん」は裸の女性でお互いに裸になっていちゃつくのを想像します。
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実家の食堂(水道橋)では最初(昭和37年あたり)はペプシコーラを販売していました。

ペプシコーラの黄色い看板を挙げていましたね。数年して、コカ・コーラに切り替えました。

当時のコカ・コーラの販売形態は、地域ごとに設立されたボトラーが、コカ・コーラから供給される原液を希釈してボトルに詰め、地域を独占して販売する形態でした。
四国の場合、四国コカ・コーラボトリングが現地ボトラーですが、製造開始が昭和38年(1963年)8月ですから、それまでは四国には個人が持ち込んだ以外のコカ・コーラは存在しませんでした。昭和30年代に四国の田舎でコカ・コーラは難しいでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD …

あったのはラムネとローカルブランドのサイダー(アサヒビールが販売していた三ツ矢ではないと思います)。バヤリースなどのオレンジジュースもありました。確実なのはラムネでしょう。
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うめぇはカルピスだね。


35年だと田舎まで出回ってるかな? 東京のベッドタウンなら出回った頃かも。感想は「なんだこれ」
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