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ご覧いただき誠にありがとうございます。

中興の祖として名高い上杉鷹山(治憲)氏ですが、とあるサイトに「豊臣政権下の120万石から15万石まで激減したにも関わらず、名門の誇りを捨てられない上杉家では家臣の数を減らすことなく華美な暮らしを改めませんでした。」「米沢藩の借金は16万両(約160億円)にまで膨れ上がり、いっそ幕府に領地を返上してはどうかという意見が聞かれるほどでした。」
とあったのですが、誰に対しての借金でしょうか?
幕府ですか?年貢を滞納し続けたということですか?
もしくは商人からの大名貸でしょうか?
当時の藩の財政(収入、支出)のシステムや、どんなカラクリで米沢藩の借金が、誰に対して、膨れ上がってしまったのかが分かりません。

また、所変わって今度はヨーロッパなのですが、
七年戦争による財政難からイギリスが植民地への課税を強化したことがアメリカ独立戦争の要因の一つとなったそうですが、こういった戦争の費用を調達する際には、誰から借りるのでしょうか?銀行ですか?

また、イギリスほどの力を持つ国家であれば、そうした負債などの踏み倒しなどはあったのでしょうか?
後々戦費の調達が難しくなったり、仮に力づくで集金しても敵や反感を増やしたり信用を失うことになってしまうとは思うのですが。

長々と申し訳ありません。
よろしければご教授いただけますと幸いです。

A 回答 (3件)

米沢藩の場合です。


関ケ原の戦いの後に米沢に移され、30万石に減封された
上杉家は3代目の綱勝の頃までは、謙信の残した蓄えで
名家の名目を保つ事ができていました。
財政が悪化したのは、綱勝が跡取りを決めないままに
急死し、幕府の保科正之*の労により吉良家の綱憲を末期
養子として15万石に減封され存続を許されてからです。

蓄えも無くなっていた上に更に減封。しかし、謙信以来四代
に渡る名門としての生活。それに加えて綱憲の実家の吉良家に
対する出費。
それをまかなう手段は借金を重ねるローン地獄でした。
https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2019/09/10 …

どうして借金が行えたのかは、概ね次のような仕組みです。
藩の生産物の独占的な取扱い権を複数の商人に与える。
それを担保の様にして借金をする。個々の商人が藩の借金の
全体像を把握できたかははなはだ疑問です。
特産物が有れば、それらも同様に担保とし、借金をする。
新田開発を名目に、返済計画を示し商人から資金調達し、
それが焦げ付く(計画の頓挫、非実行、予定以下の成果)。
さらにそれらの商人に名誉的に知行を与え、その代わりに
借金額を増やしてもらう事もありました。勲章を与えて
その代わりに強制的に寄付金を集める様なものでしょうか。
商人達は大名の「破産」は債権が取り立て不能になるので
避けなければなりませんでした。
例えば薩摩藩は江戸時代後期に「無利子、250年返済」を
商人達に迫って飲ませています。

藩の経費は、主に藩士の知行(給料)借り上げで切詰める。
しかし、それも一部は借金に計上されました。
米沢藩では借り上げは四割程度だったとされています。
他の藩でも同じ様な物でした。

上杉鷹山の財政改革ですが、初期の改革の試みの一つとして、
100万本の漆の植林計画があります。
米沢藩を敬遠する商人に、漆の植林とそれから出来る漆蝋の
専売による利益を説明し、資金調達(借金)をしています。
植林は成功しますが、その頃に西日本から性能に優れ安価な
櫨蝋が出て普及し、計画は挫折します。
生糸と絹織物が成功し、藩の財政改革に目途が立つまで、50年を
要しています。
借金を返済し終わるのは、彼の死後です。藩士からの借上げ分も
一部は返済されました。

https://www.yamagata-np.jp/feature/fuzisawa_feat …

*会津藩初代藩主。戊辰戦争で米沢藩が会津藩に加担した
 理由は、藩の存続の労を取った正之に対する恩義と恭順の
 意を示している会津藩に対する官軍の報復攻撃は侍の
道義に反すると云う義憤が主だったとされています。
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この回答へのお礼

ご丁寧に本当にありがとうございます!!
とても良く分かりました。m(__)m

お礼日時:2020/03/08 22:42

質問文から、あなたが幕府と藩の関係や「国家」と「戦争」について全く無知である事と、自分ではたいして調べないで他人様に頼っている事はわかりました。




A:>誰に対しての借金でしょうか?

回答A:主に商人(札差や地元の豪商)。これを「大名貸」と呼んでいます。
上杉藩に限らず当時の藩の収入は主に農民からの年貢(米)です。(例外あり)
藩はそれの換金(販売)を商人(札差)に委託していました。
江戸時代になって平和が続いた為に、商人の経済活動は活発になり力が大きくなっていきました。
それにより、農産物の生産に頼る封建領主の力は弱体化しました。


B:>幕府ですか?年貢を滞納し続けたということですか?

回答B:違います。幕府は「藩」から、恒常的な税(年貢)は徴収していません。
    (普請等で他の形での出費を要求する場合はありますが)


C:>当時の藩の財政(収入、支出)のシステムや、どんなカラクリで米沢藩の借金が、誰に対して、膨れ上がってしまったのかが分かりません。

回答C
C1:領地が減った。
C2:収入減に見合った十分なリストラをしない→経費が減らない
C3:江戸時代になって経済の構造が変化した。
流通網の整備や貨幣経済の発達により、米の価格の決定権が商人に移る。
平和より様々な商品作物や手工業品が生産されるようになり、相対的に米の「財」としての価値が下がった上に、平和により米の生産量も増えた→価格が下がる。

結論
内政の失敗。
米による農本位性から抜けられなかった。
これらは殆どの藩も同様だが、上杉藩は度を越していた。
(華美な生活をしていたか については疑問があります)



D:>こういった戦争の費用を調達する際には、誰から借りるのでしょうか?銀行ですか?

回答D:増税と国債(個人や銀行)。


E:>また、イギリスほどの力を持つ国家であれば、そうした負債などの踏み倒しなどはあったのでしょうか?

回答E:していません。(少なくとも私は英国がそのような事をした例を知りません)
イギリスほどの議会を持つ国が、自国の国民や銀行相手に踏み倒したら、どうなるか考えて質問していますか?


以上の事については詳細を語るときりがありませんが、基礎知識のない無知に教えられるのはここまで。
「【米沢藩、イギリスなどの負債について】」の回答画像3
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この回答へのお礼

あなたの現実が改善され、いつの日か幸せになれることを願っております。諦めずに頑張れば、あなたでもきっとなれます。応援してます!頑張ってください!!!(;ω;)

お礼日時:2020/03/08 22:47

借金は、藩内および江戸大阪の商人から



信用貸しだね
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2020/03/08 22:43

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