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1. 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》――これが 
じんるいのさとりである。

2. ところが この命題(ひとの判断)は 《わたし》のその時・
その場の自己表現であるに過ぎないという特徴=限界をもっている。

3. 言いかえると 《わたし》の一面のみを語っている。

3‐1 ただし 語るわたしは わたしなる存在の全体である。わたし
なる人格のすべてを現わそうとしている。



4. わたしは 《わたしがわたしであるわたし》に逆らってものご
とを考え さらにそのことを実行に移すこともある。《わたしがわた
ししていない》わたしも起きる。



5. それでも この命題は 活きる。《わたしに逆らうわたし》も
わたしの内にふくむと見ればよい。

6. わたしのそのときどきの一面を語ったのは ほかならぬわたし
である。有限の存在ながら 変わらないわたしである。

7. もし《わたしにさからうわたし》であった場合を 悪とよぶと
すれば この悪という一面をもわたしは みづからの内におさめると
いうことだ。

8. これが じんるいのさとりである。



9. みづからのおかした悪をみづからの内におさめ得ない場合があ
ったとしたら? その状態にあるひとを まわりの人たちは おのが
心に受け容れてやってその悪を――あたかも共同して――おさめるこ
とである。

10. あくの共同自治 これが 井戸端会議につどう庶民のあいだ
の歴史伝統的なさとりの知恵である。


11. いぢめという事態は みづからの悪をおさめきれない者がそ
のあくの共同自治を よわそうに見える者に おねがいしようとして
いるというわけである。

11‐1 中国共産党が そうである。

12. かくして すべての事象は――国際関係論も―― 《わたし》
論なる命題におさまる。


☆ コメントをどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №3つづき

    ★ 「自同律」は必要である。自己の有責性は問われるべきである存在で
    あるからだ。
    ☆ はい。


    ★ が、その事で、永遠に問われるのもおかしい。人は変わるものである
    からだ。厚生=更正、修正するものであるからだ。人は「より良きもの」
    に変わっていく「自己」でなくてはならないからである。つまり「自己と
    は、自己であらぬところの者になる」言い換えれば「自己とは自己の否定
    の自己である」。理念的にも現実的にも、こうした「動態的自己」の発想
    も我々人には必要である、と私は思います。
    ☆ 《われにさからうわれ》という悪の自治 そしてそれを独りなる存在
    として なし得ない場合の人びとによる共同自治 その過程でひとは お
    おいにそれぞれの樅の木を成長させていることでしょう。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/04/30 04:15

A 回答 (5件)

ブラジュロンヌさんの云う自己は、私の云う自我でした。



自己=霊性ではなくて霊、そのものです。
こころの核です。

命に核、有り。
核の集合が生命の進化。

微生物から哺乳類へと成長してきた生命は、核の集合の成長と云える。

生命は弱肉強食の世界。
これは熱力学のような力の流れ。
これが自然。

ブラジュロンヌさんの主張は、私の云う自我そのもの。

☆ やはり、自分の目は見る事が出来ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ブラジュロンヌさんの云う自己は、私の云う自我でした。
☆ そうなんですか。なにぶん 一般的にも 自我というものは
知りません。(嫌うという意味ですが)。


★ 自己=霊性ではなくて霊、そのものです。
こころの核です。
☆ そうですか。(たぶん 自我は ふつうは霊であるとは言わ
ないとは思いますが)。


★ 命に核、有り。
核の集合が生命の進化。
☆ 《わたしでありつづけるわたし》だとは 言えると思います
が。


★ 微生物から哺乳類へと成長してきた生命は、核の集合の成長
と云える。
☆ ことばを持ち知性を発揮する。


★ 生命は弱肉強食の世界。
これは熱力学のような力の流れ。
これが自然。
☆ それは 動物世界ですよね? 人間の世界は また別なので
は? (動物と共有する部分(はたらき)もあるでしょうが)。


★ ブラジュロンヌさんの主張は、私の云う自我そのもの。
☆ そうですか。で それで その自我は さとりの知恵と言っ
てよいのですか?


★ やはり、自分の目は見る事が出来ない。
☆ 鏡で見られますし 解剖学的にその知り得た成り立ちをも知
ることができます。

でも そういう知識ないし知能と われの自己同一性とは 別と
してあつかってよいと思います。

お礼日時:2020/05/01 00:00

物を見る目は、目そのものを見る事が出来ない。


その様に、自己が自己そのものを見る事は出来ないのではないかと、考えます。

ここでいう“わたし”とは、自己のことではないかと思います。
そこで“わたしがわたしする”というのは、自己は自己のままであるというに、同じかと考えます。

自己=タマシイ(霊)
自己に性格有り。

心の成長とは、自己の持つ性格が引き寄せた「知識」、あるいは認識したものの集まり。
その自己が引き寄せた「知識あるいは認識」したものを通して現れるのが自我。

自己は自我によって、覆い隠されてしまう。

、、、、、

“わたしがわたしする”というのは、タマシイ(霊)のままに、という事であって、さとりとは無縁であるように思います。

☆ どう思いますか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 物を見る目は、目そのものを見る事が出来ない。
その様に、自己が自己そのものを見る事は出来ないのではないか
☆ 《本質》とか言いますね。そういう本質的なことは いいんです。
――実存が 本質に先立ちますし。

鏡で自分の姿が見られるぢゃないですか。
自分というものを意識することはできますよ。
きのうわたしは スーパーに買い物に行ったことを自覚し得ます。

そんな自己確認でいいんです。



★ ここでいう“わたし”とは、自己のことではないかと思います。
☆ そうですよ。

★ そこで“わたしがわたしする”というのは、自己は自己のままであ
るというに、同じかと考えます。
☆ そうですね。《われはわれなり》と自己を確認したわれは 時間
的な存在であり 動態なんだと言っているわけです。生活し人生を生
きます。



★ 自己=タマシイ(霊)
自己に性格有り。
☆ 性格は 個性ですね。自己は 人として 《自然本性(身=感性
と心=精神・知性と)および霊性》です。



★ 心の成長とは、自己の持つ性格が引き寄せた「知識」、あるいは
認識したものの集まり。
☆ 精神は 記憶(心の秩序)と知解と意志とです。
われの成長とは――霊性のちからを得て―― 精神も感性もそのハタ
ラキが磨かれてゆくことです。

成長とは この自然本性に外から付け加えた教養などの文化を言うよ
りは そのような文化を統括する度量の大きさです。自然本性がゆた
かになるという意味です。


★ その自己が引き寄せた「知識あるいは認識」したものを通して現
れるのが自我。
☆ 自我についてわたくしは無知です。


★ 自己は自我によって、覆い隠されてしまう。
☆ 《われ(わたし) と おのれ(みづから)》のほかに自己を表
わす言葉は知りません。



★ “わたしがわたしする”というのは、タマシイ(霊)のままに、と
いう事であって、さとりとは無縁であるように思います。
☆ おのれからの脱線――悪とも呼びますが――を自治するわたし。
また 誰か一人のわれの・そのような悪の自治を まわりのみなが助
け合って共同自治するというわたしたち。

この社会的な動態としての姿が さとりだと言っています。井戸端会
議のおばちゃんたちが さとりのプロです。

お礼日時:2020/04/30 20:25

私は私である、というのは「排他的自己」故に「絶対的自同律」を表現する、アイデンティティなんでしょう。

なぜこうした発想が必要なのかと言えば、ひとつに戸籍、二つに、契約、三つに有責性なのでしょう。統治者からすれば、誰が何者であるか「変わらぬ個体把握」が必要である。故に、固定された個体に契約させれば、契約違反した場合、責任を問える、という宗教的、法的個人のアイデンティティなのではないでしょうか、けれど現実を眺めれば、この「自同律」に不快違和感を覚える。「なぜ私は私である」ままなのか?と。実際は、常に人は宇宙全体の運動変化と共に、自身も運動変化している、今の自分は先の自分と違うという経験はよくするものである。事実、さっき考えていたことを撤回する自分は何時でもあるからだ。また人は有限であり死ぬものである。故に、人によっては、ヘーゲル、サルトルのように「自己は自己の否定である自己である」、埴谷雄高のように、人はいずれ肉体をなくす魂である「死霊」であると、「自同律」への違和感不快感を表明する。「自同律」は必要である。自己の有責性は問われるべきである存在であるからだ。が、その事で、永遠に問われるのもおかしい。人は変わるものであるからだ。厚生=更正、修正するものであるからだ。人は「より良きもの」に変わっていく「自己」でなくてはならないからである。つまり「自己とは、自己であらぬところの者になる」言い換えれば「自己とは自己の否定の自己である」。理念的にも現実的にも、こうした「動態的自己」の発想も我々人には必要である、と私は思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 私は私である、というのは「排他的自己」
☆ そうではなく 《われがわれを意識する》という――あるいは《いま・
ここにわれがいるということのほとんど感覚的な確認》といった――われ
であり得ます。

われが 樅の木なりとその自然本性を自覚したわれは 他者の受容や排除
といった文化的な意志のうごきを 発動していないと思います。


★ 故に「絶対的自同律」を表現する、アイデンティティなんでしょう。
☆ ただの――自然そのままの――自同律だと思います。


★ なぜこうした発想が必要なのかと言えば、ひとつに戸籍、二つに、契
約、三つに有責性なのでしょう。
☆ われは樅の木の自然本性としてあるという自覚は たしかにすでに社
会の中にあって すでにあたかもクリスマスツリーのごとく社会的に自然
本性の感性や知性を耕しつつ文化を身にまとって来たという或る種の反省
のあとに来るものです。


★ 統治者からすれば、誰が何者であるか「変わらぬ個体把握」が必要で
ある。
☆ 民主制のもとでは 代表(じつは 代理)をえらび そのような個人
どうしの共存のための秩序を形成し維持することを委託したに過ぎません。


★ 故に、固定された個体に契約させれば、契約違反した場合、責任を問
える、という宗教的、法的個人のアイデンティティなのではないでしょう
か、
☆ ふるい社会の残滓です。


★ けれど現実を眺めれば、この「自同律」に不快違和感を覚える。「な
ぜ私は私である」ままなのか?と。
☆ それは なにか自分の外から他律的に押し付けられた自己同一性のこ
とではないかと。



★ 実際は、常に人は宇宙全体の運動変化と共に、自身も運動変化してい
る、今の自分は先の自分と違うという経験はよくするものである。事実、
さっき考えていたことを撤回する自分は何時でもあるからだ。
☆ それは [4]が間接的に説明していると思います。


★ また人は有限であり死ぬものである。故に、人によっては、ヘーゲル、
サルトルのように「自己は自己の否定である自己である」、埴谷雄高のよ
うに、人はいずれ肉体をなくす魂である「死霊」であると、「自同律」へ
の違和感不快感を表明する。
☆ そのように最初の自己同一性なる規定に違和感をいだくのも 最初か
らのわれです。

つづく

お礼日時:2020/04/30 04:13

人権があるからこそ


最高付記というのは
神の存在証明の道徳論敵証明
問うことなのでh層化。
これがカント。

自然主義の誤謬というのも有るようで宇賀。
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この回答へのお礼

カントも 阿呆ですよ。

非経験と経験世界との区別が 出来ていません。

物自体は 絶対性(つまり 非経験の場)をちらつかせつつ持たせ
たような有限・相対・経験世界の究極でしょう。

お礼日時:2020/04/29 23:10

デカルトのこぎ問える語住む


これが自己言及のパラドックとうことで、悪魔が欺いているかもしれない
これがくれた人は嘘つきスなおですね。

神の存在証明の本体論敵証明で蚊tン尾的には違うようでウkれど
間違っているようでウskれど。

日本港拳法ぢいじゅっしょう
最高法規

法の権威はどこに由来するのか。
モー製の次回は神からでしょうし。
仏法はなんでしょうか。
ほけ光波最高ですかー。

称賛は南アのでしょうか。
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この回答へのお礼

デカルトは 阿呆ですよ。

われ考える なら 考えるわれがある。というのみです。

お礼日時:2020/04/29 23:07

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