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7世紀中国の文献にはじめて現れたと記憶していますが、どうしてこの国名を採用したと考えられるのでしょうか。そもそも「ひのもと」とは相対地名であり「朝の鮮やかなるところ」と同じで当時世界の中心であった中国からみて東方にあったことを示すだけの表現ではないか、とも思えます。
・どうして「日元」ではなく「日本」としたのでしょうか。
・「倭」とは中国から見た周辺民族への蔑称としての表現であるとの説から「和」が採用されたとの話は真実なんでしょうか。
・「ヤマタイ」が「ヤマト」に転じたのでしょうか。
・「ヤマト」はどうして「大和」の字があてられたのでしょうか。
・中国は「日本」を名乗ったことに対して激怒したそうですがそれはなぜなんでしょうか。中国の一部ではないことを表明したことになるのでしょうか。
・歴史的には「ニホン」という発音が正しいと聞いたような気がするのですが本当でしょうか。

 ひょっとしたら国内向けにはあの中国と対等になったのだと説明し、中国に対しては日が昇るような遠い東方のちっぽけな国でございます、とでも説明したのでしょうか。だとすれば外交手腕は7世紀当時と大して進歩していないような気もします。もちろんこの呼び名に何ら不満はありません。他意のない興味本位な質問です。

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A 回答 (3件)

こんばんは。


難しい質問ですが、
手元の辞書ではこのようなことが出ています。
もう少しお調べになったらもっとわかるかもしれません。ご参考まで。

1.「ヤマタイ」が「ヤマト」に転じたのでしょうか。
邪馬台国 ヤマタイコク
弥生(ヤヨイ)文化中・後期に確認される倭(ワ)の女王国。『魏志(ギシ)』倭人(ワジン)伝の刊本には邪馬壹国とみえるが、定説どおり邪馬台国とするのが妥当。邪馬台は正式には「やまと」と読むが、大和(ヤマト)王権と区別するために一般には「やまたい」と呼称している。
--以下略--
出典:小学館 日本大百科全書

2.「ヤマト」はどうして「大和」の字があてられたのでしょうか。
大和∥倭 やまと
狭義では奈良県の一地域,ついで奈良県全部,広義では日本全体を指した語。大和政権の領域拡大とともに日本全体を指すにいたったもの。狭義のヤマトは,《古事記》《日本書紀》に,奈良を過ぎヤマトを過ぎ損城(かつらぎ)へ,という歌謡があるように,奈良の南方で損城の東北方の,大和国城下(しきのしも)郡大和(おおやまと)郷,今日の天理市新泉町の大和(おおやまと)神社周辺の地とされる。このヤマトは,損城と並んで土着の勢力の中心地。やがて畿内豪族の連合政権である朝廷が奈良盆地に拠点を置くと,今日のほぼ奈良全県をヤマトと呼ぶようになった。語義は山に囲まれた処(と)の意かという。筑後国の山門(やまと)などとは,同じトでも当時のトの音が異なり,意味も別である。倭という漢字は,回り遠い,従順,矮小などの意だが,中国で古くから日本を指すのに用いられたので,5世紀の倭の五王のころには〈倭国王〉と自称するようになり,意味の上では本来関係のない倭という字とヤマトという訓とが結びつくこととなった。7世紀から8世紀にかけて,国号には倭の字を避け,〈日本〉という表記を用いるようになり,その訓もヒノモト,オホヤマト,オホヤシマなどとしてヤマトとはいちおう区別し,倭国,大倭国といえばふつうは奈良全県を指す行政区域名となった。律令体制下の1国としての大倭国は,737年(天平9)から747年まで〈大養徳国〉と表記を改め,757年(天平宝字1)ころから大和国と表記されるようになる。しかしその後も引き続き,一般には倭,和の字やヤマトという語は,日本的,日本風を意味するときに使われている。⇒倭(わ)
執筆:青木 和夫
出典:平凡社 世界大百科事典 第2版

3.国号や国の位置づけに関して
日本
【国号】
 日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国との国交が120年ほど中絶したのち,7世紀初めに再開されたときには,《隋書》に〈日出処天子〉,《日本書紀》に〈東天皇〉とあって,倭と自称することを避けるようになっていたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》の東夷伝に至って初めて〈倭国〉と〈日本国〉とを併記し,〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日の辺に在るを以ての故に,日本を以て名と為す〉とか,〈或いは曰く,倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み,改めて日本と為す〉とか,〈或いは曰く,日本は旧(もと)小国,倭国の地を併す〉とか,倭から日本に変わった理由を紹介している。
 この7世紀には,遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが,いつから倭に代えて日本を国号とすることにしたのかは,〈日出処〉が〈日本〉に転化していったことはまず確かだとしても,実は明らかでない。遣隋使や遣唐使のそのつどの交渉について,かなり詳しく記述している《日本書紀》も,8世紀になって日本という国号が確立したのちの書物であり,その中に使われている原資料にあったかもしれない倭の字は,国号に関するかぎりすべて根気よく日本と改められている。そこで《日本書紀》以外に文献を求めると,《海外国記》の逸文に,664年(天智3),大宰府に来た唐の使人に与えた書には〈日本鎮西筑紫大将軍牒〉とあったとある。だがこの《海外国記》も733年(天平5)に書かれているから,倭を日本と改めている可能性がある。結局確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づくものと思われる。
 この日本が,今日のニホン,あるいはニッポンのどちらに近い発音で読まれたか,または当時の漢音でほぼジッポンと読まれたか否かも,,まだ明らかでない。しかし日本という国号は,中国や朝鮮ではもちろん,はじめは日本の国内でも音読されていたようであり,ヒノモトという日本に対応する訓読も,《万葉集》では〈ヒノモトのヤマト〉というように,古くからの国号であるヤマトにかかる枕詞として用いらるにとどまり,これがヤマトと並ぶ日本語風の国号として独立するのは平安時代以後である。中世に中国を通じて日本をヨーロッパに紹介したマルコ・ポーロの《東方見聞録》では,日本国が Zipangu,Jipangu などを書かれているが,その後ヨーロッパに広まった Japan,Japon,Jap1o などの称については,日本に対する中国の華北音の jih pen に基づくとする説と,華南音の yat pun に基づくとする説とがある。中世末の日本に渡来したヨーロッパ人たちは,ロドリゲスの《日本大文典》や《日葡辞書》に,当時の日本人が日本を Nifon,Nippon の両様に読んでいたことを記録している。近代では日本の読み方を統一しようという動きがあり,1934年の文部省臨時国語調査会では,ニッポンを正式呼称とする案が議決されたが,法律制定には至らなかった。なお正式な国号は,明治憲法では〈大日本帝国〉であったが,現行憲法では〈日本国〉である。⇒大和(倭)(やまと)∥倭(わ)
執筆:青木 和夫
出典:平凡社 世界大百科事典 第2版
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この回答へのお礼

 お礼が遅れて申し訳ありません。

 たいへん興味深いアーティクルのご紹介感謝します。ネット上いろいろ探したのですがこれだというような記事がなく、図書館にでも行ってみるかと思っていたところでした。私はこの国が「日本」を名乗ることで意識的なアイデンティティの確立をはかるなんらかの事件が起こっていたのかもしれないと考えたりもします。1ファンとしてそのようなことを想像するのはとても楽しいことで、この分野における歴史的事実の発掘を見守ることはさらなる楽しみでもあります。

 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/13 06:38

言葉の問題を中心にお答えします。


漢字というのは中国語を表す文字、そして当時、日本には文字がありませんでした。ですから、日本では中国で日本のことを表す文字「倭」を使い、これを「やまと」と読むしかなかったということです。しかし、この字はあまりよくない意味なので日本では代わりに発音が同じ「わ」である「和」を使うようになったわけです。「大」は尊称です。「日本」という漢字による国名を作ったあとでも、最初はそれを「ヤマト」と読んでいた可能性があります。
「元」と「本」は日本語でおなじ「もと」でも中国語では意味が区別されます。「元」は原理などの意味が基本義ですので適当ではありません。
激怒したのは、普通の外交手続きをとらなかったからです。中国の朝廷お伺いを立てて認めてもらうのが普通でした。突然、中国に行って私たちは「日本国の使者」だと名乗りました。中国の方では話を聞いているうちに自分たちが「倭」と呼んでいる国だとわかり、礼儀知らずと怒ったわけです。
「日本」の音読みが「ニホン」だったか、「ニッポン」だったかは難しい問題です。なぜなら、当時、促音「ッ」や半濁点を表記する習慣がなかったので、「にほん」としか表記できず、発音は「ニッポン」と読んでいたかもしれないからです。後にはこの表記に従って「ニホン」という読まれるものが定着しました。今の「ニッポン」という読みは昔は「ニッポン」と読んだだろうという学術的な復元でできたものです。最初は「ニッポン」と読んでいた可能性が高く、「ニッポン」→「ニホン」→「ニホン・ニッポン」と変わってきたと思われますが、あくまでも推測です。

この回答への補足

身内の不幸がありお礼が遅れて申し訳ありません。

補足日時:2005/01/13 07:11
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この回答へのお礼

>ニッポンかニホンか

 平安時代だかハ行の発音は上下の唇をほとんど接触させていたとの話を聞いたことがありますが、発音として二つの間に違いがあまりなかったのかもしれません。音は保存ができないので単なる想像ですが。

 中華思想は儒教や仏教などよりもずっと強いコンセプトなんだと思い知らされます。

 ご回答に感謝します。

お礼日時:2005/01/13 07:10

1元でなくて本、


これはわかりませんが、元は~でできている、とか~を原理とするなどの意味ですから、日が出てくる意味にはとりにくいです。本は本籍、本貫などのことばと同様もともとそこにあった意味ですからどちらが妥当かわかりますね?
旧唐書にはなぜ倭から日本にかえたかについて、諸説のべています。不思議なことに唐の側はこの真相を知らないみたいです。
2「邪馬台国」ならやまとと読むことも可能ですが三国志の原文は「邪馬臺國」です。
臺と台は本来はは別字、別の意味です。今は混用されていますが。
で、臺は「と」と読めないことは古田武彦さんの著書などにくわしく論証されています。
3倭はもともとは委だったようです。
なぜこういう字があてられたかはわかりませんが、
新匈奴単于章というものと漢倭奴國王という字面の比較から匈奴にたいする倭奴なのではないかという説があります。(乱暴ややつとおとなしいやつ)
その後字の意味や読みが変わったみたいですが、近畿王家がこのことを知っていた形跡がないのは興味深い話です。
4やまとという地名はあちこちにあります。
やま+とというかたちですから地形語源なんでしょうか。
で、これと大和という文字はまったく関係ないと思われます。
大倭から大和に変化したのでしょう。
大倭の使用例は三国志の使大倭や、天皇名(通常偽作とされるが)などにあります。何らかの意味で倭国との血のつながりをあらわすのでしょう。
5激怒
隋書の煬帝のはなしのことだとすれば、それは日出る処に激怒したというよりそのあとの「天子」にあるのは明白です。天子はこの世にただ一人、という原則(勝手なものですがそれが隋の側の大義名分)に反するからです。
南北朝の騒乱を勝ち抜いてきた北朝系国家の隋にすれば、南朝をはじめとする諸勢力を倒してきたその理由付けに関する論理が天子はただひとり、という原理であり、東夷のやつがなんかおかしなこといってるなあ、などとのんきにかまえてはいられないのは当然でしょう。
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この回答へのお礼

 お礼が遅れて申し訳ありません。

>元
なるほど字義が元々別ということですね。図書館に行ったときにでも大きな漢和辞典で調べてみます。

>唐の側は日本に変えたことを知らなかった
なぜでしょうね。興味深い事実です。

>倭
やはり蔑称だったようですね。匈や奴が並立していて中国から見ると国名を識別するためのんらかの必要があったのかもしれないと考えたりもします。

>やま+と
素人考えですが、扇状地のような平野から山岳部への導入地域が推理栽培水運などに利便がよく、集落の発達の条件になったということなのでしょうか。ともかくも呼称と表記が関係ないということは確かにその通りですね。

 いずれにせよ大陸の統一国家の出現が日本をはじめとする周辺地域へおおきな影響を与え、およそ2千年前から数百年間の間に起こった国家意識の発達の大きな背景となったとかの話は素人ながらなんとなく理解できます。

 示唆に富んだご回答ありがとうございました。

お礼日時:2005/01/13 06:58

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呼んでいました。日本の勢力もこれに対応し、自分たちの国を倭と呼んでいました。

7世紀初頭の遣隋使において、「日出ずる処の天子が書を日没する処の天子に致す」
という書き出しで始まる親書を送っています。「日出ずる処の天子」とは
単純に「東」を意味するものとするのが一般的ですが、倭という呼び名を
嫌がって作った呼び方とも言われています。というのは、倭という漢字には
「従順」「矮小」といった意味が含まれていて、見下された呼び方だからです。
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処罰されそうになったようです。

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もともと、日本には名前がありませんでした。弥生時代の日本列島には
いくつかの勢力が存在しており、中国はこれらの勢力をひっくるめて倭と
呼んでいました。日本の勢力もこれに対応し、自分たちの国を倭と呼んでいました。

7世紀初頭の遣隋使において、「日出ずる処の天子が書を日没する処の天子に致す」
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歴史の授業中、生徒に『いつから日本と呼ぶようになったの?』と質問れたのですが、お恥ずかしいことに答えることが出来ませんでした。
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なお遣隋使の国書でも「日本」と言う語を使っていますが、これを含めてでてくる「日本」号は、後世の文飾であろうといわれていますので、聖徳太子の頃に「日本」号はなかったと考えるのが、古代史の研究の世界では支持される見解です。

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実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

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世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
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たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

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まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
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イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

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まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
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某書籍からの受け売りです。

Qそもそも日本はいつ始まった。

NYの学生です。日本について発表をすることになりました。日本っていつから始まったんでしょう?私自身の持っている断片的な知識では、「三浦半島に人が初めて住み始めた。最も古いヒトの足跡は約2万5千年前である」「619年施行の”飛鳥浄御原令”から、この国土は日本と呼ばれるようになった」っていうのがあるんですが、「一番初めの、そもそもの日本と言うのはこのように始まりました」と正しく言うにはどのように言えばいいでしょうか。どうぞ教えてください。

Aベストアンサー

 日本ができる、というのは、会社ができる、というのは性格が異なりますので、けっきょくそんな「起源点」はどこの国の歴史にも存在しません。要するに好きなところを区切って使うしかないのです。

(1)日本という島ができた
 500万年前くらい。

(2)この国土に人が住み始めた
 1万3000年前から1万2000年前くらい。

(3)確実な年号をもって文献に日本らしい国の様子が初出する
 239年(卑弥呼が魏に遣いせしむ)。

(4)大和朝廷によってはじめて日本に広域政権ができる
 4世紀後期ごろ。

(5)日本という国号の初出
 645年(日本書紀所収の詔勅)。

(6)明治維新(王政復古の大号令)
 1867年。現在まで継続する政権が誕生した。

(7)明治憲法の制定
 1890年。(6)をさらに法制的につきつめればこちらを重視する見方もありうる。

(8)終戦の日
 1945年。8月15日を境に革命が起り主権のありかが天皇から国民に移行したという学説が憲法学においては現在では有力なので(8月15日革命説)、これを採用することもできる。

(9)現行憲法の制定
 1947年。

そのほか政治的に大きな出来事(大化の改新、飛鳥遷都、奈良遷都、平安遷都、鎌倉幕府の成立、室町幕府の成立、江戸幕府の成立)のたいていは「ここで日本がはじまった」というふうにこじつけられます。ぜんぶ正しくて、ぜんぶ間違い。

 日本ができる、というのは、会社ができる、というのは性格が異なりますので、けっきょくそんな「起源点」はどこの国の歴史にも存在しません。要するに好きなところを区切って使うしかないのです。

(1)日本という島ができた
 500万年前くらい。

(2)この国土に人が住み始めた
 1万3000年前から1万2000年前くらい。

(3)確実な年号をもって文献に日本らしい国の様子が初出する
 239年(卑弥呼が魏に遣いせしむ)。

(4)大和朝廷によってはじめて日本に広域政権ができる
 4世紀後期ごろ。

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Q日本の読み方で、"ひのもと"と“にほんもしくは、にっぽん”の違い

日本の国名の読み方は、古来“ひのもと”“にほん、にっぽん”とありますが、意味と、使われ方、その出典を教えてください。その、読み方の背景は、なんでしょうか?
どのような時代背景のもとに、そういった、呼ばれ方がされたのか興味があります。天皇と道教とのかかわりに、関係があるのでしょうか?

Aベストアンサー

『隋書』に、聖徳太子が隋に出した国書に日本のことを「日出処天子」と称したとあって、『孝徳紀』に「日本倭根子天皇」とあるように、中国から見て「東の方」すなわち「日ののぼるもと」を漢字で記して【日本】と称したようです。
古くは「大和」「倭」(やまと)と呼んでいたようですが、大化の改新の頃から正式に「日本」が国号と定められたようです。
対外的にはおおく「ニッポン」が用いられているようですが、「二ホン」「ニッポン」が厳密に使いわかられることなく併用されているようです。

「日」は漢音(漢の時代の読み音)ジツ、呉音(呉の時代の読み音)ニチ。また、「本」は漢音呉音ともに「ホン」。「日本」は呉音の字音よみとして、まず「ニッポン」と発音されたものが、次第に促音を発音せず日本的にやわらかな「二ホン」に変わっていき、両方がそのまま使われたと思われます。ちなみに、「ジッポン」という読みもあったようです。中国の歴史に影響を受けて、漢音(旧)から呉音(新)に変遷してきたのでしょうか。

Q日本の別名

 日本の古称・美称など別名に興味があって調べています。「大和」「扶桑」「瑞穂」「秋津洲」「敷島」など、皆良い名前だと思っています(ヤマト建設・三菱ふそう・みずほグループ・シキシマパン等、なぜか法人名に良く使われていますね)。この他にはどんな別名があるのでしょうか?一つでも知っている方がいましたら教えてください。
 

Aベストアンサー

豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずはのくに)
葦原(あしはら)の瑞穂の国
大八州(おおやしま)
葦原中国
八洲(やしま)」
大八洲国(おおやしまぐに)」
倭(わ)
和州(わしゅう・やまと)
蓬莱(ほうらい)


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