アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

人は一人前になれば誰でも自分の世界観・人間観を持って生きるようになります。

当然のことながら、違う世界観・人間観を持った他人が存在します。中にはどうし
ても許しがたい存在があるものです。

そうした場合、そうした存在をどう扱うのが良いと思いますか?
無視するのか、憎むのか、排除しようとするのか、あるいは…

「許しがたい他人をどう扱うべきか?」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • ちょっと、ムカリンさん、連投はやめてください。
    対話ですよ。

    No.42の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/05/26 18:13

A 回答 (53件中21~30件)

尊厳に対する誤解


個人の尊厳あるいは、個人の尊重とはすべての個人が「お互いを人間として尊重」する法原理の事。
言い換えるなら「相手を人間として尊重する」と言う事です
相手に対する態度や姿勢として「人間として尊重」すると言う態度や姿勢をとると言う事です。
尊厳とは当人そのもの、質問者さんのお言葉を借りるなら「我」そのを指すわけではありません。
多くの方々が誤解されています
尊厳とは「相手を人間として尊重」する態度や姿勢であることから、「死後その人の墓を建て、丁寧に弔う」事も「その人」の尊厳を守るとなるのです。
「極刑の処す」その方法も当然処させる者の尊厳を守らなければならないことからその方法がそれに値する方法でなければならないのです。
「絞首刑」が極刑に処される者の尊厳を守る処刑方法かどうかの問題はあるにしろ、明らかに極刑に処される者の尊厳を損なう処刑方法は許されるないのです。例えば「市中引き回し上獄門の刑」は明らかに極刑に処される者の尊厳を損なう処刑方法故に許されないのです
死刑の是非について論じなければならないのは間違い無い事ですが死刑が必ずしも死刑囚の尊厳を損なうものではないのは上記によるからです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

誤解と言いますよりも、法哲学の解釈において仰るようなことであるのならば、
(よく知らないのですが)それはそのように認識をしたいと思いますが、人間の尊
厳を「我」から離れたものであるとするならば「観念」と言わざるを得ないと私
は考えますので、実質的な意味で人間の尊厳を守ることは難しいのであろうと思
います。

社会の指導的立場の人たちの哲学がそうした観念的なもの(何にしても)であるか
ら、哲学というものが現実を離れ、現実の社会で差別や支配や苛めなどというこ
とが当然のように行われているのではないかと思う次第であります。

お礼日時:2020/05/20 16:20

「自己責任」を有する者には「責任を持って行動する義務」が課せられています。


「行動したその結果にも責任を負う義務」が課せられています。
故に自己責任を持って行動した結果他人に対して何らかの「損害」を与えたならば「与えた損害」に対するその責任を負わなければならない義務が課せられているのです。
犯罪を犯した者は犯した犯罪に応じて予め定められている量刑を基に他人に与えた損害に応じて犯罪者自身の「人権剥奪」と言う形でその責任を果たすのです。
我が国での「刑事罰」における「最大の人権剥奪」が「生存権剥奪」即ち「死刑」です
「生存権剥奪」が「処罰」として「適切」か否かの根源的な問題があるにしろ現在の日本において「死刑制度」が維持されているのはやむを得ないとは思います。
上記を植松死刑囚に当てはめるならば植松死刑囚に減刑すべき「事情」が無いのなら植松死刑囚に「有責性」があると判断された以上植松氏に「死刑宣告」されたは至極当然の結果ですしそれについての異論は一切ありません。
それでもなお植松死刑囚の尊厳を守らなければならないと言う事です。
それは何故か?「個人の尊重」における「個人」とは根源的に言えば「主体としての私」だからです。「我思う故にわれあり」の「我」だからです。全てを否定してもなお残る「我」だからです
「我」は全てを否定してもなお残るものだからこそ死してそれは否定すべきはでは無いからです。
死しても尊厳を守らなければならないのなら尊厳を守ることは「生存権剥奪」を否定し得ることにはならないのです。
更に言うなら
いかなる理由であっても尊厳を損なうことを認めると言う事は「選別による差別」を認める事にそれは決して許される事では無いからこそいかなる理由があろうとも尊厳を損なうことは決して許されないのです
以上は私の考えです
しかしながら「死刑廃止論」を展開している「人権擁護派」と呼ばれる人達は上記を全く理解すらしていません。
物事の本質を理解せずに「正義」を掲げて主張している点では「自粛警察」と呼ばれる人達と「犯罪者の人権を養護すべき」として「死刑制度廃止論」を掲げている人達とは変わりません
    • good
    • 1
この回答へのお礼

尊厳と平等と自由を認められた個人には、当然行動に対する責任があると
考えることは至極当然のことですね。
そして、法律で定められているところの犯罪を犯した場合、その責任を負
わなければならない義務があるということについても、当然であると考え
られますが、それを人権剥奪、生存権剥奪であるという考え方に、私は疑
問を持っているわけです。

終身刑であれば、刑務所の中では認められる人権があり、できることもあ
ると聞きますから、その人の尊厳が守られるという意味で、ギリギリの「
やむをえない」範囲であると考えます。

しかし、死刑となると、つまり殺されるわけですから、「我」は消滅すると
言えます。
「我」とは本人が感じるものであり、客観的に存在するものは観念でしかな
いと思います。

死後のことをここで考えることは適切でないと思いますのでしませんが、人
生の中で殺されるということは、「我」が否定され消滅することであり、消
滅したものの尊厳を守ることなどできないと思います。

死後その人の墓を建て、丁重に弔うということなどは、残された人間の感傷
であって、その人の尊厳とは無関係であります。

従って、死刑というものでは個人の尊厳を守れるはずがないと考えます。

>「生存権剥奪」が「処罰」として「適切」か否かの根源的な問題

この根源的な問題を我々は哲学するべきだと思います。専門家だけではなく、
庶民が。

お礼日時:2020/05/19 12:31

個人を尊重(尊厳)するとは人それぞれ尊重するという事です


世界中にいる全ての人それぞれを尊重するという事です。
故に何らかの理由で多くの人達を「一括」するのは「括られた人達」それぞれを尊重していないこと事になるのです。
平等とは人それぞれ人とし尊重するという事です
肌の色の違いによって扱いを変えるのが差別にあたるとするのそのためです
容姿にかかわらず「侮辱」するとは「否定」する事でありに「否定」するとは「存在を否定」することであり「存在を否定」するとは尊厳を損なうことになるのです
ですから許されないのです
いかなる者であっても「他人の尊厳」を損ねていい「自由」は無いと言うことです
    • good
    • 1
この回答へのお礼

「括られた人達」というのは、観念的な概念になりますし、個々の
人間が必ずしも尊重されないということになりかねないですから、

>個人を尊重(尊厳)するとは人それぞれ尊重するという事

は正しいと思います。

植松死刑囚を死刑ではなく「終身刑」にした場合、あるいは閉鎖病棟
に長期の措置入院させた場合、厳密にいえば彼の尊厳を損ねる結果に
ならざるを得ないと思うのです。

それは、社会的制裁であるとして立て分けて考えればそれで終わるわけ
ですが、「人が人を裁く」ことの本質は、などと考えると難しいですね。

そんなことを考えつつ、次の投稿を読んでみましょう。

お礼日時:2020/05/18 14:41

私には「同類の闘争」はないです。

ドングリの背比べ競争の話には興味ないですね。対極の視点思考考察を持つ者たちの、知的活動は、私の知的活動の「死角」になるので、自分に欠けた、そうした対極の知的活動には、振り返って注意を払い、批判的に考察させてもらっています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

「批判的に」ですね?

お礼日時:2020/05/18 05:53

下記の続きです


尊厳を守るとは存在を認める事であり存在を認めるとは内的性質=内面を認めることです
上記を植松死刑囚個人に当てはめると
植松死刑囚の内的性質=内面とは「取り憑かれている我の如く強迫的に執着」となります。端的に言えば「思い込み」です。
「思い込み」それ自体は「内面のタイプ」=「人のタイプ」の一つであり「多様性」の現れです。
「思い込み」それ自体に良し悪しがあるわけではなく「思い込んでいるその内容」に良し悪しがあるのです。
故に問題にすべきは「思い込み」それ自体ではなく「思い込んでいるその内容」のです。
「取り憑かれているかの如くに強迫的に執着」とは端的に言えば「思い込み」となる事から「取り憑かれているかの如くに執着する」についてもそれは「内面のタイプ」=「人のタイプ」の一つであり「多様性」のが現れでありかつかつ「思い込み」それ自体が問題では無く「思い込んでいるその内容」に問題があるとなります。
更に言えば
「取り憑かれて如くに強迫的に執着」しているその内的状態とは「心のキャパシティ」や「脳のキャパシティ」が殆ど一杯一杯と言った状態でそれすなわち「心」や「脳」とイコールとなる事からその者の存在とイコールとなるのです
「取り憑かれて如くに強迫的に執着」する事=存在となるので「取り憑かれて如くに執着」するその執着心はその者の「生存欲求」にとても深く繋がります。
よって「取り憑かれて如くに強迫的に執着」するその内的性質=「思い込みのその強さ」は「生存欲求にとても深く繋がっている分」だけ普通の人達のそれを遥かに凌駕するのです。
普通の人達のそれを遥かに凌駕するからこそ普通の人達の「決断力」や「行動力」を遥かに凌駕し得るのです
大事なのことは「取り憑かれているかの如く強迫的に執着」をどう活かすかと言うことです
良い方に活かせられれば普通の人達が成し得ない最良の結果となりうるし悪い方に活かせば普通の人達が成さないような最悪な結果なりうるのです
上記を踏まえて話を植松死刑囚に戻します
私が「多重障害者」を殺傷したその考え方を否定するが植松死刑囚それ自体を否定しないのはそのためです
    • good
    • 0
この回答へのお礼

よく言われることは、例えば植松は19人の存在・命を踏みにじったわけです。
そういう人間の尊厳を守るということは、どういうことなのか?
その一点に死刑制度の是非があると思っています。

死んだ人間は帰ってこない、のは事実です。しかし、そんなことをした人間を
許せるわけがないし、人として認められるわけがない、ということで、今の日
本では死刑制度を賛成する意見が8:2くらいではないかと推測しています。こ
れがいずれ、限りなく100%に近づいてゆくのではないかと考えています。人
を許さない社会ですから…

そんな中で、説得力のある死刑廃止論を立論することは至難の業と言っていい
のではないでしょうか?

お礼日時:2020/05/18 05:51

個人の尊厳の個人とは「主体としての「私」の事です」。

「我思う故に我あり」の「我」の事です。
「主体としての私」の資質=内的資質とは「心の有り様」や「精神性」等の「内面」の事です。
尊厳を守るとは存在を認めるとなり存在を認めるとは上記の内的資質=内面を認めるとなります。
逆に言うなら
「心の有り様」や「精神性」等の内的性質=内面を否定することは存在を否定することであり存在を否定することは尊厳を損なうと言う事です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

「尊厳」とは、内面についてのことである、と。なるほど。

容姿に対する侮蔑とか、肌の色による差別などは「平等」の問題ということですね?

お礼日時:2020/05/18 05:13

失礼、



一つ 言及を、
忘れていました。


「貴方サイドにおいて、
問題点が 見られる、」と、
想定を 広げる、
過程で、

魔女裁判と いう、
ワードが 浮かんできました。


魔女裁判、

課して いいものですか?
課されて 納得しますか?
魔女裁判 礼賛ですか?


元より、

抑もの 立脚点からして、
忌まれる 内容で、
あるとは 思いませんか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

さて、何を仰っているのか分かりません。

お礼日時:2020/05/18 05:00

お礼 拝見しました。




正に、

困惑の いっと、
爆走中の ご様子。


〉それは、分化された分野の中で出された答えの〈割愛〉
〉いうことの根拠がどこにもないからです。


根拠?

他の 何れに、
其れが ありますか?

何を 申されるやら、
指摘点こそが ずれてますよ?


他方、

此に 根拠は、
在りますがね。


況や、

別け 定量化し、
再構成させる際に、

言葉の 綾と、
しても、

総和だけが 許される、
手法では ないし。


同じく、

評価関数と でも、
言えば いいか、

そうした ものが、
必要に なる事も、
必然ですよね?


振り返れば、

別けず 評価する事に、
行き詰まりか あって、

評価正当性根拠が、
とても、とても、
担保できた ものでは、
ないのでしょ?


ならばこそ、

其れは 方手落ち認知と、
いえば、
未だ 形は、
いいが。


貴方サイドとして、

共に 難を、
感じながら、

一方だけ 難が、
あるような 言及であって、

Misleadと すら、
いえるような 表し方ですよ。


元より、

試行し 確立していく、
必要がある 諸手法において、

難易度を 下げる、
改善側を、

試しも せず、
切り捨てる等、

食わず嫌いも いい所、
有り得ないのでは。


正に、

自らが 抱える、
問題すらにも、
目を やらず、

問題解決を 図っている、
ようなもの。


少なくとも、

公正、公平、公明正大な、
評価実現からは、
表しベースとして 程遠いですよ?


併せて、

問題点に 蓋を、
したままで、
詳らかに する事を、
拒みつつ、

手解きを 問う等、
どうか してますよね。


総じれば、

故意、過失、
問わず 結果として、

不公正評価を 押し付けている、
記載内容で しかなく、

但の 喰わず嫌い保守的視点不実罵倒、
ですよね、

快の 欠片も、
ないものですから、

遺憾を 示します。


受けて、

結論として、
抑もの 認知に、
難が あるか、

比喩的に、
総身に 認知が、
行き渡って いません。


其の侭では、

他者正当認知等、
叶う筈も ないでしょ?


ならばこそ、

「回答者労力の 無駄遣いを、
している、」

とは 思えませんか?


抱える、

問題認知を 先行しましょう、
問題解決諸手法や 手順に、
間違いが ありますよ、

何故 困難を、
感じるのか、

何故 困難なのか、

何故 困惑の、
直中なのか、

見定めましょう。


ですので、

反省し 改める事を、
お勧めします。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

№18のあなたのご回答に対しては、次のような返答でおしまいにしておくほうが
よかったようです。

物事に対して分化して考える、ということは余程のアホでない限り人はするもの
です。その一つ一つを統合して問題全体を考えることが本番であり、それが知恵
というものです。高い知恵を発揮しなければ、なんにしても問題を解決させるこ
とは難しいものです。経験上の結論です。

それなのにあなたは、簡単なことだけやれ、と、まあそんなことを言っているわ
けで、しかも、こういう問題について「定量化」なんてことも言っている。許し
がたい他人、なんてものが定量化できますか?
もう少し科学というものについて、お勉強なさったらどうでしょうか?

何事においても根本的な根拠と、常識的に認められているものはありません。

物事を分化して、その一つ一つの答えの総和が、問題全体の答えであると、あなた
は言っているわけです。

私は、それが正しいという根拠はどこにもないと言いました。

それに対しあなたは

>根拠?

他の 何れに、
其れが ありますか?

と返答されています。それは、あなたの主張に根拠がないということを認めたとい
うことですよね?
根拠のないことを正しいと主張したということですね?

私は、必要以上のことを述べてしまうことがよくあります。楽しいからやっている
んですが、余計ついでにもう一つ。

あなたが「常識」と言ったことについては、若い(多分)あなたの責任というより、
日本国政府のやっていることが、正にこれで、連日報道されているので、だから常
識であると思っても致し方ないかな、と。

あまりしつこくやると、押しつけだの説教だの言われかねないので、このくらいに
しておきましょう。

お礼日時:2020/05/18 04:59

むしろ、オポジッション、対局に位置する相手なので、よく学ばせて頂いてきました。

これからも検討考察批判させて頂きます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

必ずしも対極の存在とは限らないと思います。
実は「同類であるので気に入らない」というような話はよく聞きます。

感情的になって対抗意識を燃やしてしまうことにより、自分を見誤って
しまうことが往々にしてあるのではないでしょうか?

お礼日時:2020/05/17 13:54

今と昔のちがい!


個人的な想像なんですけとね
語ってみますね(  ̄▽ ̄)ニッコリ
現代の日本文化って
江戸時代の治世から、産み出された事柄が多く残ってそうだと言われてて
集団の考え方なんかも
年貢なんかは(納税)
村、単位だったらしいですもんね
集団意識ってのが
良くも悪くも
村や町単位だったからこそ
個人としての自信や信念なんかは
重要視されてなかったのかも!
知れないでね
自信や信念より安心して暮らせる事に
重きを置いてたのかも?
集団意識があるからこそ
良い面なんかは、
助け合いの精神や義理や人情
乱暴者はいたとは思うけど
地域で助け合ったのだと、思われますね
村単位での、納税だから
年貢が納められないと、連帯責任とか
もっと厳しい取り立てとか罰則なんかも
((((;゜Д゜)))
なら、村で協力せざるをえないですもんね(運命共同体)
脱落者を減らすってな感じと、困った時は、お互い様で!義理や人情がありますもんね
悪い面は、
津山30人殺し事件のように
集団意識の強さが差別主義や身分制度なんかに発展してしまい
非人道的な歴史も残ってますもんね

江戸時代から、明治維新が発生して
文明開化や近代化などなど
世界の荒波にのまれまいと
時の権力者や指導者なんかには
大きな目標が、あったみたいで
ある意味、その人達が
新しい自信や信念を持とうとして
その志しが、
より多くの人達に共有されたかもしれないですね?
( ̄~ ̄;)邪推かな

新たな、自信や信念を獲得してからは
富国強兵や神道国家などなど
植民地支配を恐れたのか、帝国主義に目覚めたのか!
どちらも混在してたとは思いますが
より大きな、集団意識が作用されて
西洋列強が畏怖したのは、有名な話でもありますもんね

世界対戦に敗北してからは
戦後復興てな、大きな目標からスタートして
戦争需要と大戦の反省などなど
さまざまな意識が働いて
日本独特な文化が作り上げられたんだろうと思いますよ

ワシが生れた時代なんかは(昭和49年)
経済格差は確かにあったけど

今の時代ほど、勝ち組や負け組
利己的や金儲け主義
つきつめたら
個人主義てな感じはなくて
現代の日本をみてると
日本が変わったってより
世界的に個人主義の波が発生して
その波に日本も伝播されたのかも知れないですね
( ̄~ ̄;)!なんじゃそりゃ
世界的に、自信や信念を持ってる人って話になると
どうしても成功者てな話になってしまい
成功した人だけ、自信や信念を持つのが世の中だと変な風潮すら、感じてしまうのは!ワシだけでしょうか?

自分の存在を、他人の評価に委ねてしまい!自信や信念を持つのは成功者だけと
錯覚させられてるのかも
知れないですね

自信や信念と集団意識
昔は、村や街!国で共通の目標を持っていたから、自信や信念ってより
共存共栄てな助け合いの精神
日本独特の、おもてなしやお互い様みたいな考え方が
自信や信念よりも大切にされてた事が
ある意味、自信や信念になってたと思いますよ

これを話すため長くなってしまった

そういった日本人の気質も人柄も
グローバル経済や利益優先
なんてな事から、個人主義に伝播されて
集団意識を持つことの危険性すら
指摘されますもんね
新興宗教やカルトなんかが例にあがりますが!
悪い面だけ全面にだして、良い面は隠されてる感じだと思いますよ
個人として、自信や信念を持ちつつ
集団としての!個人の在りかた

集団意識に自信や信念を
任せっきりにしてると
個人の自信や信念なんかは、探しにくくなるのかも知れないですね
    • good
    • 1
この回答へのお礼

https://www.youtube.com/watch?v=H3WJ2WerLN0

私は、わしやけど さんよりもう少し古くから生きているので、古い日本人を
見てきています。子供のころは大正生まれ、明治生まれの人たちがまだたくさ
んいました。

私が言う自信とか信念とは、「オレはオレ、あたしはあたしで勝負!」という
感じなんです。
いわゆる「勝ち組」の自信って、自分以外のものに立脚している事が多いと思
う。

古い役者さんたちの姿を今見ると、男でも女でも、何と言うかキリッとしてい
るように思うんです。その「キリッ」が、人間としての自信とか信念のあらわ
れであると私は感じています。

父親も母親もそうでしたし、周りの多くの人たちがそうであったと記憶してい
ます。
思想内容とか社会的実績などは大したことはなかったかもしれませんが(笑)、
その「自分は自分」という思いに立脚していたと思います。
また、欧米のように個人主義的なものでなく、集団主義的ではあっても。

以前紹介した大友裕子さんの歌などは(彼女は昭和34年生まれ)、正に典型的な
それだと思います、古い日本人の魂も感じますし。

それが、近頃では、何故こうなったかは引き続き思索しなければいけませんが、
自分で勝負していない、いや、人間で勝負していない、とも思えます。言って
みれば仮想現実で勝負していると思えます。

そうであるならば、大変危険な、世界観・人間観であると思います。

お礼日時:2020/05/17 13:47

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!