プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. タトへの話です。すでにあった質問のしつこい延長です。

2. 人間の――価値自由な認識の上にほどこす――おのおの価値観を
持ってする世界のものごとについての判断。これには 好ましい・好ま
しくないといった白と黒とがあると見られるが その同じ次元で グレ
ーも同等にあると言うべきか?



☆ ご見解をふるってどうぞ。質問者も もろに自分の考えで応答して
まいります。

A 回答 (5件)

キリスト教的な神、ならば“判定”も有るでしょうが。



ブラジュロンヌさんの云う神とは、普遍神の事ではなかったですか?

普遍神が、“判定”なんてことをする筈はないでしょうに。
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この回答へのお礼

だって 前提が:
★★ 白か黒かと云うのは、善か悪かと云い換えられるとするなら
ば、神か悪魔かとも言い換えられる筈です。
☆ だったので。・・・


――ご回答をありがとうございます。


でしたら 善悪の判定をする神という話はほっぽり出して考えます。


でも ひとごろしについては 人間も 白か黒かの方式で判定する
と思います。

白は ないです。黒です。ノーです。

それで じっさいには 緊急避難の場合などにグレーがあり得るん
ですが その場合 問いは:
☆☆ 黒と白の同じ次元で 灰色もあるか?
☆ なんです。


つまり ひとごろしについての判定が グレーになるのは 場の情
況が――生命の危険にさらされたときなどとして――きちんと考慮
されたときのことです。


つまり グレーは 白か黒かと同じ次元においてではなく 初めの
黒だという判定を大前提とした上で 派生的に・二次的に人間性の
問題を考慮したときに 生じる。と思われるからです。

ちがうかなぁ。そんなふうに思うんですがねぇ。

お礼日時:2020/05/23 01:44

白か黒かと云うのは、善か悪かと云い換えられるとするならば、神か悪魔かとも言い換えられる筈です。



人間の世界に於いては、神の世界でも悪の世界でもないと云えるので、したがってグレーとなるでしょう。

濃淡の世界だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 白か黒かと云うのは、善か悪かと云い換えられるとするなら
ば、神か悪魔かとも言い換えられる筈です。
☆ 悪魔は 神には歯が立たないのですが それを前提にしてい
るなら そういうふうな二項対立です。



★ 人間の世界に於いては、神の世界でも悪の世界でもないと云
えるので、したがってグレーとなるでしょう。
☆ そのとおりです。


★ 濃淡の世界だと思います。
☆ はい。


ですから 経験事象としての相対的な善悪については その関係
は連続していて グラデーションとなっているはずです。

(そこをなお 善と悪とを峻別するという人間の努力もあり得ま
すが)。


言いかえると 神について善を言う場合には 至高の善もしくは
絶対性としての善でなくてはならないわけです。

そしてこの神の善(あるいは 愛)のもとには――神は善人にも
悪人にもひとしく雨を降らすと言われるごとく―― 相対的な対
立にすぎない有限の善と悪とが 濃淡の差をもって並んでいると
考えられます。


にもかかわらず 結婚の申し込みに対する答えは 白か黒かいづ
れか一つです。グレーはないです。あたかも神の判断に似たよう
にです。

(神は 善人と悪人とにひとしく愛の手を差し伸べますが その
判定は きびしく決まります。あとで 変更があるとしてもその
時点ごとに決まると思われます)。

お礼日時:2020/05/22 21:49

おじいさんは「あれでもない、これでもない」の否定神学。

お父さんは「あれも、これも」の多元論者。キルケゴール当人は「あれか、これか」2元論者。ヒトの認識思考類型ですかね、キルケさんの人間論です。
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この回答へのお礼

ううーん。ううーん。――ご回答をありがとうございます。


つまり まづ価値判断は 自然本性(身と心 感性と理性)の問題
です。

超自然ないし超経験である霊性にかんしては――たしかに人間が 
その絶対性に向き合って 相対的な意志行為として《選択》をおこ
ないますが その選択は けっきょく有るか無いかのいづれをえら
んでも・また モノのみなもとをえらぶもコトのみなもとをえらぶ
も その選択行為のどちらをも〔霊性は〕 つつみ容れている の
ですから―― どれか一つだけの一定の答えというものは 出っこ
ありません。


強いて言えば 《あれも これも》がよさそうですが ひとりの人
間の活きた実存にとっては 具体的にあれ または これといった
ように いづれか一つを採ります。


オホモノヌシの神か ヒトコトヌシの神か あるいはさらに名称と
しては やほよろづあるわけですが ふつうはいづれかひとはしら
を わが神とします。



けっきょく霊性にかんしては いづれの神をえらんでも・また無い
神をえらんでも その神が いわば光であり 光の白色(無色)と
して ほかのいろいろな色をすべてつつみ含みます。

ぢゃあ その無限なる絶対色のもとに 経験相対的な白もあれば黒
もある そして灰色もあるではないか?

――そのとおりです。そういう意味では グレーは 白黒と同じ次
元に同等な価値判断のひとつとして位置します。



ただし 人間存在――つまり 《われ》・したがって《なれ また
かれ・かのじょ》――を肯定するか否定するか その白か黒かは
実存にとって 決定的な選択ということになっています。(限りあ
る生を生きる人間にとってそういう条件を突きつけられています)。


わが連れ合いをさがし求めるというのは――離縁がどうのこうのを
別として―― 相手にかんしてはやはり白か黒かなんです。婚姻に
は 灰色の選択はありません。

(だから いにしえには サクラメント(秘跡)として連れ合いを
えらぶことは 神のハタラキカケがあるのではないかと受け留めら
れていました)。

原則が決まり自分の思想(生活態度)として確定すれば(サンクト
ゥス) あとは 情況に応じてさまざまなグレーゾーンも 実際に
現象して来ます。


このように考えます。

お礼日時:2020/05/20 04:45

二値論社会の住人にはそれしか見えない。


それだけのことです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

そんなふうに返されたなら 別様に反論します。


色は たしかにさまざまな種類があります。そして もし
白と黒とのあいだには いろんな灰色が並んでいる。これ
らは あくまで互いに同等の存在なのだ。

――このように言って 価値観の多様性そしてその有効性
をうったえるというふうに受け取りましょう。

すなわち:
★ 二値論社会の住人にはそれ(☆ つまり 白か黒)し
か見えない。
☆ だから 多値論社会にあっては 白と黒とのほかにな
おさまざまな判断があり得るのだと。


反論としては しかしながら 色はそのような多様性を持
つとしても 光としてなら すべての色が一体となった全
体として けっきょく白(または 無色)である。

言いかえると 白(ないし無色)の中に いろんな色が分
かれて含まれる。


どういうことか?

われらが存在は 価値判断するならそれぞれウイ(是ない
し諾)なんです。それが 光の色としての白でしょう。

ウィに対して ノンを言う自由度は人間にあります。あり
ますが 存在ないし人格の全体として白(無色)であるそ
の派生的な価値判断として 現象しているに過ぎない。

黒も灰色その他その他も みな 派生し従属する種類の色
なんです。

グレーが 白と同じ次元で同等に存在しているとは 考え
られません。

それとも じっさいの人間社会には 存在を抹殺する自死
も他殺もあるではないか? と言ってそのような派生的な
現象としての黒ないし灰色を 存在そのものの色である白
と同等の種類として みとめますか?





☆ 黒色は 光の白に含まれるというよりは 光の無とし
ての闇を言うほうが あたっているかも知れません。

だとすると やはり 白か黒かになります。

お礼日時:2020/05/19 21:28

二値論的社会では、yesかnoだけで、第三の解答は許されない。


多値論社会では、善悪は別として無限の解答が存在しえる。妥当性が検討され、解答は淘汰されるが、それでも多数の解答が許容される。

日本では多値論が主流を占めていると思われるが、あなたが求めている質問の回答は、どちらの社会にあなたがいるかで異なる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 二値論的社会では、yesかnoだけで、第三の解答は許されない。
☆ その論理はわかりますが じっさいにそういう社会があります
か?

そういうわるく言えば形式論理が あたまの中であり得るというの
みなのでは?



★ 多値論社会では、善悪は別として無限の解答が存在しえる。
☆ そうですか。欧米の社会では そうかも知れません。

反対ばかりしてわるいのですが そういった――多値論にもとづく
――社会においてこそ ややもすれば日本のように いわゆるお上
意識によって情感の共同性が醸し出され おおむね統一した思潮に
みなの意見も収れんしていき けっきょく単一の論理や価値が と
うとばれるという事態になりかねないとも限りません。



★ 妥当性が検討され、解答は淘汰されるが、それでも多数の解答
が許容される。
☆ タテマヘは 万機公論に決すべしであり 日本でも《多数の解
答》が提出されることになっています。


★ 日本では多値論が主流を占めていると思われるが、あなたが求
めている質問の回答は、どちらの社会にあなたがいるかで異なる。
☆ つまり 社会のあり方いかんをいま別にして 人間にとっての
価値判断は 《白か黒かグレーか》という選択形式が 原則である
とおっしゃるわけですね。




反論をのべます。

二値からの選択にしろ多値からえらぶにしろ その選んだ答えにつ
いて けっきょくイエスかノーかが――そして原則として そのい
づれかひとつだけが――あり得る。のでは?

なぜなら ノーは いづれか一つの選択についてのイエスを否定す
る答えとして 《選択はゼロ》だとか《いづれをも選択する》とい
った場合をすべてふくむと思われるからです。

イエスかノーかなんです。たとえば《保留します》という答えも
ノーにふくまれます。

つまり 大きく《ノー》の中にそうとすれば《グレー》なる種々の
答えが入ります。

グレーは 白か黒かと同じ次元で同等にあり得るものではない。と
考えるのですが いかがでしょう?

お礼日時:2020/05/19 19:09

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