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ネット上の誹謗中傷が話題になっています。勿論、今に始まったことでは
ありません。
ネット上と言いますが、これは仮想現実ではなく、社会に生きている人た
ちの心の中のことです。

「私は意識高い系で、モラルがあってセンスが高くて上等な人間です」み
たいな顔をしていても、そうした心を持って人を決めつけて攻撃している
可能性があるということです。

苛めという問題もあります。私自身も苛めにあったことがあります。私が
何をしたかと言えば、クウキを読まなかったことです(笑)。よくやります。
それが原因で、皆が一致団結して私を責めようとしましたが、私は自分の
意見を言いきりました。
そのあとです。陰湿な苛めが続きました。

私は自分が完全無欠だなどと勿論思っていませんし、自分が差別的なことを
一切していないとも決めつけていません。しかし、立場の弱い人間をよって
たかって責めることに加担はしたくないと思っています。

こういう問題は、法律による規制では十分でないか、全く効き目がないかだ
と思います。法律というものは逃げ道があるものだからです。
国民の意識の問題であろうと思います。

この問題をバッサリと斬っていただきたく、思慮深い皆さんのご意見をいた
だきたいと思います。

質問者からの補足コメント



  • 一つの意見として、参考までに。

      補足日時:2020/05/24 16:57
gooドクター

A 回答 (22件中1~10件)

エゴは下らないと思える、これは全く大人の言う事であり、私もそのように思えるように早くなりたいものです。

小馬鹿にされると直ぐカチンと来てしまうのではなく、おおらかな心で、のれんに腕押し、糠に釘、みたいな、動じない人間になりたいですね。直ぐ相手をやっつけたくなってしまう。未熟な事です。
そう言えば、最近、求道心と言うものを敢えて抑制していましたが、(と言うのも何か別の視点があるかもしれないと探していたのですが、)にゃんポコさんの話を聞いて、改めて発起したようです。人生は待ってはくれない。いつ終わるかも分からない。全ての角度で物を見ることに費やすのではなく、自分の信じる見方で貫かなければ直ぐに時間切れになってしまうと。

中村久子さんの話、少し調べました。逆境を生き抜いた、尊敬できる人だと思いました。
私の置かれた逆境など、彼女のそれに比べたら微々たるものであるけれど、生けるものは皆、時の流れと言う逆境に生きていると思います。押し流された者から死んで行く。
時間に死せるのではなく、時間に生きて、この世を全うすべき事を改めて思いました。

熱く語れる人は少ない。にゃんポコさんは落ち着いているが熱いものを背後に持たれているその一人です。

逆境かー、そうなんだよなー、、
正直言って、私は介護の仕事を投げたのです。クライアントにどつかれ、にも関わらずクライアントをやさしく気遣わなければならず、報酬は少なく、危険は多い、責任は重い。もし、気の良い近所の兄ちゃんと言う意識でOKなら続けられたのですが、プロ意識を持てとか言われて、はぁ?何がプロやねん。と思ってましたから。クライアントにヘコヘコするんがプロちゃうやろと。別にクライアントに腹立てたなんて事は一度もないですが、手に余ったのは事実です。
しかし、クライアントに対等に接すれば接するほど、彼らの心(立場)に近づかなければならなかった筈です。向き合うのでは無く、並び立たなければならなかった。逆境を共にして、生きなければならなかったのです。
それは大変に難しく、勇気のいる事であるが、明るく、そして熱い生き方であります。
そんな奴になりたいと、今なら思えますね。ありがとうございます。

木村花さんの話でも、有象無象のクレーマーに、俺が代わりに文句言ってやるよ!くらいの気概を持てるような人でありたいものです。
やっぱそうなんだよなあ。熱いやつってのは、本気だし、誠があって、信頼に足る人間なんですよ。
今の俺は信頼に足る人間か?と問われたら、クソが!と、猛省したいですね。自分を奮い立たせて、少しでもそんな人間になれるように気合入れます。
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この回答へのお礼

私は子供のころから感情が激しくて、おおらかな人間ではなかったですね。
おおらかといえば兄がそうです。怒ったところを見たことがないくらいです。
何かあっても、スーッと引いてゆくのですから喧嘩になんかなりません。
正に暖簾に腕押し、という感じで、正直イラつくこともありました(笑)。

私にはどうしても許せないものがあって、例えば、花さんに対し寄ってたか
って責めるような行為です。
普段の憂さを晴らすとか、自己の存在意義を感じられないからやるとか、そ
うであるならば、人間として史上最低の行為の一つであるとすら思います。

そういうことをやる連中には「くたばっちまえ!」とか「地獄に堕ちやがれ!」
と言うべきだと思います、本来なら。ただ、そういう発言によって社会的信用
を失うので言わないだけなのです。

そのようなうっとおしい熱さをもっております。

>最近、求道心と言うものを敢えて抑制していました

なるほど、しかし、全ての角度でものを見ようとすることが、真の求道と言える
でしょうから、限られた人生の時間ではありますが、そのような努力をしたいと
思っています。

介護の仕事の現場を私は知りませんが、様々お話を聞きますと、お客の奴隷にな
っているような面があると思います。それは社会全般に言えることで、その傾向
は強まっていると思います。
ですから、逆境と言っても、避けるべき環境はあると思います。

お礼日時:2020/06/28 19:42

素晴らしい見識をお持ちだと思います。

人間の歩幅と世界観について、精神のスケールについて、思考様式と公理について、哲学を学ぶ動機について、なるほどと思いました。

私事になりますが、私はよくやさしい人だと言われるのです。しかし、人の好意を無碍にすることがままあるのです。例えば、付き合っている女性が手作りの焼き菓子をくれたのに、それが大しておいしくもないからと言って、残して捨ててしまったことがあります。
大体私は、得たものの価値を知ることがなく、既に与えられているものの価値を評価せず、すでに獲得しているものの価値を矮小化してしまいがちです。
自分の家族、自分の属する社会、自分の得た知見、自分の持っている時間、このようなものの有難みを過小評価して、自分の豊かさを減じてしまっている。それをどんなに欲しても得ることのできない人がいることを分かってない。当たり前について感謝がないのです。貧しさや病にある種の憧憬を抱いたりして、その辛い実態に思いはせることが出来ないのです。これは人の痛みをよく分かっていないのだとも言え、人の痛みをよくわかっていない者はやさしい人や善人とは言えないと思うのです。
勿論、私自身が苦労してこなかったと言うわけではありません。しかしその苦労ですら、過小評価してしまい、ともすればすべきでなかった苦労とさえ思ってしまうのですね。

有難いことに、それに気が付くことが出来たと言う点では、恵まれているでしょう。
大事なものを既に得ているのに、それに気が付かないことは大変に悲しいことです。誰も、欠けたるそれを、与えることによって埋めることが出来ないからです。

一角の知恵を自分は持っているのだという自負を持っている人が、このカテには少なくないと思います。
しかしニャンポコさんにはその、ある種の優越感と言うものを感じない。それは美しいことです。
ニャンポコさんには学ぶところがある。
ブランクもあるけど、私はここを20年来使用しています。初期のころには今よりもっと純粋だったし、バカも言った。
青春の時には何をしても楽しいし、苦しいし、全てが鮮烈ですね。なにせ、元気がある。

素朴に生きるのが難しい時代です。目立たないことが評価されない時代でもあります。
しかしむしろ素朴に生きて、煌びやかにならず、目立たずにいて、質実あり、そのような人生を送りたいですね。
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この回答へのお礼

なにやら、たくさん褒めていただき気恥ずかしい感じです。しかし、クールな
人に褒められることは光栄なことです。

仰ること分かる気がします。人間だれしもそのようなことはあるのでしょうけ
れど、なかなか気が付かないものであると言えましょう。
それがわかるには、やはり年輪ということになると思います。コツコツと人間
というもの人生というものを求めているうちに、知らず知らずのうちに思索の
スケールが広がり、エゴを克服せざるを得なくなるのではないでしょうか?
エゴが下らないものに思えてくると思うのです。

誰もが持つ「低級な」心に克って、「高級な」心に到達するには、「求道心」
というものが必要なようです。
「苦労・努力」が必要なんですね。可愛い子には旅をさせよ、なのですね。

中村久子という人物をご存知でしょうか?彼女は重度の障碍者であり、その苦
労は並大抵ではなかったはずです。母親はそれは厳しい教育をしたようです。
そして、彼女は彼女らしい精神の高みに至ったようです。

お礼日時:2020/06/28 00:13

アインシュタインも、常識とは18歳までに得た偏見のコレクションだと言ってましたね。



私は無知ではないですが、やさしい人ではありません。公案を解いて空を悟っても、善い人間になれるわけではありませんね。ただ、真実には近づくことになるでしょう。

最近は、小さな夢が人を幸福に導くんじゃないかと思っています。それは時に小市民的だと揶揄されるようなものですが、やはり人間が持つ本来のスケールは自分の歩幅なんだと思う。
人類はいろんな乗り物を発明したけど、乗り物では幸福と言う地にはたどり着けないのかも知れないと。

ヘリコプターで行く山頂からの景色と、歩いて登る山頂からの景色は同じだと言う人もいるけど、私は違うと思う。本質が。見てるものが、違うと思う。
(確かにヘリコプターを作るのになされた努力は、大変なものがあるだろう。登山に使うギアを作るよりも大変だろう。
でも、そう言うことに想いを馳せてヘリコプターに乗り込む人なんて殆どいない。殆どの人は、楽していい景色が見たいだけだと思う。)

ヘリで山頂に行こうと思う人と、歩いて登ろうと思う人とでは、目的が違うと思う。同じ山頂に立つけれど、目的が違う。
幸福についても、幸福にさえなれればいいんだと手っ取り早く考えるから本筋を失う。
自らの足で赴くから意味があるのだと考えるので、幸福が本物になるんだと思う。

なんか、幸福論になってしまった。f^_^;
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この回答へのお礼

>私は、やさしい人ではありません

そういう感じはしないんですが、そうだとするならば、それは時代の影響が
大きいのではないかと思います。人間がどんどん冷たくなっていますから。

私にとってはまだ漠然とした思考ではありますが、人間の進む歩幅というも
のは、自分が把握している空間(空観)のスケール(物質的、精神的ともに)に
よるのではないかと思います。

仰るように、機械を使って合理的に大きく進もうとする人が歴史を進めてき
たと信じられていますが、それは人類の進歩のほんの一部分であって、それ
だけが極端に進むということが果たして「良いこと」なのかどうか?

現代文明は明らかに物質面において認識のスケールが広がり、進歩の歩幅が
大きくなってきましたが、精神面においては逆に小さくなり、むしろ退歩し
てきたと思います。

それが、現代の「偏見」であり、精神面を無視しようとする「間違い」であ
ると考えています。
その間違いは、いったい何によるかといえば、存在論、認識論をはじめとし
た哲学の「世界観・人間観」によるものだと思います。

人は大抵哲学など興味がないのですが、思考の根本としての世界観・人間観
を持っているのです。科学が「公理」を基準として理論が組み立てられてい
るのと同じで。

そういうようなことで、私は6年前に哲学というものに興味を持ったのです。
ここにはじめて投稿したのは、確か6年前の6月でした。

お礼日時:2020/06/23 14:48

言葉には意味するところがあって、その意味が理解されないと、その言葉を理解したことにはならないでしょう。

これはどんな言葉でも、例えば数式でも、訓戒でも、日常会話でも、詩でも、物語でも、約束でも、感情論でも、全てそうだと思います。
形而上的概念にも意味があって、その意味を理解してこそ言葉は生きて来る。言うなれば、その意味こそが言葉の内実なわけです。
ところが人は、言葉の表面に囚われて、その意味を受け止めることができない場合も少なくありません。そして禅問答もまた、その様な言葉にまつわる人々の欠点を暴露するものです。
禅問答をストレートに考えると、壁に当たります。そこで人は、回り道を考えたり、壁に当たらずに済む方法を考えたり、壁を破壊しようとしたり、色々考えますが、それらは全て解答にはならず、自己を歪めた帰結に至らざるを得ません。禅問答は最初から最後まで真っ直ぐに進まなければ道は通じない性質のもので、その真ん中に壁が設置されている訳です。その壁を如何に通過するかが課題なのであり、禅問答の主眼であり趣旨であり、目的なのです。この壁は、岩山の様に分厚く、鋼鉄よりも硬く、火炎にも耐える。表面は凸凹しておらず、取っ掛かりもない。どんな道具を使っても、どんな方法を取っても、それを変質させることはできません。つまり言い訳は効かない。
しかしながらこの壁を壁ではなく門とする人が、これを通過するのであります。

例の禅問答の回答は、QA内に公示しましたが、自分で解きたい場合は見ない方が宜しいでしょう。それにそもそも、自分で解きたいと思う人でなければ解けないと思います。

壁に向かい合った時、正しく前に立つ人はそれに対して直角に立つでしょう。真っ直ぐにぶつかる角度です。しかし解いた時には、つまり通過した時には0度を経て通過するのです。解いた人は皆そうです。正面以外に立つと全て弾かれるか、壁を背にして逃げる羽目になるでしょう。今のところ、ニャンポコさんの回答を拝見した限りでは、正面には立てている様です。壁の周りを彷徨くこともなく、画策することも無いようです。公案を解く準備としては正しい。諦めなければ、きっと解けるでしょう^_^
公案は一点突破であり全面解放であります。
ジタバタして解けるものではありません。
短い時間で解く人もいれば、長い時間かかる人もいます。ただ、解いた時には特殊な感動とともに、空についての確かな知見を得ることができるでしょう。それは、言語表記することのできないものでありますが、体得されるものです。

林檎の味を知るには食べるしか方法はありません。百万年勉強し、あらゆる図書館に通い、研究者に会い、またリンゴの遺伝子等を分析したとしても無駄です。それらは皆、決定打にはなりません。
空も同じです。解空する以外に道はありません。いくら経文を読み、仏教哲学を研究し、瞑想しても、無駄です。解くこと、それが全てです。
それは、完全な漆黒、光の無い世界で物を見るよりも難しいことです。何故ならそれは、光ある世界においてさえ、見えないものだからです。光さえあれば見えるようになると思っている人、或いは、視力さえあればと思う人は、解くことはできない。
視力があって、かつ光を知っている人が、初めて挑戦できる問いなのです。
しかし、この問いの前では、冴えた視力も明るい光も全く役立たないことに気がつくでしょう。
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この回答へのお礼

言葉、概念をどう理解するか、ですね。

私が社会人になったばかりの時に、ある上司から「言葉の意味をどんどん追及
するべきだ」と教えられたことをよく覚えていますが、いいことを教えてくれ
たなと思っています。

人間若いうちは意外と頭が固くて、こうだと覚えたことを決めつけてしまうこ
とが多いと思います。だから、苦労のない人はダメな大人になります。これは
人生の鉄則です。

だから、人生において教育が重要であると言えるのですが、「禅問答」とは、
よくできた教育プログラムとして存在したのではないかと思いました。
昔は寺院が大学であったわけですから、同様の教育プログラムが多数存在して
いたのだろうと思います。

そうした意味で「禅問答」に興味を持つことができたようです。

お礼日時:2020/06/21 14:37

無限は超える事ができます。


例えば、地上にいる人にとって、地平は無限に続きます。しかしながら宇宙空間に出た人にとっては地平は地球と言う有限な球体である事が理解されます。このようにして無限を超える事ができます。

無限に続くように見える理想、これを仮に永遠と呼びましょう。この永遠も、実は超える事が出来るのです。それは何によって?満たすことによって超えるのです。
理想には実体が存在しません。この実体とは何かというのが、つまりは生きているという事実に相当するわけです。
カラッカラの砂漠で、ああ、水があったらいいなとか、レモネード飲みたいとか、最高に喉を潤す飲み物があればとか言ってても、一本のサボテンを見つける事の方が、意味も意義も価値もあるようなものです。理想では人は満たされず、命の獲得によって初めて満たされるのです。

今生きているという事実を賭けて、全一なるものを超えることこそ、真の理想であり、人間たる者の生き方だと私は思うわけであります。
つまり、我らの方こそが、実は無限であるのです。

でも人間は死ぬではないか?と言われたら、君はまだ生きている、そんなことは死んでから言いなさい、と言ってやればいい。
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この回答へのお礼

返答が遅くなり、申し訳ありませんでした。

哲学的な深い話だと思います。
理念、理想というものが無限だとは言え、その人の頭の中の枠というか限界
というものがあるでしょう。

その限界は、ふとした時に「気が付く」もので、その時に真に道を求めてい
る者には懊悩が始まるのでしょう。その悩みの果てに新たな枠・限界という
ものが自身の中にできあがる。

>我らの方こそが、実は無限

そうですね。とともに宇宙も無限。言葉で表現される「形而上的概念」、こ
れが「実在するもの」なのかどうか?
これが「空観」の解釈ということになると思うのです。

この間の問題の答え、まだわかりません(・_・;)

お礼日時:2020/06/17 00:57

>理想を超えたもの?それはどう考えればよいのでしょうか?



生きていると言う事実によって、理想を超えてゆくのであります。生きていると言う事実を賭けて、燃えるのです。
それは、現実に妥協するのではなく、この血潮でもって、なまの現実を生きる事です。
言葉じゃなくて、理想じゃなくて、生の、命の燃焼なのです。
私はそう思って生きています。
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この回答へのお礼

「命の燃焼」、これは人間の一番の幸せだと思う、これができることが。

理想は無限なものだと思っているので、超えることはできないでしょう。
理屈を言えば。

お礼日時:2020/06/11 23:47

そう、労働者を人材ではなく消費材かのように扱ってきたのが、私の知る限りの、最近20年くらいの日本経済です。

人々を巧みに消費経済の罠に嵌めて、あたかも消費するために生きているような人々を、市場において生み出してる。それで富を集めている者がいる。彼らが最終的に何をしたいのか知らないが、もし何か目的を持っているのなら、それも計画の一つでしょう。
また、計画は、別の計画同士で干渉するもので、ただ力関係だけで世界の計画が実現に向かうわけでも無いと思います。

ところで、民衆を一つの理念のもとに束ねて、世界を動かそうとすることも計画です。
民衆と言うのは、集合です。しかし、空っぽの人間がいくら集まっても烏合の衆にしかなり得ません。民衆が力を持つ為には前提として個の自立が必要ですが、自立した個が民衆を形成するかどうかは疑問があります。しかし、意志によって生きる人が増えないと、本当に人々の為になる世界もまた、生まれないでしょう。

理念に従う集団を作り出すのでなく、他に依存しない、従わない、意志を持った人間一人一人が、自由で活力のある社会を生み出し得る源だと思います。

それは計画によって成り立つ世界ではなく、自由意志によって成り立つ世界であり、現代の人間社会とは根本的に異なる相の社会であるでしょう。

例えば絵画を描く時に、計画的に描いて素晴らしい絵が出来ることもあるが、それはイデアの模倣に過ぎません。計画した以上の結果を出すには、どうしても予測不可能性が必要であり、発露する自由が無ければ、生きた絵画は出来上がらないようなものです。

理想を超えたものを人は求めるべきであり、理想に帰着してはならないと言うのが私の考えであります。
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この回答へのお礼

経済の世界でいえば、トップクラスになれば目的は世界制覇でしょう。つまり「天下獲り」
ですね。孫正義も(今苦境のようです)ザッカーバーグも、それが目的だと思います。
資本力がものを言っていて、これから伸びそうなところはことごとく吸収されているといい
ます。
しかし、私に言わせれば個人的な小さな目的、計画であります。人間というものを深く考え
深く壮大な理念からの計画はあり得ないと思います。利益至上主義だからです。無駄なコス
トをかければ、取締役会、株主総会等で叩かれます。

現代においては、組織が大きいほどに利益至上主義以外の理念を追求することは、株式会社
では不可能でしょう。

それらの利益追求団体と相対するように様々な理念を持った団体もあります。しかし、私の
見た限りでは、理想に燃えている人間ほど組織にはなじめず、独立してゆきます。そう、シ
ングルプレイヤーが多いのです。個人でできることは限られてしまい、自ずと限界があろう
と思われます。

大抵の場合、理念・理想が現実と妥協され、そのことが目的になってしまっているのが世間
というものですよね?

私はここに帰着すべきではないと思います。あくまで、理念・理想を目的とすべきであると
思います。

理想を超えたもの?それはどう考えればよいのでしょうか?

お礼日時:2020/06/09 00:54

明治時代の軍部は、戦争の終わり方を想定して、戦争を始めたと聞きます。

最後にはアメリカに調停に入ってもらおうと言う計画があった。対ロシアでは長期戦になれば敗れる。勝ち逃げするのが賢い抜け方だった。
 昭和の最初のころは、日本はアメリカに資源を止められ、仕方なく近隣の外国に資源を求めに行ったとか、また別に、帝国への幻想があったとか、さらに別に、大東亜共栄圏という理想があったとか、いろんな話を聞きます。
アメリカはアメリカで、十数発の原爆を日本の都市部に落として日本を消滅させる考えもあったと聞きます。しかし、アメリカは、太平洋戦争、第二次世界大戦後の世界を見据えて、日本を生かした。対共産圏の防波堤にするために、民主化したのです。
これも、世界の計画です。

例えば、自動車を動かしているのは何か?という問いがあるとして、様々な答えが返ってくると思います。
エンジンだと言う人もいれば、車輪だと言う人もいる。ガソリンだと言う人もいる。
しかしながら、ここで求めるべき答えはドライバーという答えです。
それが、意志に当たるわけです。
民衆というのは、腹立たしいかもしれないが、ガソリンみたいなものです。それくらいにしか思われていない。世界の計画は、エンジンのようなものでしょうか。
しかし、民衆ではなく、一人一人の意志が、人にあって然るべきしあわせをもたらすと私は思います。
為政者は民衆をどうするかを考える。しかし哲学者は、人をどうするかを考えなければならないと思う。そして人は、どうありたいかを考えるべきであり、各々である自分という存在は、意志を発揮せねばならないと思う。意志を発揮したなら、わざわざ憎悪にまみれたいと思う人はいない。誰かを損ないたいと思う人はいない。そう私は信じておるわけであります。
人々は、激情に駆られて徒党を組む。人々をコントロールしたいと思う者達にはお見通しだと思います。
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この回答へのお礼

例えば、アレキサンダーの計画は世界の民衆にとって、いいものだったのか?
ナポレオンの計画はどうだったか?織田信長のは?ジョブズのは?

国家・組織といったところで、その計画が統一されているわけではなく、力関
係によって有力なものが認められているだけであって、どう変化するかわから
ないのが現実というものであると思います。

人類は「団結」ということをどんどん忘却していると思います。一つの思想・
理念により団結するということは最早「ない」時代と言っていいのではないで
しょうか?

現在では、AI技術、IT技術を使った合理的な社会の現出という理想があるとは
思いますが、そういう世界的な計画があるかといえば私は「ない」と思います。

団結していないからです。競争のみあって、団結はまずないと思います。理想を
被った自己の利益の追求のみあるだけでしょう。

仰るように、民衆はガソリンのように消費されてきました、国家の正義という名
の小さな個人的欲望に。
民衆がドライバーであり、計画の立案者であり、主人であるべきです。民衆こそ
が自分らの尊厳と平等と自由を即ち幸福と平和と自然の保護を希求しているから
です。

その民衆の望みを叶えるためには、民衆が団結すべきです。ところが、民衆は団
結せず、互いに憎しみ合っていて、時代のケツを舐めてばかりいます。
そこに、世論操作、情報操作というものを感じるわけです。また、現代の世界の
計画が見え隠れしていると思います。

お礼日時:2020/06/06 11:58

戦時の狂乱の背後には、怜悧な眼差しが静かに光っていて、それが戦争と言うものを半ばコントロールしていると考えています。

それは世界の計画だと思います。

人々を焚き付け、爆発させるが、その規模はどのようであるべきか、どの場所にすべきか、期間はどれくらいか、予測不能な世の激流と、知徹な計画の狭間で、戦争は行われると言うのが私の考えです。

そんな怜悧さをわきまえた分かってる教官もいれば、分かってない愚かな指揮官もいた事でしょう。
インパール作戦も当初、軍部内では無謀と言われていたが、政治的駆け引きもあって牟田口とか言う者の強硬が通ったようです。牟田口に、どうしてもインドに抜けて独立支援をせねばならぬと言う責任感があったのか、ただのわがままなわからずやだったのかは知りませんが。
そもそも太平洋戦争前夜は、開戦に向かうか向かわないかで、陸軍と海軍が別れて日本は内戦の危機にあったと言う話も聞きます。
複雑な、巨大戦争の内実を、一色に丸めてあれは狂っていたとするのは簡単ですが、簡単なだけあってそれは中身の薄い意見になると思います。
戦史とその前後を特に勉強したわけではないですが、全面的に日本はおかしかったとする論調は思考停止にさせられていると思っています。
世の激流をなんとか乗り切ろうとする隠れた英雄達は存在したはずであり、一方でそれを焚き付けた隠れた悪魔達がいるだろうと言うのが私の見方です。

そしてさらに言えば、そう言った善と悪の、全体におけるそれぞれの機能というものがあるのかも知れないと、考えています。

こう言った複雑な事情は現代社会にもありますが、そんな中でも生き切っていかねばならないし、できるなら自分や他者の幸せを求めたいというのが人間であります。
意志はそれを叶えるでしょう。
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この回答へのお礼

>世界の計画

これは私は「陰謀」という言葉に置き換えていいと思っています。

例えば、明治維新の直前などは、欧米列強の様々な「計画」が絡み合っていたのでしょう。
坂本龍馬の「海援隊」の後ろに「フリーメイソン」があったとか、色んな情報はあります。

太平洋戦争当時も、各国の思惑はあったことでしょう。アメリカはアメリカの、ドイツは
ドイツの、ソ連はソ連の、そして、日本は「大東亜共栄圏」といい、南方の資源が目的で
あったと認識していますが、違いますでしょうか?
その目的達成のために、アメリカに制海権、制空権を奪われ、圧倒的資源と科学力と戦術
戦力を持った国と、最後は竹やりで「一億玉砕」と叫んで戦おうとした当時の軍部のどこ
に冷徹さがあったのか?

仰るように現代においても、陰謀が渦を巻いているに違いないと思います。ここで思うこ
とは、陰謀をめぐらし活動をしている存在が「時代」を動かしているように見えますが、
実は、それらの陰謀はたまたま「当たった」だけのことであると思います。

ビルゲイツもジョブズもザッカーバーグも、運よく当たったに過ぎないのであって、時代
は民衆が作っているということを勘違いしてはならないと思います。

さまざま、洗脳されているとはいえ。

お礼日時:2020/06/02 00:27

戦場というのは理不尽の極みで、あらゆるプレッシャーが絶え間なく、最大級に襲ってくると考えられます。

捕まれば禁止されているはずの拷問もあるかもしれない。上官のしごきは、戦場で部下が正気を失わない為の、理不尽に慣らす目的があったと私は思います。

社会全体の育児力が低下し、子供の様な大人が増えたのは、家族が分断され小規模になったからだとも思われます。大家族で、兄弟や親戚、祖父母などがいる所で育つのと、父母と子、とか、母子、父子だけで育つのかでは生育に大きな差異が出るでしょう。
しかし、では、孤児は立派な大人になれないのか?と言うとそうでもないし、大家族で育てばひん曲がらないかと言うと、言い切れない。
この小さな可能性、即ち子供の持つ素質を最大限に伸ばし、活かせるのは何か?と言うことが、真っ当な人間を増やすことにつながると私は思います。

漫画やアニメでもいい。塾や学校でもいい。友達関係でも良い。家族だけでは足りないなら、なんらかの形で、子供の精神を発育する機会を作らないといけない。それは、子供を心から信じて、彼らの意志を開発することであります。君はどうしたいのか?と尋ねることから始まり、子供自身が、自分はどうしたいのか、どうなりたいのか、と自問することができる様に育てる事が大事だと思います。そう言う子はやがて、人はどうして欲しいと思っているのかについても、思いやる様になれると思います。

木村花さんはどうして欲しいと思っていたのか?視聴者が思いやれていたならば、事件は起こらず円満に解決を見た事でしょう。
これは倫理を教えたり守ったりするよりも優れた事です。

ああ、夜更かししてしまった^_^;
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この回答へのお礼

>上官のしごきは、戦場で部下が正気を失わない為の、理不尽に慣らす目的があった
と私は思います。

殴るなんて訓練でも何でもないと思います。残念ながら我が国の当時の軍隊は異常で
あったと言うほかはないです。インパール作戦などの合理性の欠落した作戦等、なに
しろあの状態まで戦争を続けたこと自体が異常ではないですか?

また、軍隊だけでなく、刑務所の中とか(手記を読みました)警察の態度なども同様だ
ったと言います。そこには同様の「思想」があり、そこから生まれる感情があったと
思います。

大家族でのメリットはあると思います。

私の住んでいる田舎では、少し前まで厳しいじいちゃん、ばあちゃんがいて、そうい
う家の子は、子供らしい子供(まあ、私の感覚ですが)でしたね。それも、どうも絶滅
したようです。
でも、やはり母親の影響がずば抜けて大きいと思います。

今の社会全体には、「思いやり」のかけらもなくなりました。戦時中に極めて似てい
ると私は思うわけです。思想が似ているのかも知れません。

お礼日時:2020/06/01 00:46

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