良く歴史で「○○幕府が栄える」とか言いますけど、幕府って何ですか?
簡単に分かるんであれば教えて下さい。

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A 回答 (3件)

 もともとは将軍の本営を表す言葉だった。


 しかし源頼朝が征夷大将軍として政権を取ってからは、その本営(幕府)で政治を執ったため、
「武家政権の庁」をあらわすようになった。

 豊臣秀吉が天下統一しても幕府を開かなかったのは、征夷大将軍になってないからであって、
征夷大将軍になってたら幕府という形を取ったものと思われます。
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この回答へのお礼

征夷大将軍というのが関係していたんですね、ただそういうのがあるということしか知りませんでした・・・。無知ですね。

お礼日時:2001/08/12 00:05

大将軍の本営を幕府といいます。


鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、すべて天皇が任命した征夷大将軍(外部勢力を討伐する軍隊の総司令官)の作戦司令部、という名目なんです。
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この回答へのお礼

説明ありがとうございます。勉強する気が出てきました。
幕府!!すごいですね。

お礼日時:2001/08/12 00:07

将軍が軍務を処理する場所です。


軍旗のいたるところに幕を張って、将軍の居場所にしたので、幕府といいます。

将軍政権の意味に転用され、それが一般的になっています。

なお、中国にも「幕府」といわれるものはありました。
「近衛府」のことを言うらしいです。
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この回答へのお礼

何で皆さんそんなことを知ってるんでしょう。
すごいですね、尊敬しちゃいました。

お礼日時:2001/08/12 00:10

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Q室町幕府の扱いについて

徳川家康が始めた江戸幕府について、「頼朝の鎌倉幕府以来の武家による政権」という言われ方がすることがありますが、この言い方だと室町幕府を除外して考えているようですが、これは、室町幕府は江戸幕府・鎌倉幕府と異なり武家による政権として何か不足していることがあるからなのでしょうか?江戸幕府・鎌倉幕府と室町幕府の違いがあるのなら教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
 もちろん、江戸時代からの判官贔屓体質や尊皇思想などさまざまな要因も影響しているとは思います。南朝を正統とした「大日本史」もそのようですし。
 さらには主に対して忠であるべし、とする儒学の思想も関係しているかも。

 とにかく戦前には室町時代の研究も盛んとは言えなかったのではないでしょうか。
 近年になって、参考で挙げた今谷氏を始めとして中世を専門とする研究家も増え、当時の文献も多数研究されてきて、かなり新しい中世像が生まれつつあるのが現状のようです。そう詳しいわけではないですけど。

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
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Q米と○○の歴史 ○○には何をいれればいいですか。

米と○○の歴史について、調べています。○○のところに、「税」などの言葉を入れたいのですか、どのような言葉を入れればいいのでしょうか。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「税」よりも、「年貢」のほうがよいような。あるいは、「一揆」とか。
変わった物を調べたいなら、米を主食として、副食(あるいは主菜)に何を食べていたかとかね、

Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

Aベストアンサー

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む

Q室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか

室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか「守護たちは独立して領地を治めていたため、幕府は山城の国一国からの収入しかなかった」などと書かれています。しかし、半済令などで減っていたとはいえ、全国から年貢を得ていたのではないのでしょうか。
また、幕府の年貢は守護請では「守護→荘園領主→幕府」と動いていたと思うのですが、それ以外の場合は「守護→幕府」と「荘園領主→幕府」の2重取りだったのでしょうか。
さらに、朝廷はいったい何を財源にしていたのでしょうか。荘園からの収入だけで成り立っていたのでしょうか。
素人なりに調べたのですが、今ひとつわかりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、素人でもわかりやすいように教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

私も昨年から中世に興味をもって本などを読んでいるのですが、ご質問のように幕府財政はどうなんだと余り考えたことはありませんでした。

当時は、「幕府」といっても、「朝廷」がなかり力を持っていましたし、全国を考えても、畿内、西国、東国とそれぞれかなり状況が異なっていたような気がします。ですから、全国一律に「幕府」が年貢を徴収できていたかと言うと、かなりバラバラだったと考えた方が良いような気がします。

荘園と国衙との二重構造で、荘園は御家人(地頭)や地頭代が直接管理して、中央政府に米や特産品の年貢や夫役を納めていたと思いますが、一方で、大量の宋銭の流入による貨幣経済の発達(幕府は鋳造しませんでしたが)、また日宋貿易の幕府独占による収入など、その“財政”の姿は、現代は勿論、江戸時代ともかなり異なっていたのではないかなとか思っています。

まあ、ぜんぜん、回答にはなりませんが、思っているところを少し整理させていただきましたが、わたくしもその点に注意しながら更に読書したいと思います。

Q個人墓が爆発的に拡大しているそうです。 昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自分の実家のお墓に入れてくれと言うのも言いづらいので自分の好きなようにデザインしたお墓に維持管理費を先払いで支払っていく人が多いらしい。

子供はお父さんの実家のお墓参りとお母さんの個人墓の2つに参りしてるけど、お父さんが一族の本家のお墓参りをしなくなったように、子供の子供はおじいちゃんのお墓参りを止めるのか、おばあちゃんの個人墓のお墓参りを止めるのか両方とも行かなくなるのかわからないらしい。

孫が東京でまた自分たちのお墓を作ったら、完全に本家のお墓とお父さんの実家のお墓とお母さんの個人墓のお参りには行かなくなると思われる。

お墓が負債というか無縁化していって墓地だと無縁墓は引っこ抜かれて墓石は供養されて山住みされて、印字面を削って再利用される。

骨壺はどうするのかは分からない。

お墓が分散化されて個人1人に一個のお墓の世界になってきているのは間違いない。

これって個人墓の時代のお墓の概念はいまと変わりそう。

創価学会はお墓を複数持ちましょうって言った責任は感じているのだろうか?

個人墓の普及で無縁墓が増加して墓石がゴミ化しているのだが。

個人墓が爆発的に拡大しているそうです。

昔は○○家の墓という一族で入るお墓から、戦争とか出稼ぎとかで地元を離れて自分と子供のお墓として家族のお墓を一族の家系のお墓から独立して建てるように一族のお墓から家族のお墓になって家族のお墓にも入らずに家族の親が建てたお墓ではなくまた新たに自分のお墓を建てる高齢者が増えているそうです。

旦那の実家の家族が入っているお墓に一緒に入りたくないという女の人が個人墓を夫のお墓とは別に建てるのが多いそうで、旦那の実家の家族と一緒に入りたくないが自...続きを読む

Aベストアンサー

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

個人墓の問題は、そう遠くないうちに転換を余儀なくされるでしょう。
高齢化と少子化は変わることはありませんので、無縁墓は爆発的に増え続け、寺も今までと同じ対応は出来なくなりますから、墓地そのものを減らす方向に傾くと思います。
もしくは、全く「別の場所」に共同墓や樹木墓を集めた「墓地公園」を建設し、読経なども省く方向での経営になると思います。

人間関係が希薄になってきたわけですから、当然、法要の回数などもミニマム化し、寺の存続が窮地に陥るのは目に見えています。
今は過渡期といったところです。

うん、本当ですよね。

ゆえに、というか、当然の帰結なんだけど「樹木葬」とか「共同墓」を選択する人も多い。
埋葬に関しては、昔ならば「墓地」はあったけど、そこに樽詰めされた遺体を運んで、穴を掘って埋めるだけでしたからね。
だから墓石なんかも、主な役割は「目印」くらいだったんでしょうね。
それが肥大化し始めた。
墓石が巨大化し、お寺も墓地の「割り振り」を始めて、一族の墓としての役割を持たせるようになった。
それがさらに細分化していったのが昨今で、まるで建売住宅のようです。

個人墓の...続きを読む

Q幕末の幕府と藩の関係

幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

幕末には徳川幕府の権威も形の上だけで形骸化していました。
幕府に弓をひくような藩例えば長州藩に対し取りつぶしの処置もできず、武力により征伐するべく各藩に出兵を命じましたが親藩の指揮官の尾張藩ですら十分な兵力を用意出来ず、譜代や外様大名も同様でした。
その上旧式装備でしたから長州藩の新式装備、奇兵隊の活躍の前に敗北を重ねて進攻は頓挫する始末でした。第1次長州征伐は長州藩の内紛でなんとか勝利したのですが重役などを切腹させただけでそれ以上の処分は出来ませんでした。

この為第2次長州征伐が必要になったのですが、既に各藩とも戦意を失い、譜代大名の小倉藩の小倉城も落城、譜代の浜田藩も敗退し戦線は後退、膠着状態になる始末でした。

このように親藩譜代といえども全て佐幕派ではなくなっていました。
幕府が先手としていた彦根藩も桜田門事件で藩主が首を取られたことを理由に処罰を受けたため勤王派に鞍替えしてしまいました。
親藩の尾張藩も代々将軍になれなかった恨みから戊申戦争では勤王派につく始末でした。

Q【歴史・日本史】松尾芭蕉の弟子の李下は中国人ですか? 日本人? 松尾芭蕉は当時の江戸幕府の諜報機

【歴史・日本史】松尾芭蕉の弟子の李下は中国人ですか?

日本人?

松尾芭蕉は当時の江戸幕府の諜報機関に勤める江戸幕府直轄のスパイで他の藩のお偉方と接触して藩の情報を聞き出すのが本当の仕事で俳人は仮の姿って本当ですか?

松尾芭蕉も俳人の名前でスパイ活動時には別の名前を持っていたとか。

松尾芭蕉が行なった政治の裏工作ってなにが有名ですか?

情報員であってロシアのプーチンのように暗殺部隊所属じゃないですよね。

松尾芭蕉は生涯で人殺ししてないですよね?

Aベストアンサー

>他の藩のお偉方と接触して藩の情報を聞き出す
重職なのに内通する裏切り者?そりゃイカンなぁ、大問題だなぁ
芭蕉よりそっちの方が興味アリ
例えば、どこの藩のどんな人?
何か知っているんでしょ?

Q鎌倉幕府の年号変更について

鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか?
そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか?
ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。
実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

Aベストアンサー

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、...続きを読む

Q教えてください。歴史のこと。 1.平安時代の朝廷と、鎌倉時代の幕府(武家政権)の違いについて。 2.

教えてください。歴史のこと。


1.平安時代の朝廷と、鎌倉時代の幕府(武家政権)の違いについて。
2.阿氐河荘の農民の訴えと正長土一揆の違いについて(以下の二つ)
★訴えを起こした原因
★その時代の武士たちの支配体制(政治について)


と言うような形です。一問だけの返答でも大歓迎です。どうかよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

1、について

平安時代の朝廷を代表する政治体制は「摂関政治」です。要するに、藤原氏が朝廷を牛耳っていた時代です。
摂関政治の特徴として、皇室に娘を嫁がせるなどして婚姻関係を結び、天皇との血縁関係を背景として権威をふるったことです。しかし、この摂関政治は縁戚として利用していたはずの天皇家(主に白河法皇)に権力を逆に掌握されたために衰退していきます。

鎌倉幕府の基本は「御恩と奉公」です。幕府は御家人に対して本領を安堵する代わりに幕府への忠誠を求めたのです。つまり、血縁ではなく、利害の一致によって成立した組織であると言えます。
もう一つのキーワードは「執権政治」です。鎌倉幕府の将軍は初代の頼朝以外、すべてが傀儡と言っても過言ではありません。そのため、鎌倉幕府は(一応将軍を頂点としているものの)実質的には将軍を補佐する執権である北条氏を中心とした集団指導体制を取りましたが、やがて政敵を征伐していき、北条氏の本流(得宗家)に権力を集中させるようになりました。しかし、鎌倉時代後半になると得宗家の権威も失われ、寄合衆と呼ばれる集団合議体制に再び戻っていきます。
つまり、武家政権は貴族政権と比較して組織での運営がより多くなされている政権なのです。

1、について

平安時代の朝廷を代表する政治体制は「摂関政治」です。要するに、藤原氏が朝廷を牛耳っていた時代です。
摂関政治の特徴として、皇室に娘を嫁がせるなどして婚姻関係を結び、天皇との血縁関係を背景として権威をふるったことです。しかし、この摂関政治は縁戚として利用していたはずの天皇家(主に白河法皇)に権力を逆に掌握されたために衰退していきます。

鎌倉幕府の基本は「御恩と奉公」です。幕府は御家人に対して本領を安堵する代わりに幕府への忠誠を求めたのです。つまり、血縁ではなく、...続きを読む


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