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聖書は真実ではないですよね?

A 回答 (23件中1~10件)

1. 聖書は 《神》を仮りのシルシ(ことば)で指し示し ひとが


《信じる》とはどういうことかを伝えようとしています。

2. 信じるは 絶対性もしくは無限性をめぐる人間たるわれの存在
ないし人格全体のあり方のことです。

3. 《神を――けっきょくはその名をとおして〔でしかないかたち
で〕――無条件で無根拠にて わが心に受け容れること》だと理解し
ます。

4. 神は――無限性ないし絶対性であり―― 経験世界を超えてい
ます。《心に受け容れる》のは 人間のそういう意志行為であり 経
験事象です。

5. 雲をつかむような話なのです。

6. そして この《信じる》が 感性や理性(ないし知性)を超え
たところで しかも言わば《霊性》として現実であるとすれば 聖書
の存在が生きます。

7. そういう人間の――主観的な――真実として存在し 霊性なる
現実が現実であるとすれば そこの部分で《真理》にも触れているも
のと思われます。
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No.23=22です。

 『新約聖書の手紙(書簡)について』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11779763.htmlさんが良かったです。『手紙』https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B0%A1の『書簡 (新約聖書)』によると後半を占め21文書あり沢山収録されています。
 教祖が何をして何を言ったかを信者が口伝したものの記録と比べると、弟子が信者にどうこう指示している記録はどーでもいいです。でも後で聖書にまとめる人が入れとこうかなと思って、そのまた後の人もまあそのままにしとこうかと思ってきたわけで、どうしてなのでしょうマシュウ。
 そうさのう。加藤隆『『新約聖書』の誕生』(講談社学術文庫)が面白そうです。
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おはようございます。

 『キリスト教を批判している書籍』https://sp.okwave.jp/qa/q7690628.htmlさんが良かったです。
 あとエドマンド・リーチ,鈴木聡訳『聖書の構造分析』(文化人類学叢書)も気になります。
 大喜多 紀明『新約聖書「ヤコブの手紙」にみとめられる裏返し構造』https://www.jstage.jst.go.jp/article/hcs/2019/29 …を読んでみましたがわかりませんでした。
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真実と真理とを混同してはいけないわけです。





真実とは あくまで経験世界における経験事象という範疇
にあります。

世界の中にあって世界に接して もの・ことを捉える。

真実は 事実の認識とそれにもとづき世界を変革しようと
する意志とにかかわります。

事実の認識も じつは 主観によるものでありその意志が
かかわっているからには 主観真実です。

したがって 世界認識は 〔事実の問題と倫理の問題とに
分かれつつも〕 認識についての真偽を人間が 判断した
ものです。

倫理における真偽とは 一般に善悪です。






さて これら人間の主観真実――事実認定の真偽および人
間関係のあり方にかんする真偽としてのよしあし(善悪観)
――を超えたところが 真理です。

(真理は 合理的に説明せよというときには そのような
――絶対性という概念にもとづき――場ないしチカラを想
定したものです)。





したがって 聖書は 一方で――人間の言葉で書かれてい
るからには―― 経験世界におけるものごと・出来事を扱
うかぎりで 人間の主観真実の問題に帰着します。

むろん その真偽の判定を――もちろんへりくだった心で
――俟っています。

聖書は 他方で 経験事象で表現していようがそしてそこ
から飛躍した想像として表現していようが 経験的な真偽
にかかわる経験合理性を超えたところの何ものかナゾなる
ものを 描いています。しかもその描かれたものは シル
シです。ナゾ本体ではなく そのナゾを指し示すシルシで
ある。


つまりは このシルシをとおして 真偽の判定にかかわる
人間の真実を超えた真理を あわよくば垣間見させるかの
ように表現しています。


相対的なにんげんの主観真実によって その相対性を超え
た絶対性たる真理を何とかあぶり出そうとして 聖書記者
らは それぞれ筆を執ったのでしょう。
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真実の記載された書物など何処にも存在しないと思う。


真実というものは自分の人生を通じて遭遇するものであって、それに辿り着く地図もなければ、それを生成するレシピも存在しない。
真実は作られざるものであって、人だけがそれの実在を証明できるのだと思う。
事実を解釈することによって真実は見えるようになるが、それは基本的に自分にとっては盲点みたいに見難いものであるから、誰かの指摘がヒントになって見出されることが多いだろうと思う。
 人間の中に、真実が見えている人と居ない人がいて、見えてない人には諸々の教えが役割を果たす場合がある。
真実が見えている人にとっては教えも求道も一切必要は無い。健康な人が医者にかかからず薬も必要としないようなものです。
健康な人は自分の裁量で様々必要なものを摂取して害毒は避けているのだと思う。
鼻が効くのか見ただけで分かるのか、知らないけれど、彼らにとっては真実が見える事は当たり前のことであるしょう。
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> なぜ私の心が貧しいと断言できるのでしょう?



神を信じないからです。
それとも神は信じているけど聖書は信じていないだけでしょうか?
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真実ですよ


だから、あなたのような心の貧しい方は天国にいけます
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この回答へのお礼

なぜ私の心が貧しいと断言できるのでしょう?

お礼日時:2020/07/10 20:22

3大宗教の共通点に「聖典」を開祖が書いていないということが挙げられます。

みんな後日談です。
宗教の本質は「開祖の話」を直接聞いちゃ人の感動から始まると思うのですが、
「開祖」が死んだあと、その感動をどう伝えるかという時に
「開祖」が言ったことや行動を、開祖を知らない人たちに間違た感動を伝えないことを目的として
「聖典」が生まれます。ただし、その時にすでに開祖はいません。

一方、「信者を増加させる」には、それを信じることの「ご利益」の説明が必要です。
最大のご利益は「死後の天国(極楽)往生」です。当然、開祖を含む信者は天国(郷楽)に行ったことになります
それを納得させるために「聖典」はあります。つまりそこに書かれたことは「真実かどうか」ではなく
信者として信じ、その教えを伝え広めるための「信者獲得の宣伝文」が「聖典」であるといえます。
スーパーの安売りのチラシと同じで、嘘は書かないかもしれませんが
「目玉商品を上手に伝える」努力の結果が宗教の「聖典」となっていると思います。聖書もその一つです。
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空想非科学小説です。



スーパーファンタジーと言っても
良いでしょう。
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歴史的イエスの関する資料は皆無です



その当時のパレスチナの識字率は3%以下という研究があります、
無学者の中では、貧窮者、物乞い、奴隷よりいくらかましな
最下層階級に属していたのではないかと思われます
イエスがテクトーンといわれる日雇い労働者であれば
文盲である可能性が極めて高いです。
例外的に簡単な文を読むことができたとしても、メモ程度の文でしよう。

聖書に書かれたイエスの言葉は、後世の創作です
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