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簡単な質問なんですが、宗教と道徳の違いはなんですか??(簡単といえば、ただ質問文が簡単なんです)
よろしくお願いしまう。

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A 回答 (19件中1~10件)

「疑うな」「問うな」「信じろ」と言う発言が有りましたが、本当の宗教は「疑え」「問え」「そして自ら信じろ」ですね。

疑問は徹底的に問う。すべては疑問を人問うことから始まります。「自信教人信(自ら信じ人にその信じたところをを教える)」問いを発し、自分が納得して初めて人に勧めることができる…決して他人から強要されるものではありません。それは本当の宗教ではなくカルト宗教です。

平安時代末期から鎌倉時代に生きておられた後鳥羽上皇と言う方がおられました。時の権力者ですね。この方は法然上人の専修念仏を疑い、大弾圧を行い僧侶たちを死罪にし島流しにしました。時が移り、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対するクーデターが失敗し、隠岐へ島流しになりました。そこで何が正しかったのか問いを発し、最後には自分が徹底的に弾圧した念仏こそが正しかったと気づいたのです。極端な例ですが、疑うことから信仰は始まるという意味で書いてみました。
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釈尊はさとりに至る道だけを説いたと言われているけれども


老子の道徳経はそれに近いものがある

だから
道徳を老子の道徳経にその源を求め
仏教を釈尊の説いた道にその源を求めるならば
道徳は
哲学であり
宗教的であり。。

ただ、それを知識として知ったからといって誰でも悟りに至れるということではないということなだけなように
それはまた道のある通過点でしかないように。。


なのかな


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道徳の考え方は鍼灸医学の基盤をも拵えていますので、


そういう意味でも、それと宗教とは明らかに違います。
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更に申し上げます。



道徳では「仁義」もが重用されています。
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そもそも道徳には御本尊が必要になっていません。



つまり何かを信仰する必要性さえもが要求されていないのです。

私は常々に此の類いの問題の自問自答を繰り返しておりますので、
直ぐに分かりましたが、他の方々の付け焼刃的な解釈でも構いませんから、
そろそろ締め括られては如何でしょうか?
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道徳っていうのは「ダメなことはダメだから」お金を盗んだり人を殺したりしちゃいけない。


自律的。

でもそれが弱い人にはできないから「どこかで神様が見てるよ。お金を盗んだり人を殺したりしたら後で地獄行きになるんだよ」よ言われないといけない。
他律的。

#宗教の本質は「見てござる」(御照覧)ということらしいです。

でもだんだん宗教自体が先鋭的になると「邪悪な宗教を信じている異国人からは盗んでもいいんだ」「邪教を信じているやつは殺してやった方がいい(ポア)」とか言い出しますね。
こうなると宗教と道徳が対立しだします。

人間は自分の好みにしたがって生きるのが本道だから、好きなようにすればいいと思いますが。
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僕の解釈です。



上座仏教の八正道が道徳だと思います。

宗教は「疑うな!信じろ!質問するな!」がほとんどでしょうね。
仏教といっても宗教のものもありますが…
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貴方のおっしゃるように簡単な難問ですネ、宗教も道徳も良い人間として生きることの教えですから、線引きは難しいのですが、あえて区別するとしたら、道徳は人に迷惑をかけないようにすること、宗教は積極的に人の役に立とうとする、この意気込みの違いであるということだと思います。

これはサッカーで喩えれば、道徳は守備に徹して、宗教は攻撃を主体とするということでしょうか?。
宗教は道徳を当たり前としている。その上に成り立った明るい光の行為であるといえるでしょう。

宗教は人が間に入っているが神の声であります。神と人は親子関係であることを知り、人生の目標が判り、善悪の判断基準を確り持つことになります。目的とは魂を研いて神に育って天に帰ることである。このために親神が与える苦労を魂のパンとして果敢に食ってゆくこと、我利を殺して利他愛に生きることが全てである。積極的に光、愛を発信することが一番の道であることを確信して行動してゆくことになります。

道徳は人の哲学的思索から生まれたものですから、人種や住む世界によってずれがある可能性があります。道徳は夫々の国の天空をみつめる。宗教は天の中心に目を据えるので、地球と宇宙を結ぶ一点の真理でバベルの塔であるといえると思います。
宗教を知ると、人間の良しとする常識と、神が良しとする常識に多くのずれがあることが判ります。天地一切神の声、良くなる仕組みあるのみ、を確信すれば、善悪の判断に迷いは少なくなり確信を持つことができるようになります。

漢字は神示で、計算して行動する地智図です。宗教と道徳の漢字を分析するとほとんど同じ意味になります。つまり兄弟みたいなもんです。ついでに哲学も書いておきます。

宗;小二ワゝ=立身を真魔の間、割礼に和礼をして宇宙の一点(ゝ主神)に叶う働きをする。
教;攵子土ノ=攻撃は神の子として天の法に従って土(世間=腹の虫)を切り裁いていくことである。

道;目ノ一ソ蛇=天地人、頭首腹の殻田に天の法を結んで素粗の頭を育てながら、己の腹の虫の蝮を治めながら進攻する。
徳;心四十〒=心で肢死体(本能)を運ぶ噛みの苦労が神(十)性を育てて、天に届く。

哲;口斤扌=殻田の斧で神の手(置き手)と闘う=肉体本能で世界を判断することですから鉄(光を失う=アイアン=愛が安い)に通じています。
学;子ワツ=子は神風を受け止める、で、割ると和の間、輪の中でプラス思行でツ身(罪)を昇華してゆく=真成武で紳士です。

宗教=天の一点の見方で善悪をを切り裁いてパラダイスに向う。レリジョン=霊離恕運
道徳=神と文通をして肉体をコントロールすれば彼岸に進む。哲学=安い案を育ててゆく戦いが哲学である。 モラリティ=裳羅理呈
哲学=幼知能を罪の津地(肉体)の体験によって育ててゆく。 フィラサフィー=負意羅差吹意
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No.10の者ですが



その回答について

宗教って何だ.という解釈の仕方に行き着きますが.
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道徳の原典を老子の上下経に見出すならば


道徳は宗教といえるだろう.

孔子の論語が乾の道を重んずるとすれば
老子の道徳経は坤の道を示す.

東洋哲学の蘊奥を啓く書である易経の基本的な二つの卦の顕現化と考えられる.
古事記の冒頭の文章に見られるように陰陽の道は日本神道の根本原理でもある.


そして老子の言葉は仏教に通ずるものがある.
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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

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何か信じて利益になるんですか?

Aベストアンサー

こんにちは。
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広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

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例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
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一応これは一つの例ですけど。

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こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

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Q大さじ一杯 小さじ一杯って・・・

それぞれ何グラムぐらいなんですか?困っています教えてください。私はさじを持っていないので測れないのです

Aベストアンサー

重さは量るものによって違いますが、
大さじ一杯=15cc
こさじ一杯=5cc
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Q悪人正機説とキリスト教の原罪

悪人正機説
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反面、キリスト教徒の場合、人間には原罪があってイエスが磔によって贖った事を信じる(信仰する)か否か。 ならなんとなく意味が分かるような気がします。

教えて欲しい事は、両者が「どう違うのか」という事です。
つまり最近の私は、前者を後者の意味から類推する様になってしまいました。 元々、悪人正機説についての理解が曖昧であったせいだと思います。
宜しくお願いします。

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 キリスト教の原罪は、元来、アダムとイブが神の命令に反して禁断の果実を口にし、その罰として楽園を追放されたことに由来します。人間が神様の言うことをきかなかったという罪(いうことを聞いていれば幸せに暮らせたのに、そこからわざわざ逃げた。神の命令を信じず、悪魔の誘惑に耳を傾けた)のことですが、この罪をおかしたのが人類共通の祖先であったために、あたかもDNAのようにして人類全体が原罪を受継いでゆくことになる、人間は生まれながらにしてすでに神に対して罪をおかしている、というのが原罪の教義です。
 これに、後世、「しかしそれでも慈悲深い神は、人間を救うためにイエスを遣わし、教えをひろめた。けれどもまたしても人類は神を信じることなく、イエスを殺してしまった(同じ過ちを二度繰返した)」という、キリスト個人に対する罪の意識と重ねられて発達し、現在の原罪という観念が生まれたようです。元来の原罪が楽園追放に関するものであったことは、聖母無原罪説(マリアは原罪のない女性であり、それゆえにキリストを産むことができた、とする説。後世、処女懐胎説とごっちゃになってゆくこともある)というものがあることをみてもわかります。
 人間は罪深い。ゆえに祈りなさい。神はそれをかならず救うであろう、というのが原罪説です。
 一方の悪人正機説には、いくつかの説があります。
 まず浄土真宗の教義研究のなかでうまれてきた説として(以下の説のすべてがかならずしも現在の真宗の公式な教義として認められているわけではありません)、人間は弱く、罪をおかしやすい。だからこそ、その罪の意識を契機にして(正機)、信仰の道に入ることができる、という考えかたがあります。悪事によって人間の無力さ、よわさを悟り、阿弥陀仏の絶対的なちからに思いをいたすとき、小さな我を捨て(他力)、衆生済度の誓願(本願)を心から信じることが可能になる、というものです。
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 (1)原罪は神に対しての罪であるが、悪人正機説の罪は阿弥陀仏に対する罪ではなく、仏教において一般的に非とされる行為である。(2)したがって原罪は神様に「ゆるしてもらう」ものだが、悪人正機説の罪は「罪に苦しんでいる自分を仏さまに救ってもらう、助けてもらう」ものである。(3)原罪はだれもが犯しているが、悪人正機説の罪はおかさない人もいる。

 キリスト教の原罪は、元来、アダムとイブが神の命令に反して禁断の果実を口にし、その罰として楽園を追放されたことに由来します。人間が神様の言うことをきかなかったという罪(いうことを聞いていれば幸せに暮らせたのに、そこからわざわざ逃げた。神の命令を信じず、悪魔の誘惑に耳を傾けた)のことですが、この罪をおかしたのが人類共通の祖先であったために、あたかもDNAのようにして人類全体が原罪を受継いでゆくことになる、人間は生まれながらにしてすでに神に対して罪をおかしている、というのが原罪の...続きを読む

QWordで、1ページを丸ごと削除するには?

1ページしか必要ないのに、真っ白な2ページ目がその下に表示されてしまった場合、この余分な2ページ目を一括削除(消去)する為に、何かいい方法があるでしょうか?

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<表示されてしまった場合>
これはそれなりに理由があるわけで、改ページや改行によって、次のページにまで入力が及んでいる時にそうなります。
特に罫線で表を作成し、ページの下一杯まで罫線を引いたときなどには、よくなる現象です。

さて、メニューの「表示」で段落記号にチェックが入っていないと、改行や改ページなどの入力情報が見えず、白紙のページを全て選択→削除してもそのままということが良くあります。
1 改行マークが白紙のページの先頭に入っていれば、それをBackSpaceで消してやる。
2 罫線を使っている場合は、それでも効果がない場合がありますが、その時は行数を増やしてやる。
などの方法があります。

Q宗教の発生・起源について教えてください

宗教・哲学について素人です

ユダヤ教や仏教が発生する以前にも、当然人間社会には原始宗教や自然崇拝、霊魂崇拝のようなものが存在したと思うのですが、そもそも人間社会において、宗教的概念のようなものはどのように発生したと考えられているのでしょうか?

宗教の起源とはどのようなものと考えられているのでしょうか?

出来ましたら、回答者諸氏の個人的考えではなく哲学や宗教学などの学界で一般的にどのような考え(諸説)が存在するのかお教えください。

もちろん加えて回答者様の個人的なお考えをお話いただいても差し支えはございませんが、出来ましたら一般的な知識としての諸説紹介・解説という形でのご示唆をお願いいたします

Aベストアンサー

#2です。
宗教の発生と起源について私見を述べさせてもらいます。

>ところでそもそも、そのような観念が人間の中に発生した由縁はなんなのでしょうか。
>霊や自然に対するい畏怖心でしょうか。それともご利益を追求するような欲得でしょうか。
>私自身は人間が、物事が思い通り運ばない時の欲求不満や、例えば同じ狩猟行為をしていても自分だけがエサを獲れないのに隣人だけが獲れた場合などに生じる嫉妬や、次こそは獲物を獲れるようにと願う気持ちも強い気がするのですが。

これには、私もほぼ同意ですね。
時に自然は動物にとって脅威となるほど強い力を発揮します。
雨や風、地震や噴火などの天変地異に対して畏怖の念を覚えた。
そして、きっと人知の及ばない何かがあると思うようになる。
それが「霊」や「精霊」、そして「神」と呼ばれるようになったのでしょう。
そして、それほどすさまじい力ならきっと自分たちを守ってくれるはずだと考えるようになった。
そして、恐れおののきながらも敬い、祀り、祈るようになった。

これと同時に起こったのが「クニ」の発生です。
「クニ」というのは支配者と被支配者に分けられるわけですが、支配者が被支配者をまとめるのに「神」や「精霊」を利用した。
やがて、文化が成熟しだすと、神話や民間伝承に纏められるようになる。
そして、徐々に体系付けられていき、一つの宗教圏ができあがる。
もちろん、明確に分かれているわけではなくて、お互いに影響しながら。

これを根拠付けるのに、ユダヤ教は元々多神教だったと思われることから推測できると思います。
ユダヤ教は多神教のウチの一つの神「ヤハウェ」を選び、敬うようになった。
そこからキリスト・イスラムが生まれていきます。
仏教も元々はバラモン教から発生していますし。

面白いのは、人は宗教に隷属する場合としない場合があるということです。
言い換えれば、生活規範を宗教に求めるか求めないかです。
ユダヤ教やキリスト教などは、生活の規範(殺し、盗み、姦淫などの禁止etc...)を宗教に求めています。(あるいは、宗教が命令している)
しかし、古代ギリシア・ローマや日本の八百万の神は必ずしも命令はしません。
私たちが思ったときに守護を求めるだけです。
この違いは、おそらく宗教の政治利用における、一神教と多神教の差だと思います。
政治利用するには一神教の方が都合が良いですし、「この法は神様が与えた」といわれては、その神を信じてる人は逆らえませんから。
また、政治利用するためには高度に組織化されていた方が有利です。
故に、教会や教団が発達していったのでしょう。
仏教は少し一神教とは違う発展をしましたが、政治と深く関わっていたのは確かだと思います。

纏めると、自然への畏怖の気持ちと日々の不幸からの守護を求めて宗教が発生した。
そして、政治と絡みながら体系化され組織化されていった。
私はそう考えています。

#2です。
宗教の発生と起源について私見を述べさせてもらいます。

>ところでそもそも、そのような観念が人間の中に発生した由縁はなんなのでしょうか。
>霊や自然に対するい畏怖心でしょうか。それともご利益を追求するような欲得でしょうか。
>私自身は人間が、物事が思い通り運ばない時の欲求不満や、例えば同じ狩猟行為をしていても自分だけがエサを獲れないのに隣人だけが獲れた場合などに生じる嫉妬や、次こそは獲物を獲れるようにと願う気持ちも強い気がするのですが。

これには、私もほぼ同...続きを読む

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む


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