プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

人を大切にする、というのはなんとなくわかるんです。
たとえば、むやみに殴ったりしない、いじめたりしない、
話をちゃんと聞いてあげる、など。

ですが、自分を大切にするってことの意味と、
どうしたら自分を大切にしていると判断できるかの基準がわかりません。

私が今自分を大切にするということを理解できないのは、
この困難さの源泉/理由はどこにあるのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    失礼、ちょっと適当すぎましたか。
    そうした生き方も敬意を持ちますし、
    ご苦労さまです。と思います。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/25 22:14
  • HAPPY

    →No.8さん
    よくぞここまで汲み取っていただけるもだと。。。。
    。。。こういう時なんと言えばいいんでしょう。
    ありがとうございます?
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    (臨済が語った「仏を殺す」の「殺す」)は、

    【「現実には殺戮が出来ないという立場」から眺める限りにおいて、本物の殺意のことであってかまわない】という性質をもっており、
    そのことを十分にわきまえている臨済による巧みな演出であろう
    と思っています。つまり方弁。
     
    「方弁」と認識したとたん、じゃあそれは嘘なんだよね、
    と言ってしまうと、とたんにぬるくなる。
    あくまで、私が臨済の言葉の中に見ているのは、本物の殺意。
    としておきたいです。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/26 09:47
  • HAPPY

    「クウキのほうから 消えていたといった事態になることが いちばんであ
    るように思うのですが。・・・」

    これについても同意。
    恐るべきことに、
    それが可能な方法が存在します。
    福祉制度を利用して、他者を自身に奉仕する存在へと
    こっそり意味を書き換えてしまうあの方法です。
    これが上手い方法であるように思えるのは、
    「貢物を受け取れるから」というよりも、
    労使関係に伴う他者の視線から逃れ、
    希薄な人間関係に紛れ込むことが可能だからではないでしょうか。
    「視線はずし作戦」の一つのバリエーション(?)。
     
    この補足て、どう表示されるかわかりにくい (;´Д`)
    へんなふうになってたらごめんなさい。

      補足日時:2020/07/26 09:51
  • うれしい

    たまふり、にかんする事柄は今日はじめて知りました。

    ですが、その内容を推測して補完してみると、、、、、、。

    それが成立しえるのは「神」の前だからだと思います。

    神の前であらそい、一発づつ殴り合わせて、
    「な?おまえらもう十分やりあったからな?」と
    いわば納得の誓いを交わし、神の前で和解のセレモニーを行う。

    おけんか、しても双方が納得しうる裁定者の前での「納得のセレモニー」が執り行われない限り・・・・・ああぁ、なにかすごく大切なもののような気がしてきました。「納得の神事」。

    これって会社で取り入れられたらすごそうだけと、駄目なのかなあ。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/27 19:55

A 回答 (17件中1~10件)

堕落することは甘い毒をすするようなことで、なかなかに制し難い。

人は感覚器官による快不快に翻弄されていて、本当にためになる事、自分のためになることを識知し難い。言葉を得ても、それが耳に心地いい響きかどうかでその良し悪しを判断しがちで、その意味するところを受けて省察の糧とすることが難しい。
堕落してしまえば苦悩に苛まれる。しかしその毒は甘いのでを吐き出すことが難しい。

自分を大事にすると言う事は、必要であれば痛くとも患部を摘出することをためらわないことであり、苦い薬でも必要であれば飲むと言う事です。
悪い習慣を捨て去って、心を修養して、内面から自分を変えていくこと。それが自分を大事にすると言う事だと思います。
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この回答へのお礼

堕落状態からの脱出、ということなら、【苦痛をいとわず】というのは確かに解であるようにも思うのですが、
そうした堕落状態から脱出したとしても、たちどころに、ハッとなって
結局は【何のために】そこから脱出したのだろう、と感じずにはいられないと思います。

日々つまらない、とか、楽しみがない、だとかを言うつもりはありません。
それなりに楽しみは見つかるものですし、
日々のルーチンに埋没することも、できるでしょう。

ですが繰り返し繰り返し幻想は破られ、
其のたびにどうして良いかわからなくなります。

お礼日時:2020/08/05 19:31

自分を大切にするという事は自分が大切だと思うものを大切にすることです。


何故なら質問者さんが見ている世界は質問者さんの心の現れ即ち心象そのものでありまさに質問者さんそのものだからです。
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教師が言うことや、マスメディアのコメンテーターが言う事や、創価学会や立正佼成会が言う事や、自民党員や共産党員が言っていることを鵜呑みにしないで、自分の頭で考えてから取捨選択する事やな。

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人間、極力リスクを避け、合理的に、快適に生きてゆくことが、自分を
大切にすることだと言わんばかりの価値観、つまり、自分を存続させる
ことが唯一の価値であるということが世間には渦巻いていると思うので
すが、あなたもチラリと仰っているように、それだけでは寧ろ自分を粗
末にすることになるのではないか?

人生は重い荷物を背負っているがごとし、で、その重い荷物とは夢とか
目標であり、それを背負うということはリスクが発生するということと
努力が必要になってくる。しかし、その状態を維持させることによって
「生命力」が鍛えられてくると思うのです。

強い「生命力」というものが、充実した人生には不可欠であるというの
が私の経験からの結論の一つです。

この、当たり前の道理と、世間の風潮が乖離しているので、なかなか理解
できなかったのではないでしょうか?
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勝利を収めることに人生の意義があり、敗北は辛酸をなめるものだと世の中の基準に流されると、健常者は通常であり、障害者は駄目な人間なんだ、と思い込むように意識し始めたのは、自分自身が障害者になったからです。




心底、自分は駄目な人間だと、屈辱感で一杯になる背景には、私が過酷な競争社会を学生期(生育期)に過ごしたからです。

差別と偏見を持つ、勝者側から、差別と偏見を持たれる人生の敗北者となったと、確信した時、自分の生の意義・意味が分からなくなり、死にたくなりました。

私は、見下ろす側の人間から、見下される側の人間に立場が変わった時、屈辱で自殺念慮が一気に増しました。


私は常に勝っていた。だが、社会人になった時、人生の敗北者となったと実感したとき、死にたい、と強く思うようになりました。

私の思想の根底にあるのが、差別主義だからだと思われます。(多分、視野・視点は矯正不可能)

人生、何時足を掬われるのか、わかりませんね。
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この回答へのお礼

>私の思想の根底にあるのが、差別主義だからだと思われます。(多分、視野・視点は矯正不可能)

そういえば昔、周囲の人間がいかに物事を差別的に見ているか、に気がついて、

「なんてやつらだ、ばかめ、
差別することで価値を生み出すことしかできないとは
まったくみじめなものだ」

と、差別的に見下している自分を発見して愕然としたことがありましたね。

ですので「差別」という言葉にはなかなか思い入れがあります。

社会的に問題視される「差別問題」を「そんなのいけない」と考えるのは、
わりと人はできるかと思うのですが、
その「差別問題」を生み出している、価値認識構造
(私はそれをかつて「差別:シャベツ」と自分の中でよんでいました)
に対してはほとんど無自覚ですよね。

私も「差別シャベツすることでしか生きていられない」と感じていましたから、
「差別はやめよう」という者たちを恨みました。

が、それもずいぶん昔のことで、
いつのまにか「差別」が自分のテーマとして主題化されることはなくなってましたね。
われながら、どうしちゃったんだろう。

お礼日時:2020/08/08 18:19

自己と他者が競ることはどうやっても避けられません。



私が幼少の頃は、王・長嶋の全盛時代でありました。ですから、何も知らぬ幼少の私は、将来は、王・長嶋のように自分は巨人軍の一員となって、大活躍するものだと妄信していました。そのことに疑いの余地がないのです。

ですが、他者と競争をすることで、段々、現実というものが見えてきて、詰り、負けが込んできます。

次第に思うことは、巨人軍の名選手から、甲子園で優勝、其れ又、無理難題な話で、甲子園に出場したい、其れ又、無理難題で、県内随一の野球の強い学校、其れ又、無理で、リトルリーグの選手、其れ又、無理難題で、そのうち、野球に興味関心が無くなりました。

抑々、私は、男性の割には、身長が低く(平均身長)、野球選手としては、体格もセンスも無かったのです。

何故なら、競争に敗れまくったからです。

すると、別の何かに他者より秀でたいと思うようになります。私は受験勉強は結構得意だったので、早慶クラスには難なく合格しましたが、東大は駄目でした。

そして、社会人になり、社会人としての成功を目指すよう、努力し始めますが、結局、大病を患って、実社会から転落しました。

やがて、自分は他者より、秀でるどころか、劣っていると思うようになり、自分を愛せにくくなりました。

自分を愛するとは、相対的に、他者との比較で自己愛というものは成り立つものだと思えます。

否定しようが、競争社会です。他者より、なにか、一つでも秀でている点があれば、自己愛は或る程度、満足感が得られますが。

障害者となった、今では、自分を愛せにくくなっています。

その原点には、私が学生時代に、過酷な競争を繰り返した結果が今に至った自分を愛せにくいのだと思います。

正直、私は、差別主義者になってしまっていたのです。

口では、平等主義者を装っていますが、成育歴というものは、怖いな、と思っています。
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☆☆ (№8) むしろ何もせず――何もしないたたかひを推し進め――


いつしか 向こうのほうから・つまりは クウキのほうから 消えていた
といった事態になることが いちばんであるように思うのですが。・・・

☆ この《理論》に但し書きを添えたいと思います。

《何もしないたたかひ》は ふつうに生活日常にあって自己表現をおこな
うからには その対話において自己および他者への批判を排除しません。

次のごとくになります。

【Q:たましづめには たまふりと たましづめとがある::受け身の《アー
ス役》が成すあたかも攻撃】  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11534983.html


1. 倫理的な要素を容れた哲学の目的は おのおの世界との和解である。

2. 肌の合わない相手との〔ベースとしての〕やすらかな関係である。

3. 人びととの和解そして なかんづくおのれみづからとの和解である。

4. たましづめ(魂鎮め)と言える。みづからの心が やわらがしめら
れるのである。(さとりとか すくひとか言ったりもする)。


5. ちなみに 倫理から自由な哲学は 一にも二にも 世界認識ないし
事実認識が 先行して前提を成す。

6. 倫理を容れた――おのおの主観が織り成す価値観の表明やそれらの
錯綜して関係しあう世界にあって和解を問い求めこれを推し進める――哲
学も むろんものごとの合理的な事実認識から始まる。




7. さて たましづめには しばしば たまふり(魂振り)が先行する
のだ。

8. ねむっていたたましい あるいは あの人この人・内と外と幾重に
も襞を成してむすぼりあった心を鎮めるためには リセットが必要である。

9. リセットするときには しばしば心や魂をゆさぶることが必要にな
る。これを われらが昔の人たちは たまふりと言って 実践したらしい。

10. たましづめなるベースの上に たまふりなる動きがくわわる。




11. だから(?) 世界との和解のためには 受け身をつらぬくアー
ス役も その実践において まづ たましいを揺さぶるために或る種の攻
撃をおこなう。

12. いわゆる自由な批判である。

13. その限りでは おけんかが 哲学である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

鎮魂・たまふり・ストラグルってだけの連想ゲームしてるだけで、
あそばないでください。

お礼日時:2020/07/27 18:34

天上天下唯我独尊というブッダが残した有名な言葉がありますが、これは「世界中で俺だけが偉い」という意味などではなく「自分も他者も世界で一人しかいない尊いもの」という意味なのです。



現代では価値ある人間とそうでない人間がはっきり定義されようとしています。

しかし本来はそんなものはありません。

自分を尊敬し慈しむ心がなくては他者にもそれを成す事は出来ないのです。
自分も他者も無価値であるというのは現代に蔓延った虚無主義です。
そのような中では命の価値は限りなく安くなり、どれだけ「命を大切に」と言ったとこれで無駄なことです。
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自分を大切にするのは


自分が最も愛(いとお)しいからです

『思いによっていかなる方向におもむいても、
自分よりさらに愛しいものに達することはない。』
     (サンユッタニカーヤ)

人をたいせつにするのは
自分が最も愛(いとお)しいからです

『このように他の人々にとっても自分がとても愛しい。
それ故に自己を愛する人は他人を傷付けてはならない。』
       (サンユッタニカーヤ)
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★ (№6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~


・・・
「殺したい欲求」と「仲良くしたい欲求」の間で揺れる、
ここまではわかっているのです。

じゃあ、そのときこの2つの欲求の間で揺れているとき、
私はなにをもって自分の殺意の代用と見做せばよいのでし
ょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ むつかしいところがあるようですね。

☆☆ 納得する答えを考えつくして応答すること。
☆ と言った手前 灰色の脳細胞をしぼり出して考えてみ
ます。




★ 仏に逢うては仏を殺せ。・・・
☆ の《ころす》は まづ比喩だと見ざるを得ないのでし
ょうね。

(夢の中で・虚構の世界で 《じっさいにころす》という
ふるまいが言われているとまでしか 受け取り難いように
思われます)。

すなわち:
★ 自分の殺意の代用
☆ の問題に 落ち着きます。




さて そうであるならば 具体的な答えは個別におのおの
が見出すものだと言わねばならないかも知れません。

たとえば 父親のこれこれこういうところが 人間として
の欠点であり〔自分の中のこととしては〕否定したいとい
うとき 
何らかの一定の《殺意の代用》を得てこれを実行し 全体
としてそのような欠点をも或る意味で受け留めつつ みづ
からの心〔なる大海〕におさめつつ 自分を大切にする自
分を形成する・・・ということ。



そこで もしそれでも 殺意の代用が一般論として扱える
ものならば どう捉えればよいか? です。


いまちょうどわたしは 次のような質問を挙げています。

【Q: 日本人は互いに《相互内在的に関係しあっている》
か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11789515.html

☆ この問題にからめて考えてみました。

すると あまりにも簡単ではないかと叱られるかのような
回答を見つけました。


回答: あまりにもしつこく迫る同調圧力たるクウキ こ
れが 他人とわが心との間に相互内在的に浸透して来てい
たら これをころすということ。


☆ ただし どうころすかは これまた たいへんむつか
しい問題だとは思っています。

むしろ 何もせず――何もしないたたかひを推し進め――
いつしか 向こうのほうから・つまりは クウキのほうか
ら 消えていたといった事態になることが いちばんであ
るように思うのですが。・・・
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

打てば響きすぎて怖いくらいです。
どんだけ天才ですか。
と、さしあたって驚き表明して
じっくり考えてみますね。

お礼日時:2020/07/25 22:48

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