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かつてマニラに駐在していた頃、市街戦の碑があちこちにあるのに気がつきました。1945年2月から3月にかけて行われたもので、山下大将の死刑判決理由にもなっています。しかし、戦史を色々と読んだのですが、市街戦の行われた理由が分かりません。レイテで壊滅した連合艦隊生き残り水兵や現地で徴収された在留邦人を主力とし、武器も食料も乏しい中で、しかも陸軍の山下大将は山へ籠もったのに、なぜ海軍はマニラを死守し、10万市民を犠牲にすることになったのか教えて下さい。
 また、アジア最大の市街戦、ワルシャワ、レニングラード、ベルリンに匹敵する世界的な市街戦であるにもかかわらず、なぜ我々日本人にはマニラ市街戦が知られていないのでしょうか。半藤一利氏の「昭和史」にも、一言も触れられていません。南京事件とは違い、戦闘終了後マニラへ入ったマッカーサーが惨憺たる光景に激怒し、徹底調査を命じたため被害状況の記録も残されており、後の東京大空襲、原爆を投下する復讐の根拠にもなったと思われ、我々日本人にとって重要な事件だと思うのですが。

A 回答 (3件)

現場の状況を知らない上層部から「死守せよ」と指示されたから。


現代企業でも、このようなことは良く起きていると感じます。

細かいところが違っていたとしても、Wikで全容は把握できると思います。
Wikによると、日本兵の死者数1万人以上、アメリカ軍の死者数1000人程度、負傷者数6000人程度、フィリピン人死者数10万人程度となっています。
マニラの戦いは市街戦の中では特殊な事例と考えて良いと思います。理由は、日本やアメリカの一般人が巻き込まれたわけではないからです。

疑問なのが、日本兵によるフィリピン人に対する虐殺があったとしても、満足な弾薬もない敗残兵がこれほど大量に虐殺できるのだろうか?ということです。彼らにとっては逃げることが最優先のような気がします。アメリカ軍の艦砲射撃や市街戦に巻き込まれた死者数のほうがはるかに多いような気がします。

 第二次大戦前の南京の場合は、日本側が圧倒的に有利な状況で、開戦時は中国側上層部は逃げ出して軍隊の体をなしていなかったため、中国の一般人に多くの不幸な出来事が起きたことは容易に想像できると思います。

なお、マニラの戦いと同時期に硫黄島の戦いが起きているので、これと比較するといろいろと明らかな違いがわかると思います。

最後に、第二次大戦で日本本土では市街戦は起きていません。
戦争経験したからと言って、ホントのことを知らない連中がああだこうだと言って孫や子に言い伝えていることに悪意を感じます。ホントの経験をした人たちは、決して子や孫に話すことはないと思います。
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この回答へのお礼

早速のご意見をありがとうございます。現代の企業に比較されているのは、的を射ていると思います。上司に対して反対意見が言いにくいとか、強面の人には意見しにくいとか、とりわけ精神主義華やかな当時にあっては、岩淵司令官も苦悩したと推測しています。苦悩したと私が思うのは、一度、マッキンレーに移動し撤退を具申しながら、返事がないため再度、マニラへ戻り、残っていたフィリピン人の「ガナップ」140名や日本兵20名を脱出させたことです。海軍軍令部、連合艦隊司令部から「死守」すべしと圧力をかけられている中、よくぞ決断したと考えています。
 マニラ市街戦の市民の犠牲については、ご指摘の通りと思います。市街戦生存者の体験談を聞くと、砲弾の飛び交う様は凄まじく、爆風で目玉が飛び出したり、腸が出るのを抑えて走るフィリピン人もいたそうですね。マッカーサーがマニラ奪還を急ぎすぎた結果なのでしょうか。

お礼日時:2020/07/27 22:29

よくマニラ攻防戦では海軍が悪者になりますが、実情は少し複雑です。


陸軍では大本営と第4航空軍が第14方面軍のマニラ放棄に同意せず、
マニラ死守の意向でした。
海軍がマニラを放棄しなかった理由は
 ・マニラの港湾施設を利用したい
 ・物資の搬出が間に合わない
 ・海軍陸戦隊は野戦の訓練が不足していたので不慣れ
などが理由です。
また、第4航空軍が反対した理由は、クラーク基地などから特攻隊を出していたので
マニラから逃げては特攻隊の出た者たちに顔向けできないという精神論と
航空隊が山にこもったらなにもできないという理由。

ちなみに、第4航空軍の司令はある意味有名な富永恭次中将で、
実は第14軍参謀長の武藤章と富永中将は陸軍幼年学校からの同期(陸士25期)なので
たびたび台湾への撤退を勧められても拒否しています。
しかし、米軍がルソン島上陸したその日に独断で台湾に撤退してしまいました。
(この後も問題行動があるので、興味があれば富永中将を調べてみてね)
この結果、徹底抗戦派の第31特別根拠地隊の岩淵少将は梯子を外されたので
さらに意地になっていたと言われています。

民間人の犠牲が増えたのは、日本軍がフィリピンのゲリラに苦戦したので
マニラで住民を虐待したから。(山下大将の戦犯の理由もこれ)
そして、マニラの都市構造がコンクリートなど頑強な建物が多いため
日本の抵抗にいら立った米軍が重砲で徹底的に無差別攻撃をしたから。
マニラでの民間人犠牲者の4割程度はこの米軍による攻撃とされています。
また、市街戦では徹底抗戦を避けるため脱出口を設けることが多いのですが
マニラは完全包囲なので徹底抗戦を誘った側面もあります。

マッカーサーは自身が戦争初期にフィリピンから逃走したので
様々な報復をしています。
自身が負けたコレヒドールで後を託されたウェインライト少将を
わざわざミズーリでの降伏文書の調印式に参列させたり、
開戦時の司令だった本間雅晴と山下大将を絞首刑にしたり、
フィリピン戦では一部で有名な朝鮮人で最高位だった洪思翊中将も
捕虜に十分な食料を与えなかったという理由で処刑されています。

東京の空襲は1944年11月24日からで、マニラ市街戦は1945年2月3日から。
東京大空襲は1945年3月10日ですが、1月20日に着任したルメイ准将が
もともと大都市への無差別焼夷弾爆撃を主張しており、
その実験としてすでに漢口大空襲を行って成果を確認したうえで
わざわざ旋回機銃を撤去してまで爆弾の搭載量を増やして行ったもので、
3月3日にマニラを解放してすぐに報復というのは考えにくく、
マニラの件は関係ないと思われます。

実際に第14(方面)軍の素行不良は有名で、たびたび問題行動を起こしています。
(方面軍になったのが1944年7月、山下大将が着任したのは1944年9月なので、
 山下大将に問題があったわけではありません)
マニラ大虐殺が実際に行われ、その資料があるのは事実ですが
戦犯を調べるならマニラ戦とは区別されたほうがよいと思います。
マニラ戦はアメリカによる無差別攻撃など様々な要因があり、
この攻撃はフィリピン人の犠牲を無視した人種差別という指摘もあります。
海軍だけ悪者にしないで、この機会に調べてみてください。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。特に、東京大空襲については、市街戦終結後僅か一週間であり、ご指摘のように、予め計画されていたと考えるべきかと思います。また、「戦犯を調べるならマニラ戦とは区別」したほうが良いとのご指摘は、極めて貴重だと考えます。というのは、マニラ市街戦の前にはレイテ海戦があり、更にその前には台湾沖航空戦があったわけで、そこで行われた大本営発表は全くのでたらめであったにもかかわらず、天皇に上奏し褒められ、熱狂した国民は提灯行列まで繰り出したということもあり、大戦果の発表と矛盾する「オープンシティー」の宣言を大本営は出せなかったと推測するのです。もしそうであれば、お国のために本土侵攻を遅らせるとか、特攻隊のためにマニラを死守するといった綺麗事ではなく、大本営参謀たちの自己保身からマニラ市街戦の悲劇が生まれたのではないかと思ってしまいます。柳条湖事件、ノモンハン事件などは、現地の参謀が引き起こしたものですが、まさにその参謀たちが東条英機に引き立てられて大本営で活躍し、上官を無視し、様々な工作をしていましたから。

お礼日時:2020/07/27 22:59

陸軍は無防備都市宣言をして、マニラを放棄し、


日本からの援軍が来るまで、持久戦をしようとしたが、
海軍は意図が理解できず、マニラで防御線を引き戦闘になった。
防御困難且つ、劣勢な市街戦は勝算もなく、海軍も放棄すべきであった。
陸戦が不得意な海軍。短期決戦好きな海軍。
陸軍、海軍の命令系統が異なり、互いに仲が悪いとはいえ非常識。
単細胞海軍の意地だけであったようです。
その通り、重要な事件でした。
よく勉強していますね。

父はBC級に引っ掛かり、マニラに出頭しましたが、疑惑が晴れて本邦に帰国できました。
陸軍航空隊でしたが、当時すでに戦闘機が無い為に、一時、ジェネラルのカバン持ちをしていたとのこと。
(ジェネラルは牡丹江時代の第一方面軍長。その下に第二飛行集団もありました。)
外貨規制の厳しい折、S33年、戦後賠償の関係でマニラに長期滞在していました。
其のころは、一般人の対日本人感情は最悪。
毎日、アームドガード付きで仕事、生活をしていたようです。
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この回答へのお礼

早速返事を頂き、感激しています。戦後75年となる今年、あの戦争の原因、本当の戦犯は誰なのか、共同謀議とした東京裁判、山下将軍を死刑にしたマニラ裁判は正しかったのか、棄民・非国民と蔑まれながら現地招集され戦死した在留邦人の遺族補償はどうなっているのか、110万の国民を犠牲にされたフィリピン人へ謝罪する心はもう日本人にはないのかなど、様々な思うところがあるのです。数年前には、マニラ市街戦の責任を「オープンシティー」宣言をしなかった当時のラウレル政権の責任とする学者の記事もあり、こんなことでは日本人が、フィリピン人のみならず、世界の笑いものにならないかと危惧しています。戦争の恐ろしさを学んだだけが、日本人にとっての歴史の教訓だとは情けない話です。ドイツ人は今でも自国民の戦犯を追及しているというニュースを知ると、情けなくもなります。

お礼日時:2020/07/26 22:38

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