人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html
の続きです。

この「の」が<形式(抽象)名詞>であることは、上記質問のNo.2/No.3 で縷々説明しておいたが、No12/No.15~17/20以外の回答では混乱した応答が繰り返されている。

これを、<準体助詞><終助詞>とすることの誤りも、

<準体助詞>という誤りについて
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11792915.html

文末などにつく「の」は<終助詞>ではない!
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11794537.html

で指摘済みである。

しかし、質問者はこれが全く理解ができずピント外れな応答を繰り返している。こうした、誤った理解による質問、応答をグダグダ繰り返しても何の益も、意味もなく、返って混乱を招く結果にしかならない。

質問者は、他のHPに展開されている『現代日本語文法概説』などを論拠に、相変わらずの議論を繰り返している。このHPの解説は機能と本質を混同、取り違えた奇妙な説明をしており議論が混乱するしかない。

基本的な誤りを指摘し、論理的な議論、理解が進むように提起し、諸賢のご理解、ご判断を仰ぎたい。

まず最初の質問の誤りと、それに付随した議論の誤りを指摘したい。

>>
この「の」は準体助詞という解釈が一般的にようです。
 ↑の「の」は省略が可能だと思います。準体助詞は、省略できないのでは。
 ↑の「の」は終助詞と考えることはできませんか。//

既に回答の通り、この「の」は<準体助詞>ではなく、<形式(抽象)名詞>である。その根拠は回答にも、また「<準体助詞>という誤りについて」でも詳細に論証しておいた。これを誤りとするのであれば、まず<名詞>とは何か、<助詞>とは何かの本質を明らかにした上で、議論しない限り感覚的な議論に陥る他ない。名詞とは何かについては回答でも触れある。

学校文法の分類でさえ、<名詞>とは自立語であり、体言に分類され、<助詞>とは付属語で、体言/用言ではない性質の異なる単語である。これは中学校の高学年であれば理解できる内容である。こうした、初歩的な文法理解もなしに感覚的な議論を繰り返しても得るところはない。

したがって、<当方は、準体助詞と形式名詞は同じようなものだと思っています。>などと、<助詞>と<名詞>を一括りにするのは全くの誤りという他ない。

質問者が引用している HP『現代日本語文法概説』も語の本質と機能を混同した誤った解説を展開しており、基本的な文法知識もなしにこうした議論に感染すると混乱する他なくなる。

今回の議論に関連する誤りの事例を示しておこう。

「57.名 詞 節 」を引用する。
http://niwanoda.web.fc2.com/bunpou/57meisisetu.h …

>>
また、「パン」のかわりに、
そこにあったのを食べた。
とすると、これは「そこにあった」+「の」で、名詞節のように見えますが、これは実は連体節です。

 「そこにあったの」全体が「パン」のかわりなのではなく、最後の「の」が名詞に当たるのです。

そこにあったパンを食べた。

という文と比べてみると、そのことがはっきりします。この「パン」のかわりに「の」が入っているのです。
     [彼女がそこにいた]の を見た。   (名詞節)
     [そこにあった]パン/の を食べた。 (連体節)

名詞節の基本は「の」と「こと」によるものですが、ほかにも名詞節と考えられるものがあります。//

ここには、語の品詞と機能の混同がある。名詞節とは節の内容であり、連体とは体言に連なるという機能の名称である。

[彼女がそこにいた]は名詞節ではなく、<形式(抽象)名詞>「の」連体修飾節であり、【[彼女がそこにいた]の】が名詞節である。

[そこにあった]は<名詞>「パン」または<形式(抽象)名詞>「の」の<連体修飾節>であり、(連体節)というのは、この<連体修飾節>の省略形に過ぎない。

【[そこにあった]パン/の】が名詞節である。

つまり、名詞節=底名詞+連体修飾節(連体節)

である。

こんな初歩的な文法用語も理解できずに文法を論ずるのでは論理的な理解、展開は不可能である。実際、ここには言語とは何か、語とは何か、文法とは何かは一切触れられておらず、単に現象や機能を、それも怪しげな理解に基づき展開されている。これでは、論理的な展開など出来ようはずがない。典型的な街の文法好事家に過ぎない。

言語、文法についてあれこれいうのであれば、まずは、基本的な中学/高校レベルの文法を理解し、文法論の論理的性を理解したうえで、質問/応答し、回答の内容が論理的に理解できるようにしないと,無内容なグダグダの質問、応答を不要に繰り返すしかない。

質問自体は歓迎であるが、せめて回答を正しく理解できる力を持ちたいものである。

文法の話だから何を言っても良いというものではない。

この点、深い反省を求めたい。■

質問者からの補足コメント

  • なお、こうした機能と本質の混同は活用の説明の誤りにも露呈しています。

    例、
    https://niwasaburoo.amebaownd.com/posts/5737340/
    21. 活用・活用形 (1) 動詞

    活用とは、述語が、文の中での働き方の違いによって形を変えることです。~「文の中での働き方」とは、一つにはその形自身が【どんな意味を表わす】かということで、~そこで文が終わるのか、後のどんな要素に(それがある意味を表わします)つながるのか、ということです。

    表す【意味】と接続のし方によって形を変えることを「活用」と言います。

    ここでは、意味により形が変わるという誤まった説明をしています。

    格助詞の説明の誤りは、

    格助詞「に」と「で」の意義の相違について(Ⅱ)■
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11798485.html

    参照。■

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/02 15:13
  • 従って、

    >> 連体修飾節(連体節)「そこにあった」+底名詞「パン」ですが、それ全体は「名詞節」とは言いません。そもそも「節」ではありません。

    であれば、「そこにあった」は句であり、<名詞句>とすれば良いだけで、「の」が名詞であることに変わりはありません。それに、

    >>「節」とは、「文相当」の「補語+(補語+) 述語」という形です。

    であれば、「そこにあった」は<補語「そこに」+述語「あった」>で節であり、「そこにあった」は連体修飾節で、「そこにあったパン」は<名詞節>で問題ないことになります。

    やはり、句、節と文の相違が理解できていないと云う他ありません。

    >>(文相当の)「連体節」が修飾している「名詞」を中心としたまとまりです。

    この、(文相当の)という文の理解ができていない混乱で、文とは「汽車!」が一語文であるように、文の理解が誤っています。■

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/03 23:53
  • ここまでの説明で、話が食い違う理由が明かになったと思います。

    先ず、文とは何かが定義されておらず、それゆえ語、句、節、文、文章の相違と関連が正しく理解されていません。
    屈折語では、分かち書きをするので語とは何かは形式的には明確です。文とは主語と述語からなるという定義も最もらしく聞こえます。三上、寺村、仁田義雄、金水敏、益岡 隆志らの文の定義はこうした屈折語文法の発想を日本語に押し当てているため論理が混乱します。

    更に、学校(橋本)文法では文節論を展開し、節は語に次ぐ単位になっています。

    名詞節、連体節と言う場合の節は橋本文法でいえば連文節になります。教科研文法や新記述文法では文節を語にしようとしています。

    こうした混乱が、回答者の節理解にも反映し混乱しているということです。

    以前から指摘の通り、語とは何か文とは何かの定義もなく、したがって形式、機能に依拠するしかありません。☇

      補足日時:2020/08/04 06:43
  • 当然、語の意義と意味の相違と関連など考えたこともないというお粗末な話になります。このため、

    【[そこにあった]パン/の】

    が名詞節ではないという珍説になります。これは、文ではなく、節または句で、「そこにあったパンをどうしたの。」「きのうそこにあったパンは私が食べたよ。」と文に使用されるということです。

    同様に、「そこにあったのをどうしたの。」「きのうそこにあったパンは私が食べたよ。」と文になります。これらの文から取り出したのが、【[そこにあった]パン/の】という名詞節です。

    連体節と名詞節が異なるのは当然で、これを混同するのは、<質問:「連用形と副詞の違いを教えてください!」>という中学生レベルの誤りでしかありません。

    つまり、機能と本質の混同です。

    品詞定義より構文が重要と声高に騒いでも、元になる語、句、節が曖昧では論じようがないというお粗末な結果になります。☇

      補足日時:2020/08/04 06:52
  • このように、本質論なき形式主義、機能主義的な言語論、文法論では言語の論理的、科学的な解明は不可能ということです。

    活用理解の誤りも指摘しておきましたので参照下さい。
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11806630.html
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9461 …

    また、
    https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9459 …

    など。終助詞理解の誤りについては、
    https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11794537.html

    を参照。

    ソシュールパラダイムを克服し言語表現の過程的構造を捉えることなく、言語、文法の科学的な解明はできません。■

      補足日時:2020/08/04 07:02
  • >>「彼が高慢な」を「連体修飾節」と捉え

    でなければ、「彼が高慢なの」は名詞節にはなりません。「連体修飾節」と(底)名詞の無い名詞節があったら提示して下さい。修飾すべき(底)名詞がなければ、「連【体】修飾節」も存在しません。この辺の理解が根本的に誤っています。

    >>後ろの名詞だけで「一つの名詞」です。

    だから、それを修飾する「連体修飾節」と一組で名詞節になるということです。

    ずいぶん懇切丁寧に説明したつもりですが、おわかりでしょうか。
    「定義」というものは、このくらいきっちりと読み解くべきものなのです。自分の思い込みでいいように読み替え、書いていないことを読み込んではいけないのです。

    以前、助詞は語ではないと考えますなどと寝惚けたことを言われていましたね。この程度の理解では、とても、語、句、節、文、文章の関連と相違など理解できないということです。

    理解できましたか?■

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/08/04 23:46
  • もう一言云わせていただければ、複文、構文などと言いながら、それが全く理解できていないということですね。

    連体修飾節とは節(従属文)の機能の名称であり、名詞節とは底名詞と修飾節からなる実体認識を表わす節であるということが理解できない、機能と本質を同一平面に並べた中学生レベルの混乱をしているということです。

    「定義」というものは、このくらいきっちりと読み解くべきものなのです。自分の思い込みでいいように読み替え、理解した積りではどうしようもありません。

    そもそも生成文法などという機械論の誤りを見破れないようなレベルではどうしようもありません。

    以前にも指摘の通り、生成文法とは逆立ちした理論だということです。
    「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」
    http://okrchicagob.moto-chika.com/DME/work/GJBHG …

    参照。■

      補足日時:2020/08/05 00:00
  • すいません。
    何故、話しが食い違うかを考えて、回答者が、

    >>それ全体は「名詞節」とは言いません。そもそも「節」ではありません。

    と言われる理由が分かりました。回答を書いた後に閃きました。回答者は、そもそも文とは何か、語、句とは何かが根本的に理解できていません。生成文法と同じ発想で、文がアプリオリに存在し、それを解釈するのが文法だと考えているからです。

    語、句、節、文とは何かが理解できていないために話しがすれ違います。
    たとえば、猫がキーボードの上を歩き、「そこにあるパン」と表示されたとしましょう。実際には、そんなことはあり得ず「kshそs@p~」と表示されるだけですが。しかし、これがたまたまそうなった場合、回答者の見解では、「そこにあるパン」は連体修飾節だということになります。

    猫でなくても、日本語を知らない外人であれば、「そこにあるパン」と入力することはできません。☇

      補足日時:2020/08/05 07:37
  • これで分かるように、「そこにあるパン」と入力し、理解を支えているのは日本語の言語規範、つまり文法でこれを媒介することにより表現、理解が可能です。そして、「そこにあるパン」と入力が出来るのは話者がある対象を認識し、それを日本語の言語規範、文法により表現したからです。

    つまり、表現を支えているのは話者の認識であり、この認識がある実体を捉え、初めて「そこにあるパン」という表現が生まれ、この認識に対応した表現を節と呼んでいます。

    回答者の発想はこの逆の発想で、結果として表現された文字列が文の【形】をしていればそれは文であり、その中の主語と述語らしきものから節を取り出すという発想です。

    これが、先に三浦が指摘している「逆立ち的発想」ということです。

    当方は表現を支える話者の認識の構造に基づき節か否かを判断していますが、回答者は表現された文字列の形式、構造から判断しているということです。■

      補足日時:2020/08/05 07:51
  • もう一例

    22 名詞修飾節

    花子が借りている太郎の充電器
    花子が太郎の充電器を借りている

    名詞修飾節とは,述語の終止形が主要部となり,後続する N,PRO,WPRO,Q,NPR を修飾する節であり。 いくつかのコピュラの短縮形や化石化した形式を除いて,述語の終止形は過去・終止形や非過去・終止形と区別することはできない。 名詞修飾節は2種類に分けられる。 第1のグループの名詞修飾節は, 主名詞(修飾される名詞)と同一の格名詞句が節内部で空所(トレース)となっているものである。 言い換えれば,この種の名詞修飾節においては,主名詞に格助詞を付け,格役割を果たす文を復元することが出来る。 この種の名詞修飾節は IP-REL (関係節) とラベル付けされる。 2番目の種類の名詞修飾節は,主名詞が節内部で格役割を果たさないものであり,IP-EMB (空所なし名詞修飾節) とラベル付けされる。

      補足日時:2020/08/05 23:12

A 回答 (16件中1~10件)

相変わらず暑い日が続きますが。



   >>そろそろこの話も終わりにしましょうかね。「煮詰まる」どころか、「ぬかにくぎ」状態だから。
  そうですか。
  物は云いようですね。
  いつもながらの遁走ですか。

おやおや。私の質問に答えられず、いつも逃げ回っている人が、何をおっしゃる。

今回は、ついに「ゴールポストを動かす」ことで論の誤りを認めることを回避した。

これじゃあ、議論にならないじゃないですか。「節の定義」が「連体節と名詞節では違う」ことを書いた文献はありますか?
あるわけがない。今回初めての説、本邦初ですものね。空前絶後。(空前、はもちろんですが、絶後、も確かでしょう。そんなめちゃくちゃをいう人は、今後も出ないでしょう)

   せめて、「一般的な定義」がどこにどのように記されているのかだけでも明示していただければ幸いです。

この期に及んで何をボケけたことを。

最初から言っているとおり、古くは山田から橋本まで(彼らは「名詞節」とは言っていませんが、その内容をきちんと読めば、「名詞節」と「連体節」を(私の言うように)区別していることははっきりしています。なお、時枝は「複文」を扱っていませんから、何の定義もなし)、寺村も、益岡・田窪の「基礎日本語文法」も、庵他の「日本語文法ハンドブック」も、くろしおの「現代日本語文法」も、皆同じ。
国語辞典から百科事典、日本語教育辞典、文法事典の類まで、皆同じ。これは、当然のことながら、以上の学説に従っているだけですね。(これはご自分でも引用していましたね。)
その他、日本語の文法に関する本で、複文を扱っている本は皆同じ。(1冊ぐらいは例外があるか??)
それらのどれかを引用して欲しい? ほんとに?

それらをぜんぜん見たこともないのですか? 見ても、目が節穴だから、自分の定義との違いに気付かなかった?

天野みどりも、そこに紹介されている「諸説」も、Miaoも、長谷川信子も、皆その定義に従って論を進めている。それに気付かず、自分の定義を補強するものだと思って、得々として紹介する。今振り返って、みじめじゃありません?

以上。暑さの中、頭を冷やしてゆっくり考えてください。

saburoo
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この回答へのお礼

暑くて、だいぶ「ぬかにくぎ」状態が進行しているようですね。

>>古くは山田から橋本まで(彼らは「名詞節」とは言っていませんが、その内容をきちんと読めば、「名詞節」と「連体節」を(私の言うように)区別していることははっきりしています。

「名詞節」とは言っていなければ引用のしようがない訳で、回答者の思い込みが正統化されるわけではありません。
どこにどう書かれているのか、一例でも挙げていただくと思い込みの誤りが露呈すると思いますが。

しかし、誤りの原因は明確になりました。

先ず、連体節が底名詞を前提としていることは『概説』の記述にも示されている通りです。その点を誤植というのであれば別ですが。それでは『概説』は誤植だらけになるしかありません。実際、それが論理的必然であることは

「庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …

で論じた通りですが。

そして、問題は連体節が底名詞を前提にし、「連体修飾節+底名詞」を名詞節と呼ぶか否かですが、これは当然、語、句、節、文、文章という言語表現の単位から考えれば<名詞節>であるのは自明です。

此の自明というのは、構文をどのように捉えるかの問題で、橋本文法のように節を竹の節(ふし)のように形式的な線状でしか捉えられないための誤りです。

時枝は文の風呂敷型統一構造、入れ子型構造を提起しており、これは認識の立体的、重層的な構造に対応しています。認識との対応を捉えられない線状的な竹竿構文では本質的に理解できないということです。要は、何度も指摘しているように

>>「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。

などというお粗末な言語理解からは、文法も語も文も定義、理解しようがないということです。それは、ソシュールパラダイム下の論理的必然であることをまず理解しましょう。

>>「修飾」というのは、ある言葉が他の言葉をくわしく説明したり、限定したりすることを言います。

などと寝惚けたことをいうしかないことになります。これも、誤植ですか?

以上。暑さの中、頭を冷やしてゆっくり考えてください。■

お礼日時:2020/08/22 17:09

おやおやおや。



    >>「節」というのは「補語(名詞句+格助詞)+述語」という、「文相当」の
      「一つのまとまり」
   この理解が根本的に誤まっています。それは、連体修飾【節】という場合の【節】で、
   名詞【節】でいう【節】は上記の通り、
     文中で、主語や目的語など名詞と同じ働きをする節。日本語では、節末に
    「の」「こと」などの形式名詞を伴う。

おーやおやおや。今度は「節」の定義を動かしてしまうんですか。
よく、「ゴールポストを動かす」という言い方を政策の改変(改悪)などに関して言いますが、まさにそれですね。
「連体修飾節」と「名詞節」で「節の定義」が違う? なんじゃそりゃ。

そうまでして、自分のまちがいを強弁したい?

    めいし‐せつ【名詞節】
     文中で、主語や目的語など名詞と同じ働きをする節。日本語では、節末に
     「の」「こと」などの形式名詞を伴う。ヨーロッパ語では、英語のthatの
     ような接続詞が先行する。【広辞苑】

   です。つまり、
      「連体節+(底)名詞」が名詞節です。

この「つまり」は、まったく使い方を間違っていますね。ぜんぜん「つまり」じゃない。
まあ、「つまり」の使い方というより、前後がまったくつながっていないんだから、他の接続詞でもつなげようがありませんね。

そろそろこの話も終わりにしましょうかね。「煮詰まる」どころか、「ぬかにくぎ」状態だから。

繰り返します。質問者が上記の「名詞節の定義」を主張するのはかまいません。ご自由に。
新しい「節の定義」もそれに付随して。

しかし、それを「一般的な定義」だなどとウソを書かないように。それだけです。

saburoo
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この回答へのお礼

>>そろそろこの話も終わりにしましょうかね。「煮詰まる」どころか、「ぬかにくぎ」状態だから。

そうですか。
物は云いようですね。
いつもながらの遁走ですか。

せめて、「一般的な定義」がどこにどのように記されているのかだけでも明示していただければ幸いです。■

お礼日時:2020/08/16 20:10

我ながらヒマだなあと思いつつ、あまりに面白いので。



No.13の「お礼」欄に。


またまた論理がぐちゃぐちゃですね。

[1]
   「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。
   つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。//

  ここで言われているのは、<つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。>つまり、
  連体修飾節の後には<名詞>が存在し、

はい、まったくその通りです。
しかし、その後の

  〔連体修飾節+名詞〕が名詞節になるということを前提しているということです。

はあ??

何度言ってもわからないんですねえ。ほんとに感心・驚嘆するレベルです。
なぜ「前提としている」という結論が導かれるのか。勝手な「前提」を持ち出すべからず。

「節+名詞」がなんで一つの節になるんですか??   

「節」というのは「補語(名詞句+格助詞)+述語」という、「文相当」の「一つのまとまり」ですよね。これも何度も言ってきた。(この「文相当」には色々問題がありますが、今は問題にしません)

例えばこれら。
   弟がパンを食べる  姉が文法に詳しい

で、後ろに名詞をつけると、(「文相当」の中の一つの補語が「底の名詞」になる場合)
   パンを食べる弟  文法に詳しい姉

これらは「文相当」ではない。どこから見ても。

   (パンを食べる)弟を母が呼んだ   (文法に詳しい)姉がそう教えてくれた

主文の中に入れれば、単に名詞相当じゃありませんか。「文相当」じゃない。
「節」の定義がわかっていない。自分の勘違いとの矛盾に気づかない。

   であれば、
    【[そこにあった]パン/の】
   の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、

これもまったくその通り。

   【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。

ここがおかしい。ゆえに「矛盾」などどこにもない。(「名詞節=連体節+名詞」を「前提」すれば矛盾しますな)

「名詞節」とはどういうものか、「名詞節の定義」を問題にしているのに、論証の中に「名詞節」を持ち込んでいる。ぜんぜん論理的議論になっていない。
学問一般、特に哲学などを考えるときの基本の基本の基本なのにねえ。(論証すべき「結論」を「前提」にしてしまうのは、どんな学問分野でもダメ)

以上と同じことをこれまでに5回ぐらい書いたんじゃないかなあ。ヌカに釘、ですな。

[2]
次はいつもの手口。違う部分をいっしょにして、一つの引用であるかのように見せる。
 
   >>連体修飾節[皿の上にあった]が、「の」を修飾している (①)
     構造で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[食べる]の補語になっている。
     「の」は、文脈から「リンゴ」を指していることが明らかであり、それ自体が
     [名詞相当]の働きをしている。
     それに対して、下の[弟がリンゴを食べたの]は、全体として名詞節で、 (②)
     格助詞「を」と共に、主文の動詞[見る]の補語になっている。
     この「の」は、何かを指しているわけではなく、[見る]の補語として、
     [弟がリンゴを食べた]に[名詞相当]の統語的役割を与えるためにのみ存在する。
     (つまり、「補文化辞」)//

   「全体として名詞節」といっていますね。当然のことです。<それ自体が[名詞相当]
   の働きをしている。>のは当然です。「名詞節」だから名詞の働きをしているという
   同語反復に過ぎないということです。

「全体として名詞節」というのは②の「名詞節」の話から。
<それ自体が[名詞相当]の働きをしている。>というのは①の「連体節」の話から。

「それに対して」と書き、きちんと対立させて話をしているものを、わざと(あるいは、そもそも論証の筋道がまったく理解できていない?)まぜて、一つの論のように見せかける。うまいと言うか、あざといと言うか。

いつもだと、引用の元は隠して、恣意的な「切り取り」をしたものを示していたのが、今回は引用元全体をしっかり引用してしまったので、下手な手口がバレバレですね。どうしたんですか?
暑さでごまかしのテクニックがほころんだ?

で、「洗濯し」の話は今回も逃げるのですか?
「洗濯し」が「連用形名詞」つまり「名詞」であることの論証はできない?
品詞分類は「意義」によってするんですね? では、「洗濯し」の「意義」から、それが名詞であることを論証できるでしょう?
名詞と動詞の区別がついていない?

どうでもいいようなことですが、「高木」さんは?

saburoo
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この回答へのお礼

暑いですね~。

>>何度言ってもわからないんですねえ。ほんとに感心・驚嘆するレベルです。

めいし‐せつ【名詞節】
文中で、主語や目的語など名詞と同じ働きをする節。日本語では、節末に「の」「こと」などの形式名詞を伴う。ヨーロッパ語では、英語のthatのような接続詞が先行する。【広辞苑】

です。つまり、

「連体節+(底)名詞」が名詞節です。
これが、文中で主語にも補語にも述語にもなるということです。

>>「節」というのは「補語(名詞句+格助詞)+述語」という、「文相当」の「一つのまとまり」

この理解が根本的に誤まっています。それは、連体修飾【節】という場合の【節】で、名詞【節】でいう【節】は上記の通り、

文中で、主語や目的語など名詞と同じ働きをする節。日本語では、節末に「の」「こと」などの形式名詞を伴う。

ということです。この理解の誤りが齟齬の原因です。そもそも、補語の理解が誤まっています。

[述語・補語]
おそらく、世界のどの言語にも、動詞のようなものと、名詞のようなものがあると思われます。そして、その動詞と名詞とを組み合わせて文を作り、外界の事象や自分の意思・感情などを表現していると考えられます。その、文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言い、動詞と一緒になって事がらを表現する名詞を「補語」と言います。

<文の中心になる動詞を、文の成分としては「述語」と言い>は云いません。文が主語と動詞から成るという誤った理解が根底にあるための誤解です。<動詞>という品詞と<述語>という文レベルの機能を混同しているための誤りです。

「述語とは何か ― 形式主義文法論の混迷」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11813171.html

参照。

>>「高木」さんは?

以前記したように、黒田氏の祖父に当たる当方がお世話になった数学者、高木貞治の名が浮かんでしまった弘法も筆の誤りです。どこも三代目は小粒ちゃんです。黒田成幸氏にも数学の論文がありますが、まあそれなりの業績です。

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう(Ⅳ)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11833400.html

を提示しましたので参照下さい。■

お礼日時:2020/08/16 13:00

No.12の「お礼」欄に対して。



やっぱり、「なぜ矛盾するのか」は書けないようですね。矛盾なんかありませんものね。

で、えーと、まず「名詞の定義」ですが、「文法概説」にはこう書いてありますね。

   1.名詞・・・・後に「が」「を」「に」などがついて、補語になる。
    述語になる場合は「だ」がつく。「代名詞」も含む。

名詞の最大の役割は「補語」になることです。それと、(名詞文の)述語になること。
あとは「の」をつけて連体修飾になる。逆に、定義の一部とは言えないが、連体修飾を受ける。

こんなところですかね。私は、品詞の定義に「意味」を考慮しません。それでは品詞を決定できないから。
これがごくふつうの考え方であることは、前に述べました。

前に、「洗濯しに行く」の「洗濯し」は名詞か否か、という議論をしたのを覚えていますか?
「議論」といっても、まったく逃げてしまって答えなかったのですが。そこを引用しておきます。
「名詞」である/でない、とはどういうことかの論証の例として。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11718446.html?pg=1& …
(No.15から)

終わりのほうで、「連用形名詞「洗濯し」として動詞「行く」の静的な対象として「に」に位置付けるかの相違」と書いてあるのは、これは大間違いですね。これは三浦が書いているのですか? それとも時枝?

「洗濯し」は動詞の連用形です。「名詞」じゃありません。
どうも日本語の文構造の基本の基本がわかっていない。

なぜ名詞とは言えないか。連用格をとるからです。

違う語を例にして説明しましょう。例えば、「練習」と「練習する」

  1 テニスの練習がある
  2 テニスを練習する

1の「練習」は名詞です。その理由は、
  a 「テニスの」という連体修飾を受けている
  b 「が」という格助詞がつけられ、「ある」の主格になっている
ですね。

2の「練習」は動名詞あるいは漢語サ変動詞の名詞部分です。
  c 後ろの「する」と複合した形の動詞として、
  d 「テニスを」という対象格(目的格)をとっている
からです。

なお、「練習をする」という言い方もできて、

 3 テニスの練習をする

とも言え、この場合の「練習」は「する」の対象格の名詞です。

さて、「洗濯しに行く」の「洗濯し」は動詞か名詞か。

 4 ×衣服の洗濯しに行く

連体修飾は受けられない。

「洗濯し」は、一般に名詞が現れる文法的位置に現れうるか。

 5 練習がある 練習をする   これはテニスの練習だ  練習の記録

 6 ×洗濯しがある ×洗濯しをする  ×これは衣服の洗濯しだ  ×洗濯しの記録 
   (洗濯がある   洗濯をする    これは衣服の洗濯だ    洗濯の記録)

「洗濯」は言うまでもなく名詞ですが、「洗濯し」を名詞と見るのは困難です。

 7 衣服を洗濯しに行く

「衣服を」という連用格をとれる。動詞と見なすのに十分である。
なお、「洗濯をする」の場合は、

 8 衣服の洗濯をしに行く

となり、名詞「洗濯」は「衣服の」という連体修飾を受けます。

以上、「洗濯しに行く」の「洗濯し」は「連用形名詞ではなく、動詞の連用形」であることの論証でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この内容がちゃんと読めて、反論できるならしてください。

さて、質問者の「名詞の定義」はどういうものなのでしょうか。前に何か書いてありましたっけ?

「洗濯し」は、その「定義」から、名詞だということが言えるのでしょうか。
今度こそ、逃げないで議論していただけますかな? また逃げる?


さて、「の」は名詞か否か。
「普通名詞」ではないわけですね。「形式名詞」ではある、と。
他の「形式名詞」はすべて(と言っていいと思いますが)もともと「普通名詞」としての用法を持っていますね?
どうして、「の」だけがそうでないのか。
それについて、何か論はありますか? そうだから、そうなんだ、だけですか?


いつも時枝という権威に寄りかかっていますが、自分の論も展開してみてください。
特に、上の「洗濯し」の問題など。

あ、それと、長谷川の論文の話で、「高木」って誰のことですか? そんな人、いましたっけ?

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

>>やっぱり、「なぜ矛盾するのか」は書けないようですね。矛盾なんかありませんものね。

まず、この点を明確にしましょう。

>>10.修 飾
補語と名詞述語の名詞を修飾する「連体修飾」について、次に述語を修飾する「連用修飾」について、どのような形式があるかをかんたんに述べます。
「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。//

ここで言われているのは、<つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。>つまり、連体修飾節の後には<名詞>が存在し、〔連体修飾節+名詞〕が名詞節になるということを前提しているということです。逆に言えば、<名詞>が存在しないのであれば、それは連体(修飾)節ではないということです。したがって、

56.1 概観
連体節とは、連体修飾節、つまり【名詞(体言)】を修飾する」節です。//
(【】は引用者による強調)

であれば、
【[そこにあった]パン/の】

の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。

ということで、「パン」と「の」は共に名詞でなければ矛盾だということです。そして、当然ながら、「パン」と「の」の前の語の活用形は連体形だということです。

>>連体修飾節[皿の上にあった]が、「の」を修飾している
構造で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[食べる]の補語になっている。
「の」は、文脈から「リンゴ」を指していることが明らかであり、それ自体が[名詞相当]の働きをしている。
それに対して、下の[弟がリンゴを食べたの]は、全体として名詞節で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[見る]の補語になっている。
この「の」は、何かを指しているわけではなく、[見る]の補語として、[弟がリンゴを食べた]に[名詞相当]の統語的役割を与えるためにのみ存在する。(つまり、「補文化辞」)//

「全体として名詞節」といっていますね。当然のことです。<それ自体が[名詞相当]の働きをしている。>のは当然です。「名詞節」だから名詞の働きをしているという同語反復に過ぎないということです。語、句、節は意義、意味を表わすもので、その本質ゆえに働くということです。■

お礼日時:2020/08/15 22:28

暑いし、まともな本は読めないので、暇つぶしにおつきあい。



   であれば、
     【[そこにあった]パン/の】
   の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、
   【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。

こう書いたら、その後に「なぜ「矛盾」するのか」を説明するものだと思うのですが、それは書けないのですか?

   機能主義の迷妄と言っているのが理解不能のようですね。

こう言うだけで、具体的な、内容に踏み込んだ議論はできない。

   語の働きではなく語の意義を捉えなければなりません。
   語は意義を表わすもので、補文化辞などではありません。

議論なし。宣言だけ。

   https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html?order
   のNo.3 を拳拳服膺して下さい。

お、「拳拳服膺」がちゃんと書けましたね。
他の「形式名詞」については、異論はありません。(しかし、こんな短い論で何かを論証した気になれるというのはうらやましいですね。さすがシロウトさん。)

「の」については、「形式名詞」と見なせる場合と、そうでない場合がある、という主張をしています。
「の」は皆同じ、という論はおおざっぱで、例をだらだら並べるだけでは何の論証にもならない。

「の」は、そもそも名詞ではない、という論に反論はあるのですか?
他の「形式名詞」は、もともと名詞だったものが「形式化」したものです。

「形式」名詞でない、普通名詞の「の」とは? 時枝の編集(監修?)した辞書にそんな項目はありましたか?

   生成文法にいかれた頭を冷やし回復するのがまず第一ですね。
     >>長谷川の【高度に専門的な論文】
   こういう世迷い言をほざいている間は話になりません。

誤解されているようですが、私は「生成文法学者」ではないし、その方法を使ってもいません。まあ、何も知らないシロウトさんには、何がなんだか区別がつかないでしょうが。

ほんとに、笑ってしまったのですが、長谷川の論文から引用した時、あの論文をぜんぜん読んでいないでしょう? 「名詞節」ということばだけに反応してしまった。

むりな背伸びはよしましょう。時枝を良しとするなら、時枝のことだけ書けばよい。
まったく読めもしない生成文法の批判(にもなっていないのだけれど)は、みっともないだけです。

saburoo
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この回答へのお礼

>>こう言うだけで、具体的な、内容に踏み込んだ議論はできない。

先に機能に依存しては正しい区分はできないことに触れましたが理解できていませんね。現象、本質、機能がどのような関係にあるかが全く力できていないということです。具体的な内容に踏み込んだ理解が全くできないということです。

>>の」は、そもそも名詞ではない、という論に反論はあるのですか?

そもそも、名詞とは何か、助詞とは何かの定義も無しに<名詞>だ、でないとは何を言っているのか意味不明です。
「の」が<形式(抽象)名詞>であるのは先に定義と共に論証しましたが反論はできないのですか。

以前から指摘していますが、「の」には<格助詞>と<形式(抽象)名詞>の二種類があるということです。
名詞とは何か、助詞とは何かの定義も無しにあれこれ云う非論理性をまず反省すべきでしょう。
<名詞>ではないという論証はどこにあるのですか。名詞の定義も無しに。

>>他の「形式名詞」は、もともと名詞だったものが「形式化」したものです。

形式化とは何ですか?
語が形式化などどうすれば出来ますか?

>>「形式」名詞でない、普通名詞の「の」とは? 時枝の辞書にそんな項目はありましたか?

だれが、普通名詞と言っているのですか。
「の」には<格助詞>と<形式(抽象)名詞>の二種類があるということです。
時枝は、『日本文法 口語篇』の107pで形式名詞の項に次の例を挙げています。

私が話した【の】は誤りです。(橋本博士はこれを準体助詞として助詞の中に入れられていたが、形式名詞と考えるのが適当であろう。佐久間博士は代名詞とされる。)

>>私は「生成文法学者」ではないし、その方法を使ってもいません。

そんなことは『概説』を見れば直ぐ判ります。同じ形式主義/機能主義の発想が同じなので補文化辞というピント外れの言説が出て来るということです。

>>長谷川の論文から引用した時、あの論文をぜんぜん読んでいないでしょう?

いいえ。高木に反論しているのは正当ですが、所詮生成文法という枠組み自体が誤りで意味を為さないということです。理解できますか。

むりな背伸びはよしましょう。

形式主義/機能主義の誤りが理解できずにあれこれ言ってみても対象の本質は捉えられず、『概説』の非論理性を指摘したように、論理矛盾がそこらじゅうに露呈するだけです。■

お礼日時:2020/08/15 19:12

しかしまあ、あっちこっちから引っ張り出してきては、毎度読み違えてますね。



   長谷川 信子「主要部内在型関係節:DP 分析」
  で、「意味役割が付与される位置(θ統率される位置)にしか生起できない」など単なる結果論
  を弄ぶお粗末な論理を展開しています。しかし、
  こうした問題を様々な例文を検討して考察し、(i)については、名詞節(名詞句)であり
   と当方と同じ見解を記していますね。理解できますか?■

どこが「当方と同じ見解」なんですか。あきれる。
「名詞節」とは確かに言ってますが、「名詞節=連体節+名詞」ではありませんねえ。
ほんとに中身を読んだ? まったく読めてないでしょう? 「θ統率」って何ですか??

長谷川の高度に専門的な論文を質問者が読めるわけがない。だから誤解するのはしかたがないとは言えるが、なんで、自分にはまったく読めない論文を探し出してきて、「名詞節」ということばにだけ反応して、自分と同じ事を言っている、と誤解するのか。

天野みどりのレジュメも、Miaoの論文も、「名詞節」は他の学者と同じような定義で使っている。
上の、「名詞節=連体節+名詞」ではない。連体節(関係節)を中に含んでいない。
何度言ってもわからないのですねえ。理解力ゼロ。

   では、これを何と呼ぶのでしょうか。名無しのゴンベイですか?

何と呼ぼうと、それぞれの研究者の考えでかまいませんが、すでに他の定義で使われている「名詞節」はダメだ、ということです。

もう一度だけ、基本に戻っておさらいを。(我ながら何と親切なことか!)

   母がリンゴを買ってきた。弟は[皿の上にあったの]を一つとって食べた。
   私は[弟がリンゴを食べたの]をみた。

上の[皿の上にあったの]は、
   連体修飾節[皿の上にあった]が、「の」を修飾している
構造で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[食べる]の補語になっている。
「の」は、文脈から「リンゴ」を指していることが明らかであり、それ自体が[名詞相当]の働きをしている。

それに対して、下の[弟がリンゴを食べたの]は、全体として名詞節で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[見る]の補語になっている。
この「の」は、何かを指しているわけではなく、[見る]の補語として、[弟がリンゴを食べた]に[名詞相当]の統語的役割を与えるためにのみ存在する。(つまり、「補文化辞」)

これがわかるかどうかなんだけどねえ。下の[弟がリンゴを食べた]は、「の」を「修飾」しているわけではない、ということ。だから、連体[修飾]節とは言えない。

まあ、何度説明しても「馬の耳に念仏」ですかね。(この「念仏」は、「わけのわからないもの」ではなく、「ありがたい教え」ですよ、もちろん。)

saburoo
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この回答へのお礼

早速の欠陥を露呈した回答をありがとうございます。

自己矛盾が理解できませんか。

良い例が、庭 三郎『概説』にありましたので提示致します。
まず、『概説』より

10.修 飾
補語と名詞述語の名詞を修飾する「連体修飾」について、次に述語を修飾する「連用修飾」について、どのような形式があるかをかんたんに述べます。
「連体」の「体」というのは「体言」のことで、国文法で名詞と代名詞を合せてこう呼びます。つまり「連体」とは【名詞にかかる】という意味です。

56.1 概観
連体節とは、連体修飾節、つまり【名詞(体言)】を修飾する」節です。//
(【】は引用者による強調)

であれば、

【[そこにあった]パン/の】

の[そこにあった]が連体節であれば、「パン/の」は名詞、【[そこにあった]パン/の】が名詞節でなければ矛盾します。

>>連体修飾節[皿の上にあった]が、「の」を修飾している
構造で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[食べる]の補語になっている。
「の」は、文脈から「リンゴ」を指していることが明らかであり、それ自体が[名詞相当]の働きをしている。
それに対して、下の[弟がリンゴを食べたの]は、全体として名詞節で、格助詞「を」と共に、主文の動詞[見る]の補語になっている。
この「の」は、何かを指しているわけではなく、[見る]の補語として、[弟がリンゴを食べた]に[名詞相当]の統語的役割を与えるためにのみ存在する。(つまり、「補文化辞」)//

機能主義の迷妄と言っているのが理解不能のようですね。

>>[名詞相当]の働き

語の働きではなく語の意義を捉えなければなりません。語は意義を表わすもので、補文化辞などではありません。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11788778.html?order …

のNo.3 を拳拳服膺して下さい。

このように、対象は具体的にも、抽象的にも捉えられ、表現されます。内容が具体的か抽象的かは語の品詞とは直接関係ありません。実体的な認識を表わす語が名詞です。

ということです。

生成文法にいかれた頭を冷やし回復するのがまず第一ですね。

>>長谷川の【高度に専門的な論文】

こういう世迷い言をほざいている間は話になりません。

対象事実とに真摯に向き合いましょう。■

お礼日時:2020/08/15 17:03

おはようございます。

  仁科明 吉村紀子『補文標識の出現―「の」の歴史的変化―』https://ci.nii.ac.jp/naid/110004628236のp.8に「「の」が歴史的に、「(代)名詞(=D)」から「補文標識(=C)」への範疇転換を被った」とありました。
1. [行く]の。
2. [[行く]の]か。
3.[[[行く]の]か]な。
4.[[[行く]の]を]食べる。
  かかなが付くのとをが付くのは違った感じがします。前3者ののは行くを媒介的に抽象的な実体として捉えなおしたものです。後1者ののは具体的なパンやリンゴや柿という実体を直接に抽象的な実体として捉えなおしたものです。
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この回答へのお礼

おはようございます。

なかなか興味深い論文の紹介をありがとうございます。

生成文法的な発想の限界が露呈していますが、着眼点は秀逸です。

「名詞(代用)的な用法」こそが格助詞から<形式(抽象)名詞>への転成なのですが、それを「代名詞から補文標識への範疇転換」としか理解できないところに生成文法の発想の限界、誤りがあります。

「連体格の用法において、本来その下に来るべき体言(非修飾名詞、主名詞)が文脈や場面に応じて省略され、残った格助詞「の」が名詞を代用するはたらきをも併せ持つものとして考えせざるを得ない」というのは、語彙規範の転成として理解されなければなりませんが、

問題の「の」が歴史的に、「(代)名詞(=D)」から補文標識(=C)」への範疇転換を被ったとう理解をするしかない点にあります。

としか理解できず、文法化などという文法とは何かも理解ないままに西欧屈折語文法の誤まった用語を無批判に使用するのは浅はかなところです。

「現代英語のthatは指示代名詞と補文標識という二つの機能を持っている。(Jespersen 1909_ 49)」という代名詞理解の誤りについては、宮下眞二『英語文法批判』(1982)が、Jespersenに対峙し批判を展開していますので是非参照下さい。

なお、無形の「Φ」と云っているのは、時枝の提起した零記号に当たります。

連体修飾節という用語の理解も曖昧なまま奇妙な批判を繰り返されている方にも、この程度の理解力があれば了解が得られると思うのですが。

まずは、貴重な論考の紹介に御礼申し上げます。■

お礼日時:2020/08/11 07:42

えー、暑くてまともなことが考えられないので、暇つぶしに。



   ほぼ、問題が煮詰まってきましたね。

この表現好きですね。何も、ぜんぜん、「煮詰まって」いないのですが。

問題は最初(No.4ですが)から変わりません。ぜんぜん進んでいません。

    えーと、まず、
       名詞節=底名詞+連体修飾節(連体節)
    という定義が明記してある文献を教えていただければと思います。
    できれば二つ以上。多ければ多いほど。 (No.4から)

に答えていない、それだけです。

その「お礼」の欄に、

  「名詞修飾構文の対照研究」第2回研究発表会

の紹介があり、大島資生のレジュメから引用がある。

   その最後に、
     ごく粗い言い方ではあるが―、「修飾節+名詞」―という構造において、
     修飾節(特に述語)が中心(内の関係)か、名詞が中心(外の関係)か、という
     区分を考えることになる。
   と記しており、ごく普通に(名詞節=「修飾節+名詞」)ということだと思いますが。

しかし、

   ごく普通に(名詞節=「修飾節+名詞」)ということだと思います

と妄想する根拠はどこにもない。「思っている」だけ。

そのあとの辞書類の引用も全て同じ。

   名詞節=「修飾節+名詞」

とはどれからも言えない。
なお、連体修飾節の後に名詞が来ることは、当然のことで誰も否定しない。
ただ、

   名詞節=「修飾節+名詞」

とは誰も言わない。それだけのことが質問者にはわからない。

まあ、「名詞修飾構文の対照研究」という研究会の報告をいくつも聞いて、自分の「名詞節」の定義が(おそらく)全ての報告者(とそこにいた参加者)と違っていることに気づかなかった、というところがドシロウトの面目躍如、ですね。

No.6に天野みどりのレジュメが紹介され、「諸説」がまとめられている。

  「名詞節=連体節+名詞」という考え方が学会の常識であるのがお判りになるかと思います。

と言うので読んでみると、そんなことはどこにも書いていない。

そのあとにはひどいデマが書いてある。

   >>「<(底)名詞>の存在しない「連体節」というのはだれが言っているのですか?
   もちろん、回答者自身です。

回答者である私はそんなことはもちろん言っていない。
そのことを追及したが、何の返答もなし。つまり、デマ。

   連体修飾節(連体節)と底名詞「パン」存在しながら【名詞節でない】というのは、
   この場合、<連体修飾節(連体節)>が宙に浮いているということですよね。

何を血迷ったことを。連体節の後ろに底名詞があれば、「宙に浮いて」なんかいない。
その全体を「名詞節」とは言わない、というだけのこと。

この単純なことを巡って、同じ所をぐるぐる回っているだけで、「問題が煮詰まって」なんかいない。

自分が盲信している以外の説が何を言っているのか、理解できない。全て自分の説で理解しようとする。

回答者が、上の「名詞節=「修飾節+名詞」」という「定義」に固執しようとしまいと、そんなことは私にはどうでもいい。

   これは、全く一般の定義と同じで、
    名詞節「そこにあったパン」=連体修飾節(連体節)「そこにあった」+底名詞「パン」
   です。

と書いていたことに反応しただけである。「全く一般の定義と同じ」という嘘を放置して置くわけにはいかない。

今回もまた同じ。

   【名詞】節とは名詞を底とする節ということです。

これと同じ事を誰が言っているのかを問うているのに、答えられない。
これは、単に質問者の勝手な定義。学会では誰もそう言っていない。
(いやまあ、そういう研究者がいても不思議ではないが。)

   「連体節」=連体修飾節=体言(名詞)が続く節

これを何度も書く。これは私も、他の研究者も、みな言っていること。常識。
これを書くと何か自分の説の補強になると思っているのか?

  「名詞修飾節」って、「連体修飾節」のことですよ!?
   専門用語を知らないというのは悲しいことですね。

ここは私の文を繰り返しただけ。何も説明できない。

「問題が煮詰まった」わけではなく、質問者の論が行き詰まった、だけだ。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

どうも、論理的な思考が出来ないようで困惑しております。

>>なお、連体修飾節の後に名詞が来ることは、当然のことで誰も否定しない。
ただ、
   名詞節=「修飾節+名詞」
とは誰も言わない。それだけのことが質問者にはわからない。

では、これを何と呼ぶのでしょうか。名無しのゴンベイですか?
それだけのことが回答者にはわからない。

貴HPにて公開された『現代日本語文法概説』がどの程度のものかを、

庭 三郎『現代日本語文法概説』に見る非論理性―機能主義文法論の迷妄
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9466 …

として提示させていただきました。この混迷した論理の一環ということでご理解いただけるのではと考えます。

活用論の誤り、述語理解の混乱についても提示致しました。

述語とは何か ― 形式主義文法論の混迷
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11813171.html

日本語動詞の活用論の混迷
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9461 …

「ほんの気分転換のつもりで軽い文章を書く練習」として、忌憚のないご意見を伺えれば幸いです。

「主要部内在型関係節」「主要部外在型関係節」というのも、生成文法の機能主義的な発想による迷妄に過ぎず、寺村の内の関係、外の関係と同じ発想です。

長谷川 信子「主要部内在型関係節:DP 分析」
http://n-hasegawa.my.coocan.jp/pdf/Hasegawa-2002 …(SAL1).pdf#search='%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8%E5%86%85%E5%9C%A8%E5%9E%8B%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%AF%80'

で、「意味役割が付与される位置(θ統率される位置)にしか生起できない」など単なる結果論を弄ぶお粗末な論理を展開しています。しかし、

こうした問題を様々な例文を検討して考察し、(i)については、名詞節(名詞句)であり

と当方と同じ見解を記していますね。理解できますか?■

お礼日時:2020/08/10 13:11

相変わらず、まったく進歩がありませんね。

呆れます。

そもそも、何が問題なのかいまだにわかっていないようですね。

   質問者の「名詞節」: 「名詞節=連体節+名詞」

それに対して、私・天野みどり(その他大勢の研究者)の「名詞節」とは、

   文相当の形式、つまり、「補語+(補語+) 述語」に、
   (連体助詞とか、補文化辞とか、補文標識とか呼ばれる)[名詞でない]「の」
   が付いた形

なのですよ。それがわかっていますか? いないんでしょうねえ。だから得々として、

   >名詞性は、「の」の前の述語などを含んで、~、つまり【名詞節】だ、と言っているのです。
   「つまり【名詞節】だ」ですよね。これが名詞節ではないのですか。

などと書いていい気持になっているらしい。そして、

   ~「名詞節」であることは認めています。であれば、「の」は底名詞であり、その前の節
   は連【体】節であるのは論理的必然です。

と書いている。まったく何を議論しているのかがわかっていない。

今議論しているのは、

   質問者の「名詞節」: 「名詞節=連体節+名詞」

こんな「珍説」を誰か質問者以外にはっきりと書いている人がいるのか、ということです。

「名詞節」の「の」が名詞かどうか、その前の「節(相当)」の部分が「連体節」と言えるかどうか、それを議論しているのですよ。

それが問題、問われていることなのに、

   であれば、「の」は底名詞であり、その前の節は連【体】節であるのは論理的必然です。 

って、疑問視されていることを「論理的必然」ってすませるとは。いやはや、「議論」のしかたを知らない。もうめちゃくちゃですね。



こんな基本的なことがわからないシロウトさんが、

   「主要部内在型関係節」など寝言です。

というのを見ると、ふる~い表現ですが、「へそが茶を沸かす」ですね。
質問者には、「主要部内在型関係節」というものの意義、あるいはその議論の問題点などわかるはずもありません。


ついでに言っておくと、「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」なる雑文の書き手は、チョムスキーの文章を1ページも読んでいない(いや、目では追ったのかも知れないが、まったく内容をわかっていない)ことが明らかですね。まるっきり、「深層構造」とか「表層構造」とか言う概念がわかっていない。何なんですか、あれは。どこかに発表されたもの?
そもそも文章として、論旨の流れがひどく、「レポート・論文の書き方」の類の本をしっかり勉強したほうがいいですね。
まあ、とにかくまったく取るに足らないもので、あれで「生成文法」を批判したつもりになるとは、いや、世の中広いと感心しました。世の「生成文法批判派」は、もうちょっとましな文章を書きます。


それと、私が[2]で指摘した、「インチキ、デマ」についての言い訳はないのですか?
示しようがないのだから、あんまり期待していませんが。

[3]でしつこく、「の」は名詞でない、といっているのに、 

   であれば、「の」は底名詞であり、その前の節は連【体】節である

と書くのは、要は私の文章を読んでいない、あるいは読めていない、のですね。

[4]の「二つを混同しているのでは?」はどうも当たっていたようですね。

最後の「22名詞修飾節」の件は? これもやはり勘違いだったのでは?

ともかく、自分のまちがい、都合の悪いところは全部ほっかむりの質問者ですからねえ。
こちらもあまり期待していません。
自分の仕事が行き詰まったときに、ほんの気分転換のつもりで軽い文章を書く練習をしているだけですから。

saburoo
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この回答へのお礼

ほぼ、問題が煮詰まってきましたね。

>>質問者の「名詞節」: 「名詞節=連体節+名詞」
こんな「珍説」

珍説以前に日本語、用語の問題だと指摘したのが理解できませんか。

【名詞】節とは名詞を底とする節ということです。

>>疑問視されているこ

だれも疑問視していません。日本語が理解できれば。
何度言えば、判るのでしょうか。

「連体節」=連体修飾節=体言(名詞)が続く節

「名詞修飾節」って、「連体修飾節」のことですよ!?
専門用語を知らないというのは悲しいことですね。

日本語、大丈夫ですか。

>>こんな基本的なことがわからないシロウトさんが、
   「主要部内在型関係節」など寝言です。

ははは!
当方がシロウトなら、回答者はドシロウトですね。
この点は、

疑問文の文末などにつく「のか」「のかな」の「の」の品詞はなんなのでしょう(Ⅲ)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11815239.html

を参照下さい。

>>[3]でしつこく、「の」は名詞でない、といっているのに、 

名詞と助詞の区別もできずに、<「の」は名詞でない>という、論拠、論証を示すのは不可能ですね。
当方は、 No.2/3 で論証済みです。

>>世の「生成文法批判派」は、もうちょっとましな文章を書きます。

お笑いですね。
<「言語」とは、難しく言えば、意味・情報伝達のために人間が築き上げてきた「記号の体系」です。 >
<文法は、文を作るための法、つまり規則のことです。>

こんな寝言をいっているようでは、「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」を理解できるわけがありません。これでは、日本語文法学会 (編集)『日本語文法事典』が文法の定義を載せられない欠陥辞典であるのと同根であることを露呈しています。

まさか、辞典に「文法は、文を作るための法、つまり規則のことです。」などとは恥ずかしくて書けなかったということです。【ウィキペディア】でさえ、こんなお粗末なことは云っていません。

所詮、街の素人文法好事家ということです。

なお、「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」は『現実・弁証法・言語』〔国文社 (1972)〕に収められています。大きな図書館や大学の図書館にはあるのでじっくり味読下さい。もっとも本質的な生成文法批判です。
論理的な文章は苦手のようですね。■

お礼日時:2020/08/09 22:12

No.6の「お礼」から。



少々あほらしくなってきましたが、いちおう続けます。

[1]
     >>この「名詞を底とする節」を「名詞節」と明言している文献があったら
       教えてください。
    下記を参照下さい。
   天野みどり 名詞節か副詞節か―「の節」の名詞性・節性の検討―
    https://www.ninjal.ac.jp/event/specialists/proje

天野みどりがそんなこと書いているのかいな?と思って読んでみましたが、どこにも

   「名詞を底とする節」を「名詞節」と明言している

ところなんぞありませんでした。あたりまえですが。

   1節のまとめと問題点
    「の」節は名詞節(補文)である。

え? これはごく普通の(私の言う)「名詞節」という意味ですが? 「名詞を底とする節」ではない。
天野はこの「の」を名詞だなんて言っていません。「接続助詞的な」と繰り返し言っているように、「の」の名詞性なんて問題にしていません。
名詞性は、「の」の前の述語などを含んで、「全体として」名詞性が認められる、つまり「名詞節」だ、と言っているのです。
やっぱり専門的な議論にはついていけませんか?

     2 「の」節の名詞性の検討
   などを読まれれば諸説が挙げられ、最後に参考文献が掲げられています。
  「名詞節=連体節+名詞」という考え方が学会の常識であるのがお判りになるか
   と思います。

そんなこと、どこにも書いてないじゃないですか。何を読んでいるんですか。
「諸説」つまり大島も、レーバンクーも、その他の人も、

   「名詞節=連体節+名詞」

なんて珍説を唱えていません。「~などを読まれれば」なんてぼんやり書いてますが、具体的にここだ、と言えないでしょう?

まあ、「主要部内在型関係節」などという、いかにも玄人好みの説が出てきていて、シロウトの方にはわかりにくいだろうとは思いますが。
これは黒田成幸(第一流の生成文法学者)の70年代の論文に始まり、レーの博士論文はそれにまっこうから挑戦したいい論文です。
ただ、黒田は日本語の文法性判断にかなり怪しいところがあり、読んでいてかなり無理な議論になっていると私は思いました。レーは、non-native ということもあって、実例をしっかり集め、堅実な論を展開していたように思います。(どちらもン十年前に読んだものなので、記憶はあいまいです。)

まあ、なんにせよ、どちらも、

   「名詞節=連体節+名詞」

なんてことは言っていません。連体節は連体節、名詞節は名詞節。別個のものです。

[2]
      >>「<(底)名詞>の存在しない「連体節」というのはだれが言っている
       のですか?
     もちろん、回答者自身です。

またインチキ、デマですか。
私が書いていないことを、いかにも書いたように書き、その場所は示さない。(示せない)

こういう返答を書くときは、当然その個所を示すもんです。こちらは「書いていない」と言っているのだから、その場所を示さなければ議論になりません。

[3]
   ここで、<「彼が高慢なのは、有名な話だ」における、「彼が高慢なの」など。>
   というのは、「彼が高慢な」を「連体修飾節」と捉え、主語が「彼」、「高慢な」
   を述語と捉え、「の」が名詞なので「彼が高慢なの」を名詞節としているという
   ことです。

「彼が高慢なの」を名詞節としているという結論はいいとして、「「彼が高慢な」を「連体修飾節」と捉え」って、どこに書いてあるんですか?
勝手に、書いてないことを読み込んじゃいけません。

   「の」が名詞なので

「「の」が名詞」だなんて書いてありません。これも勝手な読み込み。

国語辞典の記述を、勝手に自分の解釈で読み、書いてないことをどんどん付け足していく。
これならどんな珍説も自由自在に創作できます。

   つまり、「彼が高慢な」が節ということです。

少しわかってきました。(質問者がどこで間違えているかが)

「彼が高慢な」が節になるのは、その後に名詞が来た場合です。確かに。

しかし、「彼が高慢なのは、有名な話だ」では、「一般の」説では、「の」は名詞でなく、「名詞節を作る」<ナニカ>だと考えます。

この<ナニカ>をどう名付けるかはいろいろです。準体助詞? 補文化辞?
「形式名詞」という人でも、「彼が高慢な」を連体節だという人は、私の知る限りありません。つまり、「形式名詞」と言いながら、「名詞」とは認めていないのでしょう。
そこを批判するのは、正当なのかもしれません。

[4]
    「連体修飾節」と(底)名詞の無い名詞節があったら提示して下さい。

あれ? 話が違いませんか? さっきは、

    <(底)名詞>の存在しない「連体節」

でしたね。今度は「(底)名詞の無い名詞節」ですね。これは別の話です。
もしかして、この二つを混同しているのでは?

私はもちろん、「(底)名詞の無い名詞節」なんて話はしませんよ。
名詞節に「底名詞」なんてそもそもない。「補文化辞」の「の/こと(/ところ)」があるだけです。

以下の、句とか節とか文とかいう話は、まるでずれているので、まあ、シロウトの与太話ですね。

しかし、最後の

   当方は表現を支える話者の認識の構造に基づき節か否かを判断していますが、
   回答者は表現された文字列の形式、構造から判断しているということです。

これは案外「本質」をついているかもしれませんね。

   表現された文字列の形式、構造から判断している

というのは、まさに、「言語学」をやっている、ということになるのだから。

「話者の認識の構造」なる、科学的に検証しようのないものを勝手に想像してあれこれ言うのは、「床屋の政治談議」という古い表現がぴったりですし。(ここがいちばんギロンの分かれるところですが)


ここでやめるつもりでしたが、ついでにもう一つ。
「補足コメント」に新たに付け加えられた部分。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう一例
22 名詞修飾節

花子が借りている太郎の充電器
花子が太郎の充電器を借りている

名詞修飾節とは,述語の終止形が主要部となり,後続する N,PRO,WPRO,Q,NPR を修飾する節であり。 いくつかのコピュラの短縮形や化石化した形式を除いて,述語の終止形は過去・終止形や非過去・終止形と区別することはできない。 名詞修飾節は2種類に分けられる。 第1のグループの名詞修飾節は, 主名詞(修飾される名詞)と同一の格名詞句が節内部で空所(トレース)となっているものである。 言い換えれば,この種の名詞修飾節においては,主名詞に格助詞を付け,格役割を果たす文を復元することが出来る。 この種の名詞修飾節は IP-REL (関係節) とラベル付けされる。 2番目の種類の名詞修飾節は,主名詞が節内部で格役割を果たさないものであり,IP-EMB (空所なし名詞修飾節) とラベル付けされる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これ、まったく内容がわからないまま、どこかからコピーしてきたようですね。

これ、「名詞節」のつもりですか?

「名詞修飾節」って、「連体修飾節」のことですよ!?
専門用語を知らないというのは悲しいことですね。

saburoo
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

いよいよボロが出て来ましたね。

>>名詞性は、「の」の前の述語などを含んで、~、つまり【名詞節】だ、と言っているのです。

「つまり【名詞節】だ」ですよね。これが名詞節ではないのですか。もちん、天野は生成文法を信仰しているので、「名詞節【補文】」などと誤まった解釈をし、「接続助詞的な」と感覚的、意味不明なことを記していますが、「名詞節」であることは認めています。であれば、「の」は底名詞であり、その前の節は連【体】節であるのは論理的必然です。そして、連体節の最後は連体形となっています。
そうでない事例があれば、お得意のコーパスから事例を挙げて下さい。

この日本語文法の持つ論理性を理解できていないところが致命的です。これは、品詞論を持たず、アプリオリな文から出発する逆立ちの論理的必然です。したがって、

>>「の」は名詞でなく、「名詞節を作る」<ナニカ>だと考えます。

という寝言が生まれます。この「の」はお化けですか。何度も云いますが、(底)名詞のない名詞節がありますか。是非、お得意のコーパスから事例を挙げて下さい。

そもそも<連【体】(修飾節)>という用語、日本語が理解できていません。【体(名詞)】に連なるという意味です。一般的な解釈以前の日本語の常識ということです。それが、理解できていません。

>>「名詞節=連体節+名詞」
なんてことは言っていません。連体節は連体節、名詞節は名詞節。別個のものです。

日本語として当然の前提だということです。別個のものであるのは、「名詞節=連体節+名詞」という等式からも当然のことです。

やっぱり専門的、論理的な議論にはついていけませんか?

「主要部内在型関係節」など寝言です。

黒田成幸(第一流の生成文法学者)は、生成文法学者としては一流でも生成文法そのものが非科学的な代物でしかないのは先に、「チョムスキー文法論の逆立ち的性格」で指摘した通りです。いつもながら、世間の誤まった権威に寄りかかるしか能がなく、論理的な思考ができないド素人というに過ぎません。

(もっとも黒田の祖父である数学者、高木貞治の『初等整数論講義』『解析概論』にはお世話になりっぱなしで、連続性の定義が理解できました。この『初等整数論講義』第2版序は成幸の父、成勝が書いています。)

以下、補足へ、

お礼日時:2020/08/07 08:49

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