No.3ベストアンサー
- 回答日時:
> 神をどのようなてだてで知っているのでしょうか?
なんというか、直接の経験のようなものらしいです。
例えば、「私は今生きていることを知っている。信じているのではない。あなたにしても同様でしょう」という表現のとき、どういう手立てで知っていると言われると、かなり返事に窮します。
下のPDFの2ページ目の下に次のように書かれています。
file:///C:/Users/hiroomi/AppData/Local/Temp/6.pdf
ユングは体験知を信仰の上に置く。晩年に行なわれた、BBCのジョン・フリーマンとの有名なインタビューの中で、あなたはいま神を信じていますかと問われて、彼は以下のように述べている。
「今ですか。お答えしにくいですね。私は知っているのです。私には信ずる必要はありません。私は知っているのですから。」
この発言は大きな反響を呼び起こした。それに対して、彼は、この場合の神とは、具体的には自我に対して現われる「上位的な意志」をさしているのであり、そのような体験的現実のことを「万人の同意」において「神」と呼ぶのであると説明している。
それが一般的な神観念に一致しようがしまいが、いずれにしても、ユングにおいては、神は一種の強制としてひとに対して厳然とした現実として現われるものと考えられている。
そのような「神」を体験するという意味で、確かにユングは体験に恵まれていた。たとえば、天空の黄金の玉座に座した神が、おびただしい排便でバーゼルの大聖堂を木っ端微塵に打ち砕くというヴィジョンがそれである。彼はそのヴィジョンを思い浮かべることがすさまじい漬神行為になると思い、何日も抵抗しつづけたのであるが、ついには、自らの主体性を放棄して、神の御手に自らを委ね、純粋な受動性のうちにその思いを抱くこと自体が神の御旨であると感じて、ヴィジョンが浮かぶままにしたのであった。そのようにしたときに、彼はかえって神の臨在と恩寵とを感じた。そして、「神の臨在」が既存の社会制度としての伝統宗教を超えたものであるという確信をもったのである。
後年のユングの見方からいえば、神は存在論的な意味で存在するというよりも、むしろ、個人の心に対してまさしく現に働きかける現実的なものとして与えられている-あるいは与えられる可能性をもっている-というべきであろう。彼は、「働きかけるものは現実的である。Was,das eirkt,ist eirkilich.」と述べている。そして、実際、この「個人の心にとって現実的なこと」、後のユングの用語でいえば、「心的現実」が、その後も一貫して、彼にとって有意味な地平をなしている。 このように、非日常的な経験や、神の直接経験をしていたユングが、心霊現象や超心理現象に対して関心を抱き、それらに傾倒していったとしても不思議ではないであろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
見た、触った、論理で究明した、だれから教わったので「知りました」というケースは多いでしょうが、例えば、「ああ、私は、あの人が好きなんだ、愛してるんだ」と分かったというようなケースの場合、それが初めての知覚であると、その知覚から後は、愛しているは厳然たる事実であって、揺るぎのない心的現実なのでしょう。 行為や証拠の品々を並べて立証するものでもないのでしょう。 心霊現象や超心理現象ではないことでも、 ごく日常的に、私が勝った、私は負けたのように強く実感してしまう人を見かけることがありますが、本人にとってそのときは、まさにそれが厳然たる事実であることが分かっているのです。 測定したことや得点差や審判の評点などで知るのではなく、明確に確信できてしまう。 「信」の文字は入っていルけれど、いわゆる信じているというのではないです。 幻聴、幻覚、妄想と呼ぶこととの間に現象的に言えば明確な境界はないです。
http://rinnsyou.com/archives/200
宗教の悟りのようなもの、神の啓示というのも、そうしたモノでしょう。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmbs/10/2/1 …
この下のPDFの4ページ目には、分裂病と見まがう状態に陥っていたと書かれていますが、結構有名なお話です。
file:///C:/Users/hiroomi/AppData/Local/Temp/%E6%BF%B1%E7%A0%82%E7%9C%9F%E7%90%86.pdf
早速の御回答ありがとうございました。
ユングについては、心理学をかじっていた際、少しは知っていたのですが、その後の生き方について存じませんでした。
この質問は、「信じているのではなく、知っているのだ」という強烈な考え方にたきつけられ、うまれました。
<私は知っているのです。私には信ずる必要はありません。私は知っているのですから。>ですね。
<個人の心に対してまさしく現に働きかける現実的なものとして与えられている-あるいは与えられる可能性をもっている>。これが、知っていることにつながるのでしょうか。
いずれにせよ、私のような凡人には縁の遠い話になってきましたね。
強烈な人生ですね。
No.5
- 回答日時:
よこから失礼します。
> 知るなんていうのは、かなり対等の関係でではないか。ただ信じてひれ伏すだけでよい、と思っています。(私の考えの方が、僭越かもしれません)
男を知っている、女をしらない、などの場合、経験済み、未経験というような意味でも使います。
藤井将太、知ってるよ、最年少2冠達成だって、などの場合、ニュースを見たというような意味でも使います。
ヤーヴェ、エホバ、神のことだろ、知ってるよ、などの場合、呼称の知識を持っているの意味でしょう。
「神を知っている」「神なんて知らない」というのがおかしい表現だとは思いません。
「(神については) ただ信じてひれ伏すだけでよい、と思っています」
ずいぶんと、極端な信念であるように思います。
自分自信が「(神に)信じてひれ伏すだけでよい」と思うのは、ありかもしれませんが、他人にまで「(神に)信じてひれ伏すだけでよい」と思うのは行き過ぎだと思います。
それに、ユダヤ教徒であろうが、カトリックだろうが、ムスリムだろうが、プロテスタントだろうが、「(神に)信じてひれ伏すだけでよい」と思う人はとても希だと思います。 ユダヤ教徒でも、ムスリムでも、プロテスタントでも、自分の義務に関してもっと多くの強い意識を持っていると思います。 カトリックでも、たぶん、教皇や教会に対しての態度を持っているでしょうし、聖書主義、福音派でも多くの義務を果たすべきだと思っていると思います。
No.4
- 回答日時:
蛇足です。
蛇足だから、そのつもりで読んでください。> <個人の心に対してまさしく現に働きかける現実的なものとして与えられている-あるいは与えられる可能性をもっている>。これが、知っていることにつながるのでしょうか。
> いずれにせよ、私のような凡人には縁の遠い話になってきましたね。
> 強烈な人生ですね。
例えば、「私は凡人だ」というのは、どのような認識のスタイル?だと思いますか。 信じているのでしょうか、知っているのでしょうか、あるいは、誰かに教わった知識でしょうか、推考を重ねて得た結論でしょうか。 結構、{「私は凡人だ」と知っている}というケースが多いように思います。
「悪魔を信じることは出来ますがね」「ではなぜ神を信じないのですか」 この文の「信じる」
「僕は彼がきっと来ると固く信じている」「彼女の成功を信じてる」 この文の「信じる」
「もうあなたなんて信じられない」「お前を信じるよ」 この文の「信じる」
「光の粒子説、波動説、粒子と波動の二重性を持つ量子説、どれを信じる」 この文の「信じる」
「今日は2020年8月20日で、ここは日本だと知っているし、あの世ではなく現実世界だと知っている」
「いい男からアプローチはないものかと期待しがちの23歳の女だと、自分で知っている」
「結局、この世は金なんだと、私は知ってる」「私は 勝ち組だと分かっている(知っている)」
「ほぼ2ヶ月、配列計算に取り組んできて、昨日、パッと分かった」
神、悪魔などの言葉を、京都・沖縄・パリ・ローマなどの地名、映画や絵画・音楽などの芸術作品名、特定の個人名、思想や宗教名、政治体制名、経済社会の用語、愛や憎・悲・喜・怒などの感情に関わる抽象概念の言葉、結婚・死別・出産・出会い・解雇・失業・無宿生活・重病発症発覚などのイベントを表す言葉などに置き換えて、《個人の心に対して現にまさしく働きかける現実的なものとして与えられる可能性をもっている》のかを考えると、《個人の心に対して現にまさしく働きかける現実的なものとして与えられる》ことは、多くの人が自分で経験したり、身の回りの人にも普通に起きることのように思います。
程度問題はあるし、強烈ではない場合もあるかもしれませんが、そこそこの強い感じをもって、個人の心に直接まさにガンガンと現実のものとして現れることは、凡人にもあると思います。
神の存在と限定するから、「私には縁がない」「私ら凡人にはない、強烈な人生」というように思えるだけだと思います。
世の中には、不安障害を抱えて生活に支障が出ている人がいます。 病名がついて治療せざるをえないというほどでもないかが、なんどか、{「~~じゃないか」でもう不安になっちゃって}という経験をしたことのある人は多いと思います。 そのときには、《個人の心に対して現にまさしく働きかける現実的なものとして与えられている》のだと思います。
再度の御回答ありがとうございます。
知るということは、<程度問題はあるし、強烈ではない場合もあるかもしれませんが、そこそこの強い感じをもって、個人の心に直接まさにガンガンと現実のものとして現れること>と捉えれば、一応妥当なのでしょう。
しかし、「私は信じているのではなく、知っているのだ」には違和感があります。近所のおっさんならともかく、神という無限のようなものを知ることができるのか、という疑問です。知るなんていうのは、かなり対等の関係でではないか。ただ信じてひれ伏すだけでよい、と思っています。(私の考えの方が、僭越かもしれません)
No.2
- 回答日時:
存在を実感したんでしょう。
アポロ15号で月に着陸したジム・アーウィン(1930~91)は、
月面で「神の臨在」を実感したと語る。
姿を見たわけではなく、声を聞いたわけでもないが、
確かにそこにいるのがわかったという。
アーウィンはその後、キリスト教系の伝道師となった。
ジーン・サーナン(1934~2017)は、ジェミニ9号で地球を、
アポロ10号で月を周回、
そしてアポロ17号で月面を探検した。
そしてサーナンもまた、神の存在を認識したと語る。
早速の御回答ありがとうございました。
<存在を実感>なのですね。
ただし、凡人の私にとっては、この<存在を実感>が分かりずらいです。
それで、何とか、知るとか感じるとかに助けを求めたくなります。
なお、この2名の宇宙士からみで、投稿を考えていますので、その際にも高説を御披露願います。
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