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福知山を明智光秀が平定したのが1579年、本能寺の変が1582年、わずか3年。
福知山城の城代は、明智秀満(明智光秀の家臣)。

明智光秀のゆかりの地とも浅く、なぜ自分達の殿様(塩見家)ではなく、明智光秀なのか謎が多い。

A 回答 (1件)

丹波国は京都に近いのに、細川、山名、その他が守護大名に任命されてはいたが、丹波を巡っての、


争いが絶えず、任地に赴いて行政を行った事が無く、守護大名がいないも同然の状態でした。
丹波の豪族達が勝手に支配して税金などを長い事、取り立てていました。

明智光秀は、亀岡と福知山に城を築き街造りをしました、更に河川の治水改修工事をして、
洪水を無くし、農業を安心して出来るようにして、福知山の基礎を作りました。
税金を取るばっかしの丹波の支配者だけの処に、明智光秀が来て、街造りをしてくれたのですから、
地元の人が感謝しますよね。
知識豊富な学者武将だったから、出来た事です。

心血を注ぎ、これから丹波を良くしようと考えていた矢先に、丹波を召し上げられた事が、
信長殺しの大きな要因の一つと、考えています。

宿敵武田家を滅ぼして、油断の心が生まれ、信長は家督を譲った信忠と少ない兵で、京都に、
一緒に、滞在するという大きな過ちをしました。
信長が京都で信忠が安土に滞在であったならば、本能寺の変は起こらなかった?たらればです。

この事を学習した家康は関ケ原の戦いで、秀忠を信州廻りで進軍させ、わざと真田に
チョッカイを出させ、合戦に遅らせたのだと考えられませんか。
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