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比叡山の焼き討ち当時、比叡山の僧侶は酒や女に溺れてやりたい放題だった。当時、ご法度だったからだ。焼き討ちされて、僧侶の女、子供は殺された。
冷酷にそれやり遂げたのは、明智光秀でした。

そのことでなんですが、
明智光秀の子供は僧侶になって、ずっと僧侶だったのに、明智光秀の子孫と名乗る人が出てきてるじゃないですか?

なんか、矛盾してませんか?

A 回答 (6件)

>  明智光秀の子供は僧侶になって、ずっと僧侶だったのに



どこから持ってきましたか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA …

> 明智光秀の子孫と名乗る人が出てきてるじゃないですか?

自称 ご落胤、5世孫と称されていることは、子孫であることを示してないし、子孫でないことも立証は困難です。

あるとき某が、不正を正すと攻撃し、打倒し、自らが権力を握って、しかる後、他人からみれば、某が不正を行っている状況になることなど珍しくもないです。

「俺は君だけを愛する、一生愛する」と言って、しばらく後には、もう気移りするなどは、矛盾ではなく、自然な成り行きの一形態です。

時間経過とは関係なく、そのこと自体が並立しえないようなことでなければ、矛盾とは言えません。
見方、視点、尺度によって、変わるようなことも、正義と悪徳と言っても、矛盾にはなりません。
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本当に明智光秀の子孫かどうかは別にして「僧侶に子孫がいる」と言うのは不思議な事ではないので、別に矛盾でも何でもないと思います。

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当時の比叡山は修行の場だけでなく、戦で田畑を無くしたり、親兄弟を無くしたり、といった難民たちを匿って生活させていました。


彼らは僧侶でないですし、延暦寺とも縁もない人もいましたから、肉を食べ、姦淫し、酒を飲むのは当たり前です。

また、悲惨な戦乱を苦にして出家する男女も多くいたでしょうし、戦災孤児の中から仏道を目指そうと考える者もいたでしょう。

国家による福祉が成立していない時代、それらは宗教施設が担っていました。
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明智光秀の三女は有名な細川ガラシャです。


 ガラシャには細川忠興との間に数人子どもを産んでいます。その中の一人は熊本藩の藩主になっています。
 光秀の子孫がいたとしてもおかしくありません。
「比叡山の焼き討ちと僧侶の子孫、矛盾してま」の回答画像3
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>ずっと僧侶だったのに、


だから子孫はいるはずがない。ということですかね。
妻帯の僧侶もいたと思うのですが、どうですか。

ところで
>比叡山の僧侶は酒や女に溺れてやりたい放題だった。当時、ご法度だったからだ。
だから焼き討ちされた、というのはいかがなものですかね。
当時の社会・政治情勢において、比叡山の立場はどのような者であったか、反信長派の急先鋒ではなかったですか。
それと、光秀が焼き討ちしたのは比叡山全山ではなく、反信長派の僧兵たちの根城であったと思うのですがいかがですか。
比叡山根本中堂の改修がなされていますが、そこには焼けた形跡はないなどと聞いたこともあります。
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光秀に、実際何人の子供がいたのかは不明です。


したがって、その系譜で子孫と名乗る人が出てきてもおかしくないでしょう。
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