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よく呪いとか天罰とかあります。
考古学者が昔の王の墓を発掘したりするとみな次々と原因不明で死んでいく、神社の建物に小便をかけたりすると罰があたって良くないことが起きる、などあります。これって科学では解明できない何かがあるような気がします。皆さんはどう思いますか?

A 回答 (6件)

> 考古学者が昔の王の墓を発掘したりすると,みな次々と原因不明で死んでいく


> 神社の建物に小便をかけたりすると,罰があたって良くないことが起きる
> などあります。これって科学では解明できない何かがあるような気がします。

「科学」という言葉になにを思っているのかがちょっと分かりませんが、
2020年9月に発生し日本に接近後に朝鮮半島に上陸した台風10号は、"一時は大型で非常に強い台風となった"ことから、過去最強クラスと言われ、特別警報の発表も予想されました。 しかし実際に日本に接近した際には、予想よりも勢力が落ち、特別警報の発表も結局は見送られました。
科学で「先を確実に見通す」ことは出来ません。
今日、自動車運転して温泉に宿泊し明日帰るつもりで出発しても、交通事故に遭ったり、集団中毒になったりして入院する羽目になり、3日間病院暮らしということもあります。 もちろん、途中で高速が閉鎖になっていて止むなく予定外の場所で緊急宿泊したらそこがステキでこれ以上ないくらいに良い経験をするということもあり得ます。

条件をきちんとコントロール出来ないのであれば、科学では、何が起き、何が起きないのかをいうことは出来ません。

"次々と原因不明で死んだ"でも、調査が可能ならば、科学で原因を絞り込むことは出来ます。
"良くないことが起きた"のままでは、調べようがないです。 何が起きたのか、そのことを明確にして調査することが可能ならば、科学で原因を絞り込むことは出来ます。

"昔の王の墓を発掘したりするとみな" というのが、ただの誤解でしょう。
"神社の建物に小便をかけたりすると" などが、ただの誤解でしょう。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
"罰があたって"に至っては、なんと言いましょうかねぇ……

こんなのがありました。 
https://hasunoha.jp/questions/1475
Q:「罰があたったんだ」とか「罰があたる」と言う言葉がありますが、仏教ではこれはどういう概念になるのでしょうか?
A: 原因と結果 因果の法則をライトに言ったもの
これ(A)をしたり、しなかったりすれば、それ(A)が原因となって、その後に、ところどころに間接的にアレ(B)が縁(はたらき・効果)として作用し、やがて結果(C)として、望ましくない悪い事「それ」がおとずれるということを、罰が当たった、というだけです。
正式な仏教の教理・考えというより、後天的に生まれた仏教の思想が、民間・家訓レベルでライトなものとして広まっただけです。
事故などは本人の作り出したことではありませんから、罰でも何でもありませんからご安心ください。
人が悪い事をして苦しまないように道徳・倫理を説いた仏教の言葉遊び的なものです。
ですが、バチは因果の法則としてみれば、ちゃんとあります。
良くも悪くも結果がそうなる、ということです。
悪いことをする、悪い言葉を話す、悪いことを想うだけでも、ちゃんと因果の法則にのっとったバチ(結果)はあるといえます。
罰が当たるよ=「今後よくないことにつながると、愛するあなたの為に良くないから、今後はそれは絶対にしない方がいいよ」という愛情の言葉として捉えてみましょう。
https://www.ookuninomiya.com/%E5%8F%A4%E7%A5%9E% …
悪いことをすると「バチが当たる」とよく言われます。しかし神道的にいうならば、神罰が下るということはありません。なぜなら人間の行いに直接罰を下すという狭い了見をお持ちの神様は日本にはいないからです。では悪事や不正を行う者には、どんなお咎めがあるのかというと、それは「祟る」(たたる)というお諭が下されるのです。
「祟る」という言葉は本来、呪われるという意味ではなく、守ってくれる神がいなくなる状態のことをいいます。
「祟る」と似ている字に「崇める」(あがめる)という字がありますが、意味は全く違う字です。
「示」という字を使っているところが共通していますが、「示」は神を意味し、山の上に祠(ほこら)を建てて敬うというのが「崇める」で、「祟る」とは神が出る、つまり守護神が出て行ってしまった状態を表しています。守るべき神が愛想を尽かし出て行ってしまったのですから、もはやその人の守りは消え失せ、病気になれば重い病となって苦しみ、事故に遭えばまともに衝撃を受け、不幸のどん底に落ち入ってしまうということになりかねません。
 九死に一生を得るとか、患者が死の淵から生還するなどという奇蹟は起きないのです。つまり人は、どれだけ自分をまもってくれるものがいるのか、どれだけ守護神にお守り頂いているのか、どのような守護霊がついておられるかで、幸不幸の人生あるいは生きるか死ぬかの瀬戸際が決まるのです。私たちが神に祈ったり、ご先祖さまのご供養をするということは、この守護神・守護霊のパワーアップとお守り下さる約束を戴くということでもあるのです。
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何か他人の行為を非難がましい視線でいうとき、"罰があたった"という慣用句を使用しているだけのことですよね。
もちろん自分の行為について理解納得する(例:受験で不合格=勉強せず遊んでいたからバチがあたった)というときにもこの慣用句は使えます。
"罰(バチ)があたった"はただの慣用句であって、"罰(バチ)"という物体が衝突したことをいっているのではないのです。 もちろん"神仏から下される罰(バチ)"として理解納得し、"神仏から下される罰(バチ)を甘んじて受ける"という心的スタンスはあるのでしょう。 そうでなければ、このような慣用句は伝承されません。
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考古学者が昔の王の墓を発掘したりするとみな


次々と原因不明で死んでいく、
 ↑
これ、NHKでやっていましたね。
調べてみたら、全然でたらめだった。



神社の建物に小便をかけたりすると罰があたって良くないことが起きる、
  ↑
実際に起こったことがあるんですかね。
人生良いことも悪いこともあります。
悪いことがあったとき、小便を思い出して
結びつけるだけでしょう。



などあります。これって科学では解明できない何かがあるような気がします。
皆さんはどう思いますか?
 ↑
心理学で解明できると
思います。
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神社に小便!警察に捕まる、人に迷惑を掛けたらだめってこと、万引きをしたら両親が咎める、良心の問題、王の墓の場合は悪性のカビ。

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例題は「墓を荒らしてはいけない」「公共物を汚してはいけない」といった道徳心・公共心に関する逆説的な警句かもしれません。



科学で解明できないものはあるでしょう。

しかし、明治・大正時代に、呪いだの天罰だの占いだの妖怪だのといった迷信と、生涯をかけて戦った哲学者井上円了は、数多くの迷信を科学的・実証的に解明し、迷信に惑わされる人々に「恐れるのではなく、自分の頭でどういうことなのか考えましょう」と説いています。

その彼でも、解明できないものはあるとし、その解明できないものが解明されれば宇宙の神秘に触れることになる。と述べています。
井上円了は、科学で解明できない謎を「真怪」と名付けました。本当の怪奇現象という意味ですね。彼にとっての本当の怪奇現象とは、いわゆる迷信的な超常現象みたいな「怪奇」ではなく、「心地よいそよ風」であったり「夜空に浮かぶ美しく輝く月」といった日常的な何気ない自然現象であったようです。真の謎は、ありふれて日常的すぎるため、特に何も考えることなく過ごしてしまう事象の中にこそ潜んでいるということでしょうか。
何故そよ風が心地よいのか、どうして月はあれほどまでに美しく感じるのか、確かに私も答えられません。現代の専門家ならそれらしい回答を導き出せるかもしれませんが、どこまでそれが正しいのか判断が難しそうです。
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ツタンカーメンのときに発掘を主導した考古学者のハワード・カーターは、その後も生き続けてましたね。

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>皆さんはどう思いますか?



 具体的に事例をあげてもらいますか?

・考古学者が昔の王の墓を発掘したりするとみな次々と原因不明で死んでいく

 「ツタンカーメン」の呪いの事?

 発掘スポンサーのカーナヴォン卿は、
髭を剃っていた時に誤って蚊に刺された跡を傷つけ、
そこから熱病に感染し、肺炎を併発したことが死因

・神社の建物に小便をかけたりすると罰があたって良くないことが起きる

 「良くない事」とは?
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