「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

終戦直後のパリで多くの女性が大衆の面前で丸坊主にされていました。このアーカイブ画像ではナチへの協力者への罰みたいな事が書かれていました。パリで女性がナチの協力って何ですか?協力できることはそんなにないと思いますが、、スパイならあんな多くいないと思いますし、、

A 回答 (8件)

フランスでは1944年夏の「解放期」に「性的な対独協力(collaboration sexuelle)」をしたフランス人女性に対して、大規模に丸刈りが行なわれた。


フランスがドイツの占領から脱しようとする時、フランス国内はまさに市民戦争であった。占領中の立場や経験によって、迎えた解放の意味は異なった。フランス解放の写真や映像からは、多くの市民は解放の喜びに包まれていたことがよく分かる。だが同時に、これとは対照的な暗い面もあった。ドイツに協力した人物に対する処刑や復讐的リンチ、つまり「無法な粛清(épuration sauvage)」が行われたのである。
解放の混乱に乗じて蜂起した、にわかレジスタンスとも言える人々で構成される軍
法会議(cours martiales)や緊急軍法会議(tribunaux militaries d’urgence)なるものの判決により、およそ1万人が処刑された。処刑された人々には無実の人々や対独協力者としては小物であった人々も少なくなかった。略奪や行き過ぎた暴行も相当な規模であった。丸刈りは、このような「法の外(extra-judiciaire)」で行われた粛清の一つであった。ただし、丸刈りの一部の被害者は、後で述べるように、丸刈りの後に正規の粛清裁判にかけられ、男と同じように刑に服した。
占領下フランスからは、かなりのフランス人男性が、外国人労働者としてドイツへ
行って就労しており、家を長期間留守にしていた。特に1943年の強制労働徴用(STO)の開始により、フランスを後にしなければならない男性はさらに数を増した。フランスに残った女性たち、特に戦争捕虜の妻たちは、家の外で仕事をして家族を養う必要があった。自活の手段を探す未婚の女性たちもいた。占領軍としてやってきたドイツ軍は、このような女性に雇用の機会を与えた。仕事は容易なものでなかったかもしれないが、彼女らは外で仕事をするようになり、新しい価値を見出したかもしれない。
他方、フランスに留まっている男性たちはドイツ軍の元で自活した女性たちに、優
越性を保つことができないでいた。ドイツ人のところで働いているだけでなく、より親密な関係になったフランス人女性を見ることは、面白くはなかった。フランス解放の時、フランス人男性は占領下での鬱屈を晴らすために、ドイツ軍兵士でなく、ずっと弱い女性たちに暴力の矛先を向けたのであった。
フランス解放時に集中して、およそ2万人の女性の髪が切られた。これには、、県庁、市庁舎、警察、広場、学校、大通りなどの公共の空間が広く利用された。それらは、公的な権力の所在地であり、歴史が刻印された場所であり、市民の集う空間であった。丸刈りは地下から出てきたばかりのレジスタンス活動家とドイツ占領からの解放に湧く民衆との邂逅の機会であったとされる。
ブルターニュ地方では、丸刈りの実行者の80%はフランス国内軍(FFI)、地方解放
委員会(CLL)、国民戦線(FN)などの「レジスタンス活動家とそれに同化した人たち(résistants et assimilés)」であった。丸刈りを撮影した写真からは、女の傍らにいる男たちが何者なのかは明確には分からない。彼らは軍人や警察のような制服を着ていたり、普段着に腕章だけ腕に巻いていたり、制服も腕章も身に着けていないが武器を持っていたりする。また、現場に群がった民衆は、実際に手を下す者たちを大いに煽ったと思われる。自称レジスタンス活動家たちは権威を誇示したがり、民衆は一刻も早く対独協力者たちに仕打ちを加えたいと思っていた。後に続く閉鎖的な法廷とは違い、丸刈りは民衆も参加しやすい粛清の場であった。
パリでは、丸刈りの女性が写っている写真はいくつも残っているが、場所を特定で
きない記録が多い。だが、路上や公的な建物の中が、丸刈りの舞台として利用されたの
は確かである。例えば、エマニュエル・ダスティエが見た光景である。彼は、ドイツ占領中はレジスタンスの組織化に国内外で尽力した人物である。戦後は国会議員として活躍しつつも、レジスタンス時代に地下新聞として出発した『リベラシオン
(Libération)』(1941年から1964年発行)の編集を続けた。議員引退後もジャーナリストとして活動した。彼は解放の混乱の最中、パリ7区の官庁街グルネル通りからバック通りに掛けての出来事を目撃した。
25日金曜日。ある女性が連れてこられて、髪を刈られた。人々は叫び声を上げていた。グルネル通りには区役所を守るために大きなバリケードが出来ていた。4人の髪を刈られた女性からなる列(かなり醜い)がバック通りに向っていた。群集は次第に増えてきて、大声を上げていた。女性の一人がバック通りで逃げようとしたため、捕らえられ、引っ叩かれ、罵倒された。群衆は非人間的だ。この不幸な女性は腰まで服を脱がされ、バック通り102番地の前で跪いた。FFIの一人が彼女を裁くために銃を向け、彼女に謝るように要求した。彼女は上半身裸で跪いたままだった。彼女は窓から銃を発射して3人のフランス人を殺したらしい。荒れ狂った群衆を前にどうすればよいのだろう。彼女は処刑されるのだろうか。いいや、そうではなかった。フランス人の将校が現れ、彼女を監獄に連れて行くべきだと言った。不幸な女性はいまだに
跪いていた。上半身裸のまま。そして口を開いた。「許して下さい。もうしませんから。」目には涙を浮かべてはいなかったが、意識はないようであった。恐れおののいているというより、錯乱しているようだった。この何もかもが卑劣であった。無害に見えた群衆が人殺しをも厭わないほど乱暴な人たちになってしまった。私はおそろしくなった。
「対独協力者を丸刈りにせよ」という命令が全国規模で下さたわけではないにもか
かわらず、どうやってフランスの端から端まで、大きな町から小さな村まで広範に伝播したのかという疑問が湧く。解放された町から町へと順に噂が広がったのだろうか。「民俗的伝統」が発露したのだろうか。ある歴史家は、丸刈りに言及したラジオ放送が流されたことが、全国規模でこれが知られる契機になったとほのめかしている 。これは、サンデー・エクスプレスの記者がノジャン・ル・ロトゥルーの市庁舎前の共和国広場で盛大に行われた丸刈りを取材したものだった。そこには3000人もの人々が、20歳から60歳までの16人の女性を取り囲むように集まっていた。彼女らは順々に椅子に座らされ、鋏とバリカンで武装した理髪師に髪を切られるがままになったのだった。だが、この放送以前にも丸刈りはいくつも発生しており、この放送の実際の影響力には疑問が残る。
丸刈り現象はフランス解放の時に起こったとされてきたが、1943年6月から1946年
5月までの約3年間に及んで丸刈りがおきており、この間に2万人の女性が丸刈りを被ったとされている。占領中が6.6%、解放の日々が67.6%、解放後3ヶ月以内が16.4%、解放後3ヶ月以降が9.4%であった。もちろんフランスの大半の地域が解放を迎えた1944年夏から秋にかけて、圧倒的に集中しているが、3年という期間に件数の差はあるにしても継続的に丸刈りが起きていることは注意すべきことである。時期によって、実行の場所や性格も変化した。特に解放前の丸刈りは、当局に見つからないように、人目につかない場所や女性の家の中で、非公開の私刑として行なわれていた。
戦後、女性たちが丸刈りにされたのはドイツ人と性的関係を持ったためであったと
半ば神話化された形で語り継がれてきた。外国の軍隊による占領という状況下で、日
常的に恐怖にさらされながら生活せねばならなかった人々を尻目に、ドイツ人軍人と親しくなることで、後ろ盾を得て、物質的豊かさを享受した女性たちだとされてきた。或いは、若さゆえにドイツ人兵士と純粋に恋に落ちた女性たちだとも考えられてきた。経済的動機からの協力や密告行為など男性と同じように対独協力をした女性も、一様にドイツ人の恋人や愛人とされた。ドイツ人と性的関係を持ったフランス人女性全てが丸刈りにされたのではないし、丸刈りにされた女性全てがドイツ人の恋人だったわけでもない。それでは、実際には、どのような人が丸刈りにされたのだろうか。
10代半ばから60代まで、様々な年齢の女性が丸刈りの対象となったが、特に高い
割合だったのは、10代後半から20代後半の年齢層であった。丸刈りにされた女性の既婚率は35.5%であり、フランス全体の55.2%という数字を下回っている。結婚している女性でも、戦争捕虜としてか、強制労働の枠、あるいは、自由意志で夫がドイツで就労している可能性もあった。このことを考慮すると、髪の毛を刈られた女性たちは、フランスで男性と同居していない女性たちが多かったと言える。
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この回答へのお礼

詳細に説明していただき非常に勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2020/09/24 12:47

ナチスに協力したからですよ。

負ければ賊ですからナチスも負けたので賊になりましたね。勝ってれば世界の覇権を握ってましたね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2020/09/26 16:21

以下は「フランス 終戦 女性 坊主」での検索結果の上位5件です。



https://zilgg.blogspot.com/2018/05/blog-post.html

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA …


要約:私は自分で調べる努力をしていません。
   または、検索ワードを考える程度の知能すらありません。
※添付画像が削除されました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2020/09/24 12:48

ナチ協力者と見なされたのです。

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この回答へのお礼

わかりました。

お礼日時:2020/09/24 12:41

ドイツ人相手に商売していた女性もいましたし、単に恋愛関係になっただけの人も同様にリンチに遭いました。


協力というのは実態のないことで、「敵兵とねんごろだ」ということが民衆のフラストレーションのはけ口になりました。
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この回答へのお礼

なるほどですね。

お礼日時:2020/09/24 12:41

当時フランス国内では、占領ドイツ軍へのレジスタンス活動が活発だった


通信線の破壊とか輸送経路の妨害とか
そういうレジスタンス活動に関する密告もあれば

単純に売春婦としてドイツ軍将兵の相手をして
良いものを着て、良いものを食べて、優雅な生活を送っていた
そういう人々への反感も多かったようだよ
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この回答へのお礼

パリは平穏に占領されていたのですね。

お礼日時:2020/09/24 12:41

パリはドイツに占領されていて、ドイツ将校になびいていたフランスの女性が



沢山いたから。
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この回答へのお礼

日本で言うパンパンですかね。。

お礼日時:2020/09/24 12:40

ユダヤ人の密告では?

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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2020/09/24 12:40

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