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謀反を起こした明智光秀を保守だと言ってる方がいますが、どう思われますか?
理由は、織田信長は革新だったため保守に滅ぼされたという事らしいのです。

しかし織田信長は、朝廷や帝を蔑ろにするなと足利将軍に忠告していた。そもそも足利家は帝を裏切り、帝に刃を向け脅して、征夷大将軍の椅子を得た人物。帝や朝廷を大切にする家系とは思えません。
明智光秀は足利将軍の足軽衆していたという説もあります。
しかし名簿には明智という苗字しか書いてなく、光秀本人か定かではありませんし、そもそも彼は後に明智姓を名乗りだし、それまで苗字すらなかった。

A 回答 (3件)

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殺るか、殺られるかの弱肉強食の戦国時代に、保守だの革新だの、現代の
政治イデオロギーを持ち込むなんて、馬鹿げた議論です。
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>そもそも足利家は帝を裏切り、帝に刃を向け脅して、征夷大将軍の椅子を
得た人物。
これは、認識が違いますね、明治維新の時に、天皇を絶対権力者に、仕立てる
為に作る挙げた事です。
足利尊氏は鎌倉幕府を倒して、後醍醐天皇に朝廷に権力を献上しました。
後醍醐天皇は貴族の為の政策をして、平安時代の制度に戻して、幕府を
倒した武士団には殆ど恩賞を与えませんでした、当然、武士団は不満爆発
して戦になり、この時は足利尊氏は負けて九州に落ち延びました。
この時に天皇側に付いた武士団が気付いたのです、足利尊氏は我々、武士団の
為に戦った事を!そして九州に落ち延びる足利尊氏の跡を追って行きました。

程なくして大軍を擁して京に向かい進軍して来ました、勝敗は明らかです。
勝利後、鎌倉時代の武士の為の施策を行ったのは当然の成り行きです。
源頼朝が貴族の世から武士の世にした、世の中の流れを逆流させようと、
した後醍醐天皇が世の流れを見誤ったのです。

足利市の人々は、明治以来、ず~と、肩身の狭い思いをしてました。
大河ドラマの「太平記」が始まるまで、この思いは続いてました。
この、「太平記」の脚本を書いたのが池端俊策さんで、今回の
「麒麟がくる」の脚本を書いてます。
主君殺しの明智光秀を、どの様に描いて、本能寺の変をどう、
書き挙げるのか、物凄く楽しみです。
池端俊策さん脚本の「真田太平記」も見どころ満載で、面白かったです。
興味が有りましたら、是非とも御覧くださいませ。
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「保守」「革新」と言う表現が妥当かどうかはかなり疑問ですが、織田信長が社会を急激に変えようとしたのに対して明智光秀が社会を徐々により良い方向に変えて行こうとしていたそうですから、その見方が正しいとすれば「織田信長が革新、明智光秀が保守」と言う見方もあながち的外れとは言えない気はします。

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現代(もしくは近代)の政治体制の 保守/革新 の区別を 戦国時代の武将の区別に使おうという事自体が間違ってます。

 当時じゃあ 資本主義も社会主義もないのですから。

本能寺の変 の原因はそんな単純なものではなく、いろいろな要素が入り込んでいると思います。
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