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古代のことで少し疑問に思ったことがあります。
戦国時代では大名に人質を出したり娘を差し出していたりしていたようですが、古代の日本と朝鮮でも人質を出したり王族の娘を交換するようなことはありましたか?

A 回答 (4件)

詳しくは知りませんが、  (← 大事なポイントです)



「人質」について、「史記抄」(「史記」注釈書で室町中期の文明9年(1477)(戦国時代が始まる直前)に当時の日本語の口語で注釈したもの)に、『人質をとりやう心は、こちがわるうあたらば此人をそちで殺さしめと云てをくぞ』と書いてあるそうです。
多くの場合は、あちこちの有力勢力に同盟・不可侵の約束をして、その同盟の証として、たくさんいる男の子の一人と部下を付けて代表団のような形で身柄を預けていたようです。 妻や母や娘を人質にする例もあったでしょうが、ほとんどは、長成すれば武将か後継者になる可能性がある子を人質にしたようです。
婚姻関係をつくって、同盟・提携関係を強化するというような場合は、娘を出すというようなことは、もちろんたくさんあったでしょうが、それは、普通は人質とはいわないと思います。 「嫁す」は中国の漢字で「女が生家を出て、他家にゆく」の意味であって、基本的に生家に戻ることは期待されてないのです。 もちろん姻族としての関係は続くのですから、ただの同盟以上のつながりの強さは期待できます。 同盟が崩れることは危険な事態であると思っている場合には、もっとしっかりとした関係形成とそのための担保・質を必要と考えたでしょう。 同盟や不可侵の担保・質としては、娘の価値は低くて、成長すればそれなりの後継者候補の一人となる可能性の高い男の方が価値は高かったでしょう。

中国・朝鮮の王権と、日本の王権の人質 (詳しくは知りませんが←大事なポイント)

日本は島国です。 
攻め込まれるという危険性を強くは感じていなかったのではないかと思います。
中国も朝鮮も陸続きで広大で、王権争奪だけでなく、諸勢力が勢力と版図を張り合っている歴史が長いです。 
朝鮮の勢力は、朝鮮の内部の争いだけでなく、中国大陸の山東省や内陸の勢力と中国東北部の勢力と興亡を掛けた争いを頻繁にやっていました。 同盟を結ぶことにも関心は強くて、百済などの弱小王権は、日本の王権の支援協力を強く期待していましたから、日本に男の子の人質を出していました。その上、いろいろの財物を日本の王権に提供してました。
一方、日本は、ほとんど攻め込まれた記憶・経験がなくて、朝鮮半島の利権や百済の存亡にこだわって、日本から派兵し、大敗して(白村江の戦い)、中国・朝鮮の軍事的脅威を初めて経験したのです。そのとき、初めて防衛体制を構築したくらいです。
その後も、平穏にときは流れました。 鎌倉時代に、中国・朝鮮軍に攻められましたが、結果、たいした戦闘にはならずに終わってしまい、「王権間で平和を保つために同盟関係を造り、人質を送り込む」というよりも、「鎖国・防壁で遮断する」という従来の路線で思考し続けたために、日本の王朝から人質を出すという発想は、思いつかなかったのだと思います。 朝鮮や中国の王朝にしても、「日本から攻め込まれる危険を除き安全保障のために日本から人質を出せ」というような思考はしなかったでしょう。

日本と朝鮮・中国の関係は、財物・資源の交易と、名目上の政権正統性の承認だけだったのだと思います。 ( 明治以降に、国際関係の認識が変わります )
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中国は隋・唐の時代で、日本は大和政権の日本統一後になりますが、中国への人質と日本への人質は全く違う意味になると思います。



この時代の軍事力や文化・文明力を比較すると、中国>>朝鮮半島>日本と考えるのが科学的です。
そうすると、百済は学ぶべきものがない日本に王族の息子をなぜ送り込んだのか?と考えると答えが出てくると思います。日本に親せきがいて、戦時中の疎開のように王族の子弟を庇護してもらったと考えると合理的です。
 これだと、四世紀の朝鮮出兵や7世紀の白村江の戦いとその後の遣唐使復活とルート変更について納得がいきます。
 なお、日本から中国へは留学又は物見遊山という感覚だと思いますが、日本から朝鮮半島へはどういう感覚だったのかはよく分かりません。

日本の歴史には失われた4世紀というのがあり、中国側の書物に日本のこの時代の記録がないためこのように言われていますが、後世に編纂された日本書紀の記述には時の権力者がやってきたごまかしが含まれています。
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明治初期に大阪の住吉に百済という地名がありました。


百済大橋、南百済小学校は当時の名残です。
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百済と新羅はよく日本に太子級の人質を送ってましたね。


白村江の戦いの前後では、統一新羅の基礎を造った武烈王(金春秋)は皇太子時代に一時日本に人質として来ています。百済も滅亡時には百済王の太子である扶余豐璋が人質として滞在しており、後に百済復興軍が盛り返すと、復興軍の将である鬼室福信の要請で、日本の援軍とともに百済に帰国しています。
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