牛、豚、鶏、どれか一つ食べられなくなるとしたら?

信仰とは何か?
信仰の実体を最も根源的な言葉で表すとどのよーな言葉になるか?
これを探求しております。
そして信仰とは「願い」ではないかと。
神も仏も全てただ一つその「願い」が造り出す造形に過ぎないと。
そのよーに考える以外他に無いのではありませんか?
「あなた方の願いはあなた方の心であり、あなた方の心はあなた方の願いである」
これ以外にはないのではないかと。

A 回答 (7件)

〉神も仏も全てただ一つその「願い」が



だからね、

再三 申したのでは、
なかったでしたっけ?


もうほんと、

馬鹿でも あるまいに、
集合中の たった一つが、
必ずしも オールではない、
と。


あのね、

箱に 何かか、
入っている、

一つ 取りだした、

中は 必ず、
もう 何もない?

此 肯定したら、
馬鹿以下だよね?


あのね、

箱に 三つ以上、
入ってても、
一つ 取りだしたら、
其れか 全てか?

一つ 取り出した、
途端、
他は 消え去るか?

此 肯定したら、
因果性崩壊が 肯定されてしまい、
話が 成立しないよな?


でも、

貴方は 今、
こんな 鎮撫な、
駄孝すらも、

公然と 肯定してると、
判るかな?


此の世界に、

何らかの 一柱を、
見付けたのよね?


で?

一柱 見付けたから、
其れが 必ず、
全柱だと 主張するのよね?

正気?


何故、

君 如きに、
私の 有り様が、
否定されなければ ならない?


何ともはや、

馬鹿じゃ あるまいし、
真面な 思考を、
持ってね、

迷惑だからね。
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>☆☆ (№6) 造形は――その具象ないし確定性において―― 感性


と知性との織り成すふつうの願い事やその思想の問題です。

★ 例えば、ただのヒゲをはやした男を神であるとか、神の子であるとか
で拝む行為。
ただのヒゲをはやした男は造形である。
偶像とも言う。
偶像は神ではない。
☆ これらはすべて 感性や知性のかかわる問題です。神とその信仰とし
ての霊性ではないでしょう。

すがたかたちは 経験事象です。信じるの対象ではありません。





ただし:
★ 偶像
☆ つまり 仮り(偶)のすがた(像)であるとはっきり前提として言っ
ている場合は どうか?

一般に 信じる対象は 思考に非ざる何かであるが それを思考(や感覚)
の対象であるモノにあたかも置き換えて 信じる対象の《仮りの》かつ《シ
ルシ》として持ち出す場合です。

言いかえると このシルシをとおして信じる対象をとらえている場合です。

そういう場合があるということも 申し添えます。



★★ 願い
☆ は ふつうそうは行きません。仮りのシルシをとおして願うというの
は まれでしょう。


経験事象と非経験とを峻別しましょう。つねに・きびしく・どこまでも。
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★ 願い


☆ は 感じる(感性の原野)と考える(思考の緑野)の問題です。

つまりは身と心とから成る自然本性たるヒトの成す意志行為ですが 一般に
形のある対象を伴って成す祈りや望みと同じように その願う対象や目的と
しての内容が 経験的なものごとであると決まっています。


★ 信仰
☆ は 明らかに 感じるや考えるを超えた《信じる》の問題です。

かたちを伴わない希望と同じように・あるいは 神に向かって《われここに
あり》と言ってわが存在を伝えんとする〔だけの〕場合の祈りと同じように 
感性や知性の捉えた対象物からいっさい自由な場合の実存でありその動態を
いいます。

感性や知性を超えた霊性の問題として その動態は 《非思考の庭》といい
ます。

思考に非ずです。思考であれば 信仰とは言いません。いわゆる願い事です。




では 信仰する人間は 願い事をしないか?

します。自由に願い望み 神にうったえることも神にあまえるようにやり放
題です。

神の懐の中にあって しょっちゅう甘えています。(そうであり得ます)。




言いかえると 思考に非ざる信仰が成ったあとには あらゆる願い事をしま
す。けれども ぎゃくではありません。




★ 信仰とは「願い」ではないかと。
☆ きわめてあいまいであり 間違いです。いわゆる願いではありません。

★ 神も仏も全てただ一つその「願い」が造り出す造形に過ぎないと。
☆ 造形は――その具象ないし確定性において―― 感性と知性との織り成
すふつうの願い事やその思想の問題です。

それら気持ちや思いを超えたところにあたかも霊性の目をやるのが 信仰で
あり その対象(つまりすでに 非対象)が 神です。

神は――言うとすれば 人間が発見したのであって―― 人間が造り出すも
のではありません。神は 人知を超えています。そうでなければ神ではあり
ません。



何度おなじことを言えばよいのか。つらいです。
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この回答へのお礼

>☆ 造形は――その具象ないし確定性において―― 感性と知性との織り成
すふつうの願い事やその思想の問題です。

例えば、ただのヒゲをはやした男を神であるとか、神の子であるとかで拝む行為。
ただのヒゲをはやした男は造形である。
偶像とも言う。
偶像は神ではない。
神の子でもない。
偶像を神や神の子と信じる者にとってはつらい話にちがいあるまい。
しかし真実はごまかし得ぬものである。
真実は唯一つなのである。

お礼日時:2020/10/08 04:51

無駄に真実を探求し続けるか、


無駄に願いを持ち続けるか、、、、。
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この回答へのお礼

真実の信仰とはなにか、
真実の願いとはなにか、
肉食妻帯とは関係あるまい。

お礼日時:2020/10/07 07:48

菅首相を漢字変換で器量になったのが謎エウが


きが世界人権宣言のライトto サでしょうか、日本語訳がないのですが足掻くと文化への権利イエンス、カルチャ以外等価。ー
エコノミック、ソーシャル&カルチャ有るライつ、人権

学問の自由、自由はフリーダムなのですね。
良心の自由、ないて

がくもんのじゆう

膠着円盤
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信仰とは「心の寄りどころ」と考えます。


どの宗教や神を崇拝しようが、その人の心が救われている、また、救われた、と思うのならその時点で神は存在するのだと…
私自身は無宗教でそもそも神や宗派には全くとらわれていませんが…。いつか神に縋りたいと思うほどのピンチがやってくればわかりませんが…。
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愛する人の幸せを祈る。



自分のことは、自分でできるから、いいんですね。
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