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人は身近な家族を通じて世の中を知る。

世の中に出たとき 幼い時からの家族とのマジハリを思い起こし 人と人とのカカハリというものを あらためて形作る。

やがて社会に出る。生計を立てて生きることをまなぶ。このとき 何ごとも大きな問題もなく仕事をこなし職場以外の人びととも無理なく意思疎通ができるようになった。



ところが どこかなお居心地のわるいところがある。なぜか ちがうという感覚がついてまわる。

わたしはひとりだという感覚が しっくり来ない。ひとりひとりの中のひとりだという感じが――それは 当たり前だと思うのであるが―― なおさだまらない。

かえってわたしは家族や同僚や果ては世の中の人びとに対して何か詫びたい気持ちになる。寂しさを〔持つことを〕むしろ人びとに詫びたい気持ちになる。

さびしいと言えばさびしい。詫びたい気持ちが昂じてさびしさは 錆びついてしまった。心がへんに凍った。



ここに極北の詩人が生まれる。
北極星のごとく。

みなと距離を取りつつ 誰とも多少の波風を超えて仲良くやっている。
けれどもさむい。詩を書くわけでもないが 宇宙のかなたにわれはあるという詩人である。

 心なき身にもあはれは知られけり
 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

《心なき身》が わび・さびなのだ。漱石の草枕の書き出しを想い起こすまでもなく・またそれとは異なって ここで 文学がうまれ 哲学が顔を出す。

自己表現にこだわり 自己の表出をも重んじる文学青年が出現し 合理性を重んじつつ可能性を追究する哲学ボーイが誕生する。



世界のひとり子。〔あるいは 宇宙の孤児(みなしご)と言った人がいる〕。

独りなる幼き(あたらしき)詩人は 哲学・文学に関係なくともに《無限》を思い浮かべる。
無限なるものとの親和性をわが身におぼえる。

文学なるたましいは 無限との地続きを思う。無限との地続きなるわが心を思う。
哲学なるこころは 無限とわれとの絶対のへだたりを知る。



☆ さて 両者は ここからそれぞれ どう成長し展開するか?
これら両者の間でそれぞれの自己表現は ちがってくるか? それぞれ実存のあり方は どう違うか?

A 回答 (3件)

ブラジェさんの言う通りで、私なるものはいつか死ぬものです。

その宿命に馴染んで無限観を放棄するのか、それともそのような宿命であっても無限観を抱くのか。私が後者であって、自らの死を知った時に、帰依というものも生じ得るのかなと、思います。

そして私なるものの本質として、存在があるのか、それとも何も無いのか。この両者は同源であり、表現の方向が彼方から来るのか、此方から行くのかの違いであって、本源に違いはないのであると言うことが、今、私の示し得る、終局的な答えです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ブラジェさんの言う通りで、私なるものはいつか死ぬものです。その宿命に馴染んで無限観を放棄するのか、
☆ いや。それはないと思います。放棄してもしなくても やはりそのつどの永遠の現在として 死を死んだあとにも永続するかも知れません。神のもとにあっては 永続します。

★ それともそのような宿命であっても無限観を抱くのか。
☆ 《無限》と言えば 熾火のごとくチロチロとでも永続します。放棄したら 無限観のほうが われの面倒を見てくれます。

★ 私が後者であって、自らの死を知った時に、帰依というものも生じ得るのかなと、思います。
☆ いやいやいや と思いますよ。なぜって 無限観の中に入ったなら すでに帰依していますよ。

★ そして私なるものの本質として、存在があるのか、
☆ 私見をつづけますが われが《わたしは・・・》と言ったときに われなる現実存在(実存)も本質も 一緒になって実現していると思いますよ。保証は 無限性のほうから(あるいは 本質のほうから)おこなってくれますよ。

★ それとも何も無いのか。
☆ 何も無くても 前回のように無一物中無尽蔵で行けるのでは?


★ この両者は同源であり、
☆ ほおおう。または おおおおーお。そう来ましたか。


★ 表現の方向が彼方から来るのか、此方から行くのかの違いであって、本源に違いはないのであると言うことが、今、私の示し得る、終局的な答えです。
☆ いろいろ茶々を入れて来たことがらが 妙に軌を一にして来ていましたね。ブラヴォー。


☆ あとは うまく短くまとめることですかね。キーワードやまとまった熟語があるといいかも。

☆ わたしが いつも苦労(?)するのは 《天恵》の要素と《わが――有限な人間としてでもの――主体性》とのあいだの調和・・・でしょうか。

人間の側から調和させるなどと言ったら また行き過ぎになるでしょうし。

☆ あと 哲学の役割りは 形而上学の重みを交えた形而下の科学・思想をいかに自己表現するかであるとともに ――このあいだ 意外といまごろここで表現しえたのは――《現在世界におけるわれの位置づけとしてのような哲学的自己了解》にあると書きました。

諸科学が それぞれの専門領域でおこなっているとしても 全体観に立った世界の中のわれの自己了解ということにあると。

お礼日時:2020/10/18 17:21

大地の央部に一人立って、無限の地平に向き、全く高い空のもとで、存在たる私は基礎的な充実を得る。



私の述べた"世界の一人子"とはこの様な感慨であります。そしてまた、同じ様に世界の一人子である他者と出会った時に、そこに充足せる二者関係が生まれる。
その関係は、世界と言う果ての無い空間を介して実現して、その束縛の無さは、そんな世界の無限性(果ての無さ)に依拠している。
「私」は、息をする。空なる心に、その世界との親和と等しさを叶えて。

大地の央部は暖かく、風は爽やかである。空青く雲白く、大地は確かである。私(我)はここに在るのである。

一人なるあたらしき詩人はこのように、待ちあぐねることも、行き違うこともなく、あらたなる私(つまり他者)との巡り合いを果たすだろうと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。前身の質問で PCエラーにつきお応えがおそくなってすみませんでした。

★ 大地の央部に一人立って、無限の地平に向き、全く高い空のもとで、存在たる私は基礎的な充実を得る。
☆ なるほど。自分のちっぽけな姿の自覚を経ても経なくても 存在することの満ち足りている様子でしょうか。そしてそれが他ならぬわれであることを 天恵のごとく 味わえる。


★ 私の述べた"世界の一人子"とはこの様な感慨であります。
☆ なるほど。《欠け》は ないのだと。


★ そしてまた、同じ様に世界の一人子である他者と出会った時に、そこに充足せる二者関係が生まれる。
☆ 満ち足りたひとりとしてのわれどうしなのでしょう。


★ その関係は、世界と言う果ての無い空間を介して実現して、その束縛の無さは、そんな世界の無限性(果ての無さ)に依拠している。
☆ あぁ そういった方面でのよろこびなんですね。無限の可能性をいま一身に浴びているというような。


★ 「私」は、息をする。空なる心に、その世界との親和と等しさを叶えて。
☆ 前項までの意味合いを加味するならば 無為自然 大道無門 本来無一物 無一物中無尽蔵。


★ 大地の央部は暖かく、風は爽やかである。空青く雲白く、大地は確かである。私(我)はここに在るのである。
☆ 無一物中無尽蔵のあとに 花有り月有り 楼台有りとつづくとか。蘇東坡だとか。


★ 一人なるあたらしき詩人はこのように、待ちあぐねることも、行き違うこともなく、あらたなる私(つまり他者)との巡り合いを果たすだろうと。
☆ でしたら――たぶん―― 《永遠の現在》説ではないかと。単純な表現ですが:
▲ (アウグスティヌス:永遠の現在) あなたがすべての過ぎ去った時間に先立つのは 常に現在である永遠の高さによるのです。それによってあなたは すべての来たるべき時間を追い越しておられます。じっさい それらの時間はいまは未来ですが やってくると 過去となるでしょう。(告白 11:13 山田晶訳)
☆ 《あなた》は 神のことですが その無限と有限なるわれとの部分的な融合のような《いま・ここなるわれ》。


☆ たぶん 《無限性》を むしろいかに有限で相対的なものごとにかかわらせて表現するか。あるいは 無限と有限との部分的な融合といったさま。・・・

お礼日時:2020/10/16 17:47

長い。

なかみが無い。
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この回答へのお礼

短い。なかみがオカルチック。

お礼日時:2020/10/14 03:58

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