邪馬台国の位置が畿内説と九州説があるのは有名ですが、これを裏付ける証拠となるものにはどんなものがあるのですか?たとえば、畿内説であれば箸墓古墳が卑弥呼の墓であるといわれたり、黒塚古墳から発掘された三角縁神獣鏡が魏からもらったものだという説は調べた限りわかったのですが、九州説を裏付けるものがわかりませんでした。詳しい方、どうかよろしくお願いします。

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卑弥呼」に関するQ&A: 卑弥呼は進化?神化?

A 回答 (4件)

九州説を裏付けるような考古学的発見はいまだなされていないと思います。

(私は北部九州かなとは思っていますが)

畿内説がインパクトがあるとお考えのようですが…、
箸墓古墳が卑弥呼の墓という説は、時代的には全く合いませんし、三角縁神獣鏡は魏から贈られたものではなく、国内で作られたものであることは、考古学的にほぼ立証されています。
箸墓古墳については、一つの説として考えられるのは結構ですが、神獣鏡については間違っておられますので、一度ご確認いただけたらと思います。
こちらなど参考になると思います。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/sinnzyuukyo …
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この回答へのお礼

どうやら私の考えは偏っていたみたいですね。考古学にはいろいろな説があって今現在でもそれらが討論されて研究が進んでいっているんですね。非常に勉強になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/02 23:59

感想程度にしかなりませんが・・・(^^;)



畿内説、九州説のどちらも確たる証拠(裏付け)がないので
両立しているのだと思います。

古墳なり遺跡なり、どこからか
「邪馬台国・卑弥呼の墓」とか書かれた墓標でも発見されない限り、
論争は続くと思います。

一昔前までは、出雲は記紀や風土記で語られるほどの文化はなかったとされてきました。
しかし、地域活性開発の名のもとに、山を削り削りして、偶然に加茂岩倉遺跡や神庭荒神谷遺跡が発見され、その存在が裏づけされました。

古墳なり遺跡なり発掘しまくって、
「邪馬台国・女王卑弥呼」の墓標を見つけ出すことですね。

それでも、異論を唱える人はでてくるかもしれません・・・。
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この回答へのお礼

私はどうも古代史を考古学重視で見すぎていた気がありますね。そうですよね。民俗学的なものも歴史の中では重要な位置を占めているんですね。これからは考古学だけではなくそのようなものにも重点を置いて勉強してみます。どうもありがとうございました。今後の研究が楽しみです。

お礼日時:2005/02/03 00:05

こういうのもあります。



参考URL:http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/index.htm
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この回答へのお礼

邪馬台国を否定する説まであるんですか。いやー古代史はおくが深いですね。高校教科書レベルで満足していては古代史は語れないですね。勉強になりました。

お礼日時:2005/02/03 00:02

検索されました?



参考URL:http://inoues.net/wal.html
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この回答へのお礼

すいません、私の説明不足の部分があったと思います。たしかに遺跡数や風習などから裏づけされる部分は知っていたのですが、畿内説と比べてどうしてもインパクトが薄いんです。そのため、最新の考古学で畿内説に対抗できるようなインパクトのある発見がなかったかどうかが知りたかったんです。重ね重ねご迷惑をおかけしましてすいません。

お礼日時:2005/02/01 19:31

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Q(邪馬台国)か(やまたいこく)って言う焼酎をご存知ですか?

5、6年に大阪・箕面にあった”焼味尽” 牛タンの店にですが
そこにあったんでよく飲んでいました。

当時は焼酎の飲み始めで 麦焼酎ばかり飲んでいました。
そこの店主にもうこれがなくなったら 入荷しないと言われたので
酒造会社を教えてもらい、探したら姉妹品を見つけました。
大阪近郊では 西宮にあったので二度買いに行きました。

すっかりそのことを忘れてて もう一度飲みたいと思ったのですが
姉妹品の焼酎の名前及び、酒店と場所が忘れました。

探しにいければ見つけれるのですが 東北に転勤になったので
探せません。

二度目に買いに言ったときに店主は ネットでも販売してると言ったのを
思い出しました。

名前がわかればいいのですが (邪馬台国)か(やまたいこく)の焼酎か
酒造会社を知っていれば教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「邪馬美人」(やばびじん)ではないですか?

先週、大分県の兄貴のところに遊びに行ったときに御馳走になりました。焼酎はあまり詳しくないのですが「プレミアがついて結構高いんだぞ」と説明されました。「東京だったら1万円(一升瓶)くらいすんだぞ」と。

麦と米があって、米しか飲んでないですが、癖がなくさっぱりしていて美味しい印象でした。

#とんちんかんだったらご免なさい。

Q邪馬台国=九州説と記紀

邪馬台国=畿内説では、記紀に登場する
倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼、豊鍬入姫命がトヨ、
卑弥呼の男弟が崇神天皇(個人的には崇神天皇ではないと思ってますが)
のように対応させて説明されることが多いです。

奈良県桜井市から天理市にかけて山の辺の道がありますが
その付近に倭迹迹日百襲姫命の墓(箸墓)、崇神天皇陵(行灯山古墳)もあります。

邪馬台国=九州説でも、畿内説のように記紀に登場する人物に対応させるのですか。
もしもそうなら、どのように対応させますか。
やっぱり、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命ですか?

また卑弥呼の墓や卑弥呼の弟の墓はどの古墳だと考えらえているのでしょうか。

※九州説の内容を質問しています。
畿内説と九州説のどちらが正しいかを問うものではありません。
ですが、余力があれば、自説などもお聞かせください。

Aベストアンサー

関祐二さんの本やほかの本にもあったかと思いますが、墓の比定はできないんですが、卑弥呼やトヨが誰か、という意味では、次のように示唆していたかと思います。

卑弥呼は、日巫女で役職のようなもの。
当時大和に刃向っていた九州勢力では、山門県(やまとのあがた)にいた田油津(たぶらつ)姫がいて、神宮皇后かこれを打ち破った。この時兄がいたが、多油津姫が殺されたと聞いて逃げた。
この九州勢力が大和に対抗するためにさかんに中国との外交を展開している中で、金印を授かったりしている。
そして、邪馬台国は、当時の読み方ではヤマドや、ヤマドゥという発音とのことなので、この大和の県の姫が日巫女(卑弥呼)として考えられる。
この地を平定した神功皇后が、山口県の穴門(あなと)の豊津に穴門豊浦宮(あなととよゆらのみや)を皇居として築いたとある。
ここから、豊浦宮の神功皇后が、トヨとして卑弥呼を継いだ、と考えている。

こんな感じだったかと思います。ちょっと不確かですが。

ちなみに、この豊については、この後歴史上色々と出てくるのでそこをたどっても面白いですよ。
こんなサイトもありました。
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index7.html

関祐二さんの本やほかの本にもあったかと思いますが、墓の比定はできないんですが、卑弥呼やトヨが誰か、という意味では、次のように示唆していたかと思います。

卑弥呼は、日巫女で役職のようなもの。
当時大和に刃向っていた九州勢力では、山門県(やまとのあがた)にいた田油津(たぶらつ)姫がいて、神宮皇后かこれを打ち破った。この時兄がいたが、多油津姫が殺されたと聞いて逃げた。
この九州勢力が大和に対抗するためにさかんに中国との外交を展開している中で、金印を授かったりしている。
そして、邪馬...続きを読む

Q邪馬台国の読み方は 「やまたいこく」 or 「ヤマトコク」???

「台与」は「とよ」と読む例が多いのに、
邪馬台国は『やまとこく』と読まないのでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国の正確な音は不明ではないでしょうか。
「台与(とよ)」が「壱与(いよ)」ではないかと言われるように、「邪馬台国」も「邪馬壱国」「邪馬一国」など表記に異論があり発音も「やまたい」「やまと」「やまいち」説がまだ統合されていません。
「やまと国」と読んだ学者は漢字学者の藤堂明保氏と(たしか家永三郎氏も「やまと国」派だと思いますが自信なし)。
**正史で実際に使われたのは「台」「壱」でなくその正字です。

下記wikipediaサイトの「邪馬台国の表記に関する説」を参照下さい↓

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD

Q邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何者か?

魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何を意味するのでしょうか。当時の日本に邪馬台国という小国があって、その領袖は女性であり、「卑弥呼」という名前だったと、素直に読むべきでしょうか。それとも、一部の歴史家が言う様に、邪馬台国とは初期の大和朝廷のことであって、女王というのは当時の中国人の誤解であり、当時の日本人が領袖を「日御子(ひのみこ、ひみこ)」と呼んでいた。それを中国人が聞いて「卑弥呼」の文字をあてた。「日御子」は後世になって「天皇」と呼ばれるようになった、と考えるのが正しいのでしょうか。

Aベストアンサー

私達は『姫巫女』ではないかと思ってます。
日本側の文献(古事記と日本書紀)ではこの時期、皇位は空位となっています。

三国志期の日本は、日本武尊による東征が行われ、その息子・仲哀天皇が192-200年まで即位し、270年から応神天皇となっています。

ここからは想像の域ですが…

魏書東夷伝倭人条で言う倭が乱れというのは日本武尊の東征と反対勢力による抵抗運動のことではないでしょうか?

年号との照合が合わないのですが、根本的にあの年号はおかしいのです。どの人も100歳位まで生きており、無理矢理西暦に合わせて**年~**年まで即位と言っているのです。飛鳥時代の人が我々と同じ暦を使っているわけがありません。(ちなみに天皇陵も明治になって決めたものです)
これらから考えると、日本武尊とその後の混乱が「魏書東夷伝倭人条」に書かれていることと考えるのが筋だと思います。

 仲哀天皇が没し、日本武尊に制圧された地域で反乱が起きた。仲哀天皇の息子は幼かったため、姫巫女(神功皇后 息長足姫命)が陣頭に立って反乱鎮圧を行う。姫巫女は占いで戦いの時を決め圧勝した。無敵の姫巫女軍に抵抗するものは減ったが、姫巫女が没すると反乱軍は勢力を盛り返した。そこで幼い誉田別尊を陣頭に出兵するが、統率能力に欠けた。そこで侍女の伊与が占いで戦いの時を決め、反乱を鎮圧した。その後に誉田別尊が天皇に即位し応神天皇となった。

古事記・日本書紀・魏書東夷伝倭人条の3つを年号照合と物語照合を行うとこの形が一番すっきりします。

私達は『姫巫女』ではないかと思ってます。
日本側の文献(古事記と日本書紀)ではこの時期、皇位は空位となっています。

三国志期の日本は、日本武尊による東征が行われ、その息子・仲哀天皇が192-200年まで即位し、270年から応神天皇となっています。

ここからは想像の域ですが…

魏書東夷伝倭人条で言う倭が乱れというのは日本武尊の東征と反対勢力による抵抗運動のことではないでしょうか?

年号との照合が合わないのですが、根本的にあの年号はおかしいのです。どの人も100歳位まで...続きを読む

Q邪馬台国って・・・

 「邪馬台国推理行」(高木彬光著)、近年では「逆説の日本史」(井沢元彦著)などで、邪馬台国「宇佐説」が説かれています。私個人としては、とても興味深い説だと思うのですが、どう思われますか?

Aベストアンサー

禊(みそぎ)ってありますよね?
あれは、大別して海水で行う地方と真水で行う地方があるのですが、
そのどちらもを行う島があるのです。
それが福岡の朝鮮半島に面した島であるという講義を大学の時に受けました。
元はどちらも行うべきものが地方に伝わる時に別れたそうで、どちらもを
行うところが、古代日本の神事の中心だった時代があるのだろうというのが
教授の見解でした。

だから邪馬台国が九州であったことはまず間違いがないとわたしも思います。
第一魏志倭人伝にのるためには中国大陸とそんなに離れてないところじゃないと
古代むつかしかろうと単純に思いますしね。

宇佐はたしかに邪馬台国があった場所として有力です。
が、
どうも由緒ある宇佐神宮の存在が、むりやり古代ロマンとの結びつきを
つよめちゃいないか?という気がしないでもない。でも大分県人は
卑弥呼の里とかいわないですけどね。ほとんど。一万円札の里とはいいますけど。

宇佐は邪馬台国の勢力の及ぶ一地域ではあったはず。
卑弥呼が実在したのか?
したならば彼女はどこから国を治めていたのか?っていう卑弥呼の所在となると
まだまだ動かぬ証拠がでるまで怪しい気がします。

でも古事記が架空の書物といわれた時代があり、発見されたいきさつがあるので
卑弥呼の実在を知らせる遺産がでないかなあと夢見てしまいます。

禊(みそぎ)ってありますよね?
あれは、大別して海水で行う地方と真水で行う地方があるのですが、
そのどちらもを行う島があるのです。
それが福岡の朝鮮半島に面した島であるという講義を大学の時に受けました。
元はどちらも行うべきものが地方に伝わる時に別れたそうで、どちらもを
行うところが、古代日本の神事の中心だった時代があるのだろうというのが
教授の見解でした。

だから邪馬台国が九州であったことはまず間違いがないとわたしも思います。
第一魏志倭人伝にのるためには中国大陸とそ...続きを読む

Q邪馬台国はどこ?卑弥呼は誰?結婚?天岩戸は?

事情がありどうしても以下のことが知りたいのです。
信憑性のある情報をお持ちの方、歴史・神話に詳しい方、分かりやすい言葉で根拠を添えて教えていただけると助かります!

●邪馬台国はどこだったか?
九州説、近畿説とありますが、どこが一番有力なんでしょう。

●卑弥呼は誰だったか?
天照大御神、神功皇后、倭姫神、市杵島姫神など、沢山説がありすぎてわけわからなくなりました。
誰が一番有力なんでしょう?

●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか?
結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか?

●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢?
古事記で書かれている天岩戸は、いったいどっちなんでしょうか?

Aベストアンサー

(No.3の続き)

全ての説はあくまでも仮設ですから。作り話かどうかは、判断されるのはあくまで自分自身です。
八重垣神社といえば、こないだテレビ番組で(確かNHKの笑福亭つるべえの田舎を巡る番組だったと思います。)宮司さん自らが解説するところに寄りますと、たしか左、真ん中、右の三つの建物にアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神をまつっているとおっしゃってました。(うろ覚えですので間違っているかも知れません)その絡みで、絵が奉納してあるのかも知れませんね?
>●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか?
結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか?
→作り話?・・・

きわめて初期と云うことは、百済人ではありませんよね?
もしそうならこのトピックを参照されてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い
こういう話があります。
垂仁天皇二年
この年、任那の人そなかしちが「国に帰りたい」と言った。
先皇(崇神天皇)の御世に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。彼を厚くもてなされ、赤絹百匹を持たせて任那の王に送られた、ところが新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。
>大和朝廷の極めて初期に、朝鮮半島で起こった大きな戦い(政権争い)に負けて九州へ船で移ってきた部族っていったら、何があてはまるんだろう。。。

以下の質問は、邪馬台国の会で主張されている説を信じてます。
>●邪馬台国はどこだったか?
>●卑弥呼は誰だったか?
>●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢?

ちなみに私も素人です。ていうか専門家の先生方も、
本当のことは分かってないと思います。
情報がもっとたくさん出れば、謎は解明されるかも知れません。
例えば神社や寺から古い古文書が発見されるとか、
新たに古墳が発掘されるとか。
(天皇陵の発掘は未だ原則として認められておりません。
あと近畿地方はあらかた発掘されていますが、
九州地方などは未だ手薄です。吉野ヶ里遺跡級の
大発掘があってもおかしくはありません)

(No.3の続き)

全ての説はあくまでも仮設ですから。作り話かどうかは、判断されるのはあくまで自分自身です。
八重垣神社といえば、こないだテレビ番組で(確かNHKの笑福亭つるべえの田舎を巡る番組だったと思います。)宮司さん自らが解説するところに寄りますと、たしか左、真ん中、右の三つの建物にアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神をまつっているとおっしゃってました。(うろ覚えですので間違っているかも知れません)その絡みで、絵が奉納してあるのかも知れませんね?
>●素戔鳴尊と卑弥呼は結...続きを読む

Q邪馬台国九州説は、どうしてこうも往生際が悪いのか。

邪馬台国九州説は、どうしてこうも往生際が悪いのか。

邪馬台国九州説を唱える人たちは、どうしてこうも往生際が悪いんでしょうねぇ。
最近次々と発見された新証拠によって、邪馬台国は畿内説でもはや間違いないのです。
マキムク遺跡が邪馬台国で、箸墓古墳が卑弥呼の墓。卑弥呼=モモソ姫でもう確定なのですよ。

それを何をいまさら、九州説など唱えているのでしょうか。
じつに往生際が悪い。いい加減に負けを認めたらどうです。
フッフッフッ

Aベストアンサー

C14年代測定法や中国歴代史書からは、近畿説は成立しませんから、九州説はなくなりませんねぇ。

Q茶臼山古墳の被葬者は卑弥呼?

奈良県桜井市の茶臼山古墳(前方後円墳)は誰の墓なのでしょうか。魏志倭人伝に登場する卑弥呼女王でしょうか。それとも卑弥呼の弟でしょうか(弟も魏志倭人伝に登場します)。それとも卑弥呼の後継者の臺與でしょうか(臺與も魏志倭人伝に登場します)。

それとも、大和王権の首長(日本書紀に登場する垂仁天皇など)または豪族の首長(日本書紀に登場する大彦命など)でしょうか。

Aベストアンサー

それが分かっていたら日本の古代史、大和王権の成立期から六世紀中頃までの謎の大部分が解決するでしょう。

しかし、回答者少ないね・・・・

Q宇佐八幡神宮と朝廷の関係

769年に、宇佐八幡宮神託事件という事件が起きています。
道教が皇位を継ぐべきか否かを宇佐八幡神宮の神託に委ねるという政争のひとつです。
事件の内容はそれとして、何故宇佐八幡神宮なのかが気になりました。

天皇家の始祖である天照大御神が祭られている伊勢神宮の方が、皇位継承の神託を与えて当然だと私は思うのですが、わざわざ京から離れた大分県の神宮がそれを与えています。
加えて、宇佐使という皇室使者が、途中で途絶えているものの、現在も続いているそうです。
これらは、宇佐八幡神宮と朝廷が特別な関係にあるということの証左のように思います。

そこで、質問です。
宇佐八幡神宮と朝廷に特別な関係は実際存在するのでしょうか?
また、存在するとしたらその原因は何でしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、これは私の推測にすぎまないことを申し上げておきます。

宇佐八幡宮の御祭神は15代応神天皇です。
応神天皇は九州の宇美というところでうまれ(父は仲哀天皇、母親は神宮皇后)そこから畿内入りしました。

応神天皇の畿内入りルートが初代神武天皇の東征ルートと重なるので
本当の初代は15代応神天皇ではないかとする説があります。

『古事記』仲哀記に次のような記述があります。

建内宿禰(たけのうちのすくね)が、太子(譽田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた。
その夜、建内宿禰の夢に伊奢沙和気(いざさわけ)大神があらわれ、
「私の名前と御子(応神天皇)の名前を変えてほしい」といった。
建内宿禰が承知すると、「明日の朝浜にくるように。お礼を用意しておくので」と言った。
翌朝、浜には鼻が傷つけられたイルカが浦いっぱいに集っていた。
これを見て太子は、「神が私に魚を下さった」と喜んだ。
そこで、その神の名を称えて、御食津(みけつ)大神と名づけた。
浦はイルカの血で臭かった。そこからその浦は「血浦」と呼ばれた。
さらに「血浦」が訛って角鹿(つぬが/現在の敦賀)となった。

初代神武天皇は日向より東征して畿内入りしますが
すでに畿内にはニギハヤヒという神が天下っていました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、ここから神武以前に物部王朝があったという説もあります。
そして、神武はニギハヤヒを服して即位し、王となりました。

神武天皇と応神天皇が同一人物とするならば、
神と名前を交換する応神天皇の話は、政権交代を意味しているように私には思えます。

つまり、本物の応神天皇は御食津大神となり
伊奢沙和気大神が応神天皇となり、政権が入れ替わったのでは、と思うのです。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_usa.html
上記によれば宇佐八幡宮の神職は、はじめ大神氏であったが、平安時代の中頃神主職を宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲したとあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F
大神氏は上記にあるように、奈良県桜井市にある大神神社の祭祀を司る神であったようです。

大神氏は三輪氏とも表記したようですが、
大神神社の御祭神である大物主命の子孫・大田田根子は
今の三輪君などの祖であると記述されています。

さらに、大物主命は正式名称を倭大物主櫛甕玉命といいますが
物部氏の祖神・ニギハヤヒは『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されています。

大物主命・・・倭大物主【櫛】甕【玉】命
ニギハヤヒ・・・照國照彦天火明【櫛玉】饒速日尊

で、【櫛】【玉】が同じなので、大物主命とニギハヤヒは同一神だという説があります。

ここから推理するに、宇佐八幡に祀られている応神天皇とは
もともとは大和にあった物部政権の王ではないか、と私は思うのです。

ということは、宇佐八幡宮に祀られているのは
前政権の物部王朝の王で、朝廷にとってはライバルであったということになります。

なぜ、ライバルである前政権の王に皇位継承のお伺いをたてるのでしょうか。

前政権の王は死後、荒れ狂う怨霊になったと考えられます。
ちなみにかつて怨霊と神とは同義語であったといいます。

怨霊は祀らなければ祟るが、神として十分に祀れば絶大なご利益を与えてくれる、と信じられていたのです。

ですから、宇佐八幡宮には宇佐使とか和気使と呼ばれる勅使が使わされていたのだと思います。

残るは、なぜ応神天皇は敦賀の神と名前を交換したのか、ですが
申し訳ない、これについてはよくわかりません。

もっと単純に、応神天皇は初代天皇なので
皇位継承のお伺いをたてた、とする説もあります。

ちょっと説明がややこしかったでしょうか。

まず、これは私の推測にすぎまないことを申し上げておきます。

宇佐八幡宮の御祭神は15代応神天皇です。
応神天皇は九州の宇美というところでうまれ(父は仲哀天皇、母親は神宮皇后)そこから畿内入りしました。

応神天皇の畿内入りルートが初代神武天皇の東征ルートと重なるので
本当の初代は15代応神天皇ではないかとする説があります。

『古事記』仲哀記に次のような記述があります。

建内宿禰(たけのうちのすくね)が、太子(譽田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた。
その夜、建内宿禰...続きを読む

Q邪馬台国、三重県説について

邪馬台国、三重県説について

直井裕さんが書かれた、『邪馬台国は三重県にあった』を読んだのですが…三重県にある!ということを決めつけて、強引に三重に辿りつかせたという印象を受けたのですが…(特に最終ページ付近の、にわかに信じがたいタイムスリップ体験の話)
三重県説は、どのくらい世間に認められているのでしょうか?また、もし詳しい方がいましたら、三重県説についてどう思われているのか教えてください!

Aベストアンサー

ある事はあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A7%AB%E5%91%BD


伊勢神宮から考えれば、神風と常世です。

三重県の弥生遺跡は少ないです。
http://www.db.pref.mie.jp/db/user_upload_file/k405700/14/H16murat.pdf

古墳を考えると地方豪族と言う感じです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%97%97%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

卓上では悪くは無い。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/bunpu.png

古事記や日本書紀の読みは、大和朝廷の勢力が後々ここを勢力下に置いた為。
となります。

しかし、後々まで放置していた事が地方豪族の証にもなります。(東端)


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