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長篠の戦いの鉄砲3000丁は嘘ですか? 鉄砲三段撃ちと、鉄砲3000丁という数字は嘘ですか?
間断なく鉄砲を撃てるという三段撃ちの方法は、異説があるのでしょうか。
また、鉄砲3000丁という数字は大げさな数字ですか。
当時の織田信長ならば、鉄砲の3000丁ぐらいは集められたのでしょうか?
鉄砲隊の活躍がなかろうが、織田の圧倒的優勢な状況に変化がなかったと言う説もあるようですが。

A 回答 (8件)

最も信頼性の高い太田牛一の「信長公記」には<鉄砲千丁>で三段撃ちのことは一切触れられていない。


3千丁と三段撃ちは、小瀬甫庵の「甫庵信長記」が初出と思われる。これは南蛮人からの伝聞などを組み込んだ歴史小説。史実を誇張・改変している。

三段撃ちについては、知られている方法ではなく、当時の鉄砲名人集団の根来・雑賀衆の撃ち方を織田軍が採用したという説がある。

これは射撃の名手1人に助手2人の3人が1組になり、助手の2人が装弾など射撃準備をし、射撃手がひたすら撃ちまくるというもの。
小瀬甫庵の三段撃ちより非常に合理的だ。そもそも甫庵のは1人の射手が動き回りながら装弾作業を行うという嘘くさい話だ。無理がある。

銃の数だが、当時としては千丁でも非常に多い。
実戦は最後の方で騎馬隊の突撃もあったようだが、実際の戦闘は武田勢の鉄砲兵を含む一部隊の歩兵攻撃で始まり、織田勢との鉄砲の打ち合いとなったが、当然の如く鉄砲数で上回る織田勢の防御網を打ち破れない。
戦いの様相は、石山本願寺合戦と同様に防衛側の鉄砲の壁を打ち破れないまま武田攻撃部隊の撤収となり、新手の攻撃部隊と交代することになる。
兵の損害は撤収時が多い。信長勢は武田勢が陣に戻る際に鉄砲隊を前進させて多くの敵兵を打ち倒し、新手が攻め寄せてきたら元の位置に戻って防御に専念することを繰り返したのだろう。

武田諸隊の攻撃がすべて失敗すると、武田はやむなく陣を引き払って逃げるしかなくなった。
そこで満を持していた織田の諸隊が鉄砲隊とともに追撃し、武田軍を総崩れに仕留めたということだろう。

とどめを刺したのは鉄砲隊ではなかったかもしれないが、長篠の合戦の主役が織田軍の鉄砲隊であったことには変わりない。大量の鉄砲が無ければあれほどの完勝を収めることは不可能だっただろう。

織田軍としては、石山本願寺合戦における根来・雑賀衆の鉄砲による城砦防御戦術を、馬防柵と鉄砲隊を組み合わせることで、見事に野戦で応用したということだろうか。
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他の回答のとおり、長篠の戦いにおける三段撃ちは、江戸時代の創作であることがほぼ確定的です。

ちなみに長篠の戦いは、信長軍が数的にも優位であり、普通に戦って普通に勝った戦いという評価がされているはず。

ちなみに、モンゴル兵だったかが、弓の三段撃ちというのをかなり昔からやっています。日本では和弓が独自の進化をし連射性能も高かったので弓の三段撃ちの需要はなかったでしょうが、そういう話を江戸時代にパクってきたのかもしれませんね。
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当時の資料として、信長に仕えた太田牛一の「信長(公)記」と


江戸時代の小説家小瀬甫庵が信長公記を元に逸話を加えて執筆した
「信長記」があります。
(注 太田のものは本来は「信長記」ですが、小瀬甫庵のものと
   区別するため一般的に「信長公記」と言われています)
資料的価値の高いものが「信長公記」ということになります。


>長篠の戦いの鉄砲3000丁は嘘ですか

信長公記にはいくつかの自筆本があります。
建勲神社本には「鉄砲千挺計(ばかり)」となっています。
しかし、池田家文庫版は同じ文言に三が小さく加筆されています。
ttp://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/komonjo/ja/8
(岡山大学附属図書館 古文献ギャラリー 信長記)
「巻第八 P16 4行目 参照」
ちなみに、当該部の訳は以下のようなもの

 信長は家康陣所の高松山という小高い山があって上られ、
 敵の動きをご覧になり、命令があり次第行動するように
 前から命じられていた。
 鉄砲千挺ほどを、佐々成政・前田利家・野々村三十郎
 福富秀勝・原田直政を奉行として持たせ、
 近々と足軽を懸けさせられ、それをご覧になった。

このため、非常に疑わしいのですが否定できない面もあります。



>三段撃ちの方法は、異説があるのでしょうか

三段撃ちは信長公記に記載が無いので非常に疑わしいもので、
一見合理的ですが、実際は発砲した煙で作業が困難、
一斉射撃をするための号令がはとんど聞こえないなど
当時の銃では困難ではないかと思われます。

実際には、なれれば30秒程度で装填可能になるし
油布で拭えば20発程度の連射は可能だそうで、
武田の騎馬隊も機動力を活かした一斉突撃したわけではなく
小隊がぬかるみで散発的な波状攻撃をしたと思われるので
そのまま普通に射撃しても効果的だったと考えます。
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鉄砲3000丁を使って戦をしたのなら、弾が戦場に残ってないとおかしいです。



長い事調査しても、弾が見付かっていません。
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銃の保有数は本当の事らしいですが、戦場で使ったとの文献は


見つかってはいないで、実際に使用した正確な銃の数は解ってません。

三段射ちは江戸時代に作られた、創作が最近の学説になって来ました。
・信長公記に記載が無い
・火縄銃は2発も撃つと、煤を掃除しなければならず、連射が出来ない。
・硝石と鉛は輸入品で超高級品です、高度な三段射ちの訓練は、出来ず、
 今の自衛隊と同じく模擬訓練だけと考えられる。

長篠の戦は三河・徳川家に甲斐・武田家が攻め入り、織田家が援軍
に行った戦です。
三方ヶ原で惨敗した、徳川家康から武田の騎馬隊の様子を聴いていた
織田信長は鉄砲の他に馬房策用の木材と長槍を用意してました。
更に武田軍より先に有利な場所に布陣してます。
容易周到の作戦勝ちと言えるかと・・・
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これはですねぇ、長篠古戦場跡が結構近いので何度も行ってます


去年までは毎年お祭りがあった

織田の鉄砲隊の数は500です
2000丁は徳川の鉄砲隊
三段撃ちは本当で、戦い方もイタリアの宣教師から習ったもの

戦力は徳川8千、織田3万
一方の武田は1万5千ですから2.5倍の戦力
問題は武田の騎馬隊だけ
これを馬防柵で足止めし、鉄砲の狙い撃ちという戦術が勝敗を分けたようです

戦況は一方的で武田軍の大敗北
織田徳川の援軍話を聞き、大半の家臣は撤退を進言したが、勝頼は耳を貸さなかったそうで、これが一族滅亡の決定打になった
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国友鉄砲の生産地を確保していましたから、3000丁より多かったでしょう。


ドラマの映像のように、整然とした形ではなかったかもしれませんが、ほぼ三段撃ちの形だったようです。

鉄砲を構えている陣に敵の主力を誘うために、徳川軍がかなり高度なテクニックを駆使してますが、その扱いが軽く見られてます。長篠の戦いの主力は徳川で、織田はあくまでも助っ人なんですけど、なんか、織田だけで戦ったような印象になってる。
 故意に追撃されることで、鉄砲陣の正面に誘い込む。長期戦になったり、側面から攻められたら、武田もけっこう強いですから、混戦になったでしょう。

圧勝できる形になるまで、武田家との正面対決を避けてました。勝てる確信が出来てから合戦を始めるのが、織田信長。
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どちらも本当です。

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