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心とは何なのか?

人間の肉体は、イロイロと解明されているようですが、すべての生物に存在する、意志、心とは、脳が作り上げているものなのでしょうか?

 それとも、肉体と心はそれぞれ別の存在なのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • とても熱い回答に感謝です。
    明朝は仕事なので、お礼はしばしお待ちください。

      補足日時:2020/11/06 19:37

A 回答 (20件中1~10件)

No.11です。



>自分は宗教アレルギー的なものがあって、、、

宗教と思うからいけないのです。
また、何も宗教団体に入れとか、信仰を強要するつもりはありません。

ただ、仏教というものは、人間の生命に光をあてて苦悩や苦痛を解決するために、仏が智慧を出して説いた教えであるという事です。

要するに、宗教がどうのこうのという次元を超えて、人間生活に大きく影響する要素を含んでいるという事が言いたいのです。

辛い思いがあるのなら、少しでも仏教哲学を学んで、それを生活に生かすことで有意義な人生を歩めるという事です。
「智慧を借りる」ということは、凡夫にとってたいへんありがたい事で、それによって救われるのであれば、絶対に学んだほうが良いに決まっています。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。
そうですね。
確かに、「宗教」=ダメという思考が先行してしまって、1つの学問、価値観と捉えた方が良いと感じました。

勉強したいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2020/11/08 12:25

すべての生物に意志、心は無いでしょう。

酵母(イースト)、納豆菌など意志も心も無いと思います。湯川秀樹博士の「知魚楽」の話を思い出しました。
「魚が楽しそうに泳いでいる」とAが言ったのに対して、Bが、「君は魚では無いのだから、魚が楽しいのか楽しくないかなんて判るはずが無い」と言ったのです。これにAは、「君は私では無いのだから、私が魚の気持ちが判るか判らないかを君が判る訳が無いではないか」と返したのです。
自分に意志や心があるから、自分では無い他の人間にも意志や心があるのだろうと勝手に類推しているのです。これは相手も自分と同等の脳を持っていて、その脳が自分の持つ脳と同等の働きをしているはずだとの前提があっての話です。
魚が水面で口をパクパクさせているのを見て、子供が「おさかなさんが楽しそうにパクパクしてる」と言ったとします。多分、水中の酸素が不足して鰓呼吸だけでは苦しくなったので仕方なく水面に口を出して酸素を取り込もうと必死なのだと考えられます。
心や意志は脳の活動が作り上げていると考えられます。
広い宇宙のどこかの惑星で周囲に核分裂物質が豊富にある環境でケイ素生命体が誕生したとしましょう。自己の体内に核分裂物質を取り込んで、核分裂エネルギーを生命活動の維持に使うタイプの生命体だとしたら、他の生命体を捕えて殺して食べて消化して自己の生命活動を維持するエネルギーを得る必要は無いので食べる「口(くち)」は無いでしょう。自己の体内から電磁波を外部に発信して、また、外部の情報を電磁波として受け取って知覚し、他の個体とコミュニケーションするのであるば、話す「口(くち)」も目も耳も無いでしょう。呼吸も不要でしょうから鼻も無いでしょう。手足も無く、触手のような体の器官で物を掴み、銀河間航行する宇宙船を組み立て、宇宙狭しと飛び回り、壮大な宇宙文明を築いているのかも知れません。
さて、彼らに心や意志はあるのでしょうか? 我々とは体が全く異なります。我々の脳に該当する体の器官があるのか無いのかさえ不明です。我々は他の生命体を捕えて殺して食べて消化しないと自己の生命を維持できない弱肉強食の地球の環境を当たり前として育って来ましたが、彼らは全く違います。
彼らが我々を見たらどう感じるのでしょうか? 何も感じないのでしょうか?
こうした話は下記のブログの後の約1/3でしています。前の約2/3は宇宙塔マスドライバーの話です。ブログを御覧戴ければ幸いです。
http://blog.livedoor.jp/satou_hiroshi_4649/archi …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
以前もリンク拝見しました。

なんとも不思議な話です。

お礼日時:2020/11/10 18:52

1. 心はむしろ即物的(ザッハリッヒ)なのだと言いますか クオリア(感覚質)とはよく言ったものだといいますか 心は 《あるようで無い》というよりは 《ないようで有る》ようですね。




2. 心性を示す形容詞も じつは モノに即してその物質的な知覚によって――基礎としては――成り立っているようなのです。

・ うれし < うら(裏・心)‐いし(良し) > 嬉しい

  ☆ いし∽よし ヨは 寄るのヨか? ゆえに《近寄りたい》
   という行動の問題から来る。cf. いね(稲)∽よね(米)
 
・ かなし < かぬ(かねる:できない) > 悲しい

  ☆ どうすることも出来ないさまを言う。心に何か思いが起こ
   っているといった発想ではないらしい。

  ☆ ・ をかし < をき(招き)たい気持ち
    ・ ゆかし < 近くへゆき(行き)たい気持ち
    ・ やさし < 身がやせる(痩)思いだ
    ・ おいし < おほ(大)‐いし(良)=美味

・ おほし < おふ(生ふ:育つ・大きくなる) > 多し。
      > おほき(大き)

3. 赤ん坊や幼い子を見ていると 視覚なら視覚が刺激を受けて そのように身に起こるウゴキからさらに何かがそこに醸し出されるようなのである。

3-1. 気持ちとか思いと呼ばれる何かが 身とはあたかも別に現われる。これが 心か。

4. ところが この・身と一体であったような心が そこからあたかも分立する。

4-1. 独立するとさえ言いたいような機能を潜在性として持っていたようなのだ。

5. 精神とも呼ばれる心は 基本として 記憶と知解と意志との三つのハタラキに分かれて現象する。

5-1. 三つはそれぞれ順に 社会形態での役割りにちなんで 司法と立法と行政との分業(および全体としての協業)にたとえられる。

6. 知解のチカラは とどまるところを知らないかのようである。意志は 自由意志とも呼ばれて その自由度は ひとつには欲望となってやはりとどまるところを知らないというまでに伸びる。
 
7. 身と心から成る人は それとしての自然本性が開花して 人間性を発揮するまでになるようである。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なんだか迷路に入ったような感覚です(^^;

お礼日時:2020/11/08 12:26

意志と心の違いは?


心と感情の違いは?
質問者さんの認識が分からないと、話が噛み合わない。


私は自分自身の自意識があるかどうかすら分からなくなってきた。
自分自身は存在するけど、自意識が存在するかはよく分からない。

どこまでを意識と呼ぶのか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

意志=心の動きの1つだと思いますよ。
感情は「本能」的なものだと思ってます。

人間ほど複雑な感情を持つ動物はいないでしょうね。

お礼日時:2020/11/08 12:24

細胞それ自体が生命体なのです


人体はおおよそ37兆個の細胞で構成されています
それはつまり人体とは37兆個の生命体の集合体だという事です
これは脳神経細胞にも言えることです
脳は概ね860億個の脳神経細胞で構成されています
それはつまり860億個の「小さな私」が一つの「大きな私=主体としての私の」を構成しているということです
意思しろ心にしろ860個の脳神経細胞則ち小さな私と人体を構成している37兆個の細胞則ち小さな私が互に連携する事で生み出されたものなのです
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

どうやらそのようですね。
37兆個ですか、、。やはり人体1つがある意味で1つの宇宙のようですね。

お礼日時:2020/11/08 12:23

言葉の意味ならば、辞書をひき正確な定義を調べる必要があります。



ご検索ください。

仏教的には、私達を構成するものを分類すると、

肉体(色)、感覚(受)、心(心)、観念ー常識とかデータのこと(法)の4つに分類されます。

または、肉体(色)、感覚(受)、相(イメージ)、行(意志)、識(意識)と分類されます。

相、行、識の三つを合わせて、心と法を合わせたものと一緒になります。

この場合は、肉体と心は違うものとして分類されています。

科学的、医学的な検証では、精神活動は脳や脳内物質などの肉体の影響を受け、逆に精神活動の影響を肉体も受けます。

考えとして、

精神は身体や、脳の活動の表れがすべてというもの。

この場合は身体の終わりは心も無くなります。

精神を司るものがあって、脳はそれをこの世界で表現する為の器官というものです。

この場合は身体が終わっても、より深いところで残るものがあります。

本質的な真理を求める要素を素晴らしいと思います。

ありがとうございました。

あなたが、正確で安全な研究や修行によって最高の智恵や徳、最上の悟りを必ず成就せる者であることを望みます。

善い仲間と善い知識と善い交際をお求めください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

3回程読み直しました。
難しかったです。

こんな事を考えてしまう私はある意味で馬鹿なんでしょうね。

精神世界には興味はありますが、あまり深入りは禁物だとは思ってます。
が、人間はそれを深く考えることができます。

人間は「本能」以外に「理性」というものが間違えなく存在ますよね。
(でもその理性という定義も、人間の主観に過ぎないかもしれませんが)

要勉強ですね。

お礼日時:2020/11/07 18:12

僕は、場所だと思ってる。


例えば自分のクローンが居たとしよう。年恰好記憶全く同じだが、同時に2体が同じ場所に存在する事はできない。世界は非対称性を帯びていて、場所、存在が占める位置が異なるという事は個を区別する決定的な要素である様に思えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
場所、ですか。

確かに人類70億居ますが、どれもが同一の場所には居ませんよね。

同じ思い(意志)を抱くことはできても、厳密に言えば、個々によって微妙に差があると思います。

お礼日時:2020/11/07 18:05

肉体は感知器・脳は発信器脳は関係です


心がクオリアなら「心と言う感覚」の誘因の一つは肉体と言う感知器からの感知情報(経験情報含む)です
「心の有様」によっても肉体に違和感が生じることもあります
よって「肉体と心」は「一体関係」にあるのです
それぞれを区別して考えるのは必ずしも賢明では無いと思います
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

どうやらそのようですね。

お礼日時:2020/11/07 18:02

「心」は「クオリア」でしょう。

「心感」
因みに「クオリア」は脳科学等の認知科学で研究されていますが、「クオリア」が発生するその理由については科学で解明されていません。
「クオリア」それ自体が物理的に説明できないからです
「クオリア」が脳作用によって生じると科学的に言えるのは確かですけどね
「意思は無い。意思があるように錯覚している」
上記はあくまで私個人の考えです
何故そのように考えたのか?
「選択」・「判定」どちらも「意思に深く関わっている脳作用です
「一定の自由度」で複数の選択肢からいずれかを選択する。
これを機械で行おうとすれば「乱数値」を用いての「擬似ランダム」で行うしかないのです
端的に言えば「一定の自由度」で複数の選択肢からいずれかを選択するとは「適当にサイコロを振る」と言う事です。
脳作用は機械的作用です
よって脳作用においても「一定の自由度で複数の選択肢からいずれかを選択」するに「適当にサイコロを振る」ようにしていると考えられます。
脳作用においての「適当にサイコロを振る」とは「不確定性原理」による「ゆらぎ」の事です
これは遺伝子の「表現型ゆらぎ」に通じる現象です 
「脳作用のゆらぎ」によって脳は常に適当(ランダム)に選択・判定していると考えられます
潜在意識下で「脳作用のゆらぎ」によっても適当に「選択」・「判定」それぞれの結果を健在意識の「私」に伝えます 
脳は「完全主義的な性質」を有する事から・選択・判定それぞれの結果に対してそれを送る側・送られる側どちらも「適当」を嫌うのです
「適当」を嫌うこそ「適当ではなく意図的」に選択・判定したとアピールするのです
私はこのアピールこそが「意思」だと考えています
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
科学的な視点からの回答、深く感謝申し上げます。

クオリア、、、聞きなれない言葉ですが、まだ科学では解明しきってないのですね。

でも、まぁこの宇宙の無限大に等しいような広大さを考えたら、人智では半永久的に解明できないと感じております。

 他の方も仰ってますが、自分自身の肉体を形成する細胞ですら兆の単位で存在しているそうですが、我々は、この身体の中の状態を完全に把握しきれてません。せいぜい、健康診断の数値で判断したりするぐらいで、1つ1つの身体の器官の動きなど意識してませんからね。

 そう考えると、宇宙というのがある種の意志(心)のようなものを持っていたとしても、人間と同じように、いちいち宇宙に散在する星々1つ1つの事など関知してないと思われます。

本当に不思議です。

お礼日時:2020/11/07 18:02

No.9です。



十界は以前述べた。

復習:【十界】

・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁楽界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。⇒声聞、縁楽二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。

この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。

■この『十界』というものは、『法界』とも言い生命の奥底にあるものです。これが縁に触れ瞬間瞬間変化していきます。それが『心』の状態となります。


>肉体と心はそれぞれ別の存在なのでしょうか?

仏教では、『色心不二』といい、色法(肉体)と心法(心、精神)は一体である事を説いています。
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この回答へのお礼

度々の掲載、感謝いたします。

とても深いですね。
自分は宗教アレルギー的なものがあって(親が新興宗教に入信して散々な目に遭った)、他人の信仰の自由は尊重すれど、全く関心を持たないようにしてました。

 宗教は人類の歴史と共に切れないものであることから、やはり、きちんと勉強が必要だと今更ながら痛感しております。

 確かに言われてみれば、心と体は密接な関係ではありますよね。
心が病んでしまった自分は、昨年、人生史上最高のデブに成り果てました。
とても醜い外見になりました。
→うーん、もっと本当は深い部分があるのでしょうけど、勉強したいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2020/11/07 17:56

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