
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
今と違って農民には教育が行き渡っておらず 江戸時代になるまでは 算術を知らないものが多かった。
だから 買い叩かれたり 騙されたり といったことも多く 実際に商いをするのは村落のまとめ役だったりすることが多かった。
年貢米が定量制である場合は 不作の時は地獄であり 豊作の時は楽になり 金銭の蓄えも増える。
年貢米が変動制の場合は 不作でも豊作でも一定割合で取られるので 不作でも死ににくいが 金も豊作の時は安くなるので 収入も増えにくかった。
江戸時代より 戦争がなく 百姓が餓えない時代に於いては 定量制で貨幣での納入が有利であり 戦争が多く 飢饉や災害が多く発生する時代に於いては 変動制の米での物納の方が有利と思える。
早速の御回答ありがとうございました。
社会に状況により良し悪しは左右されるのですね。
平穏な時代には貨幣での納入が、不穏な時代には物納が良かったのですね。
No.9
- 回答日時:
この下のサイトには、次の説明があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC …
貫高制
税制では、通貨の単位である貫を尺度とする貫高制が採用されていた。室町幕府では15世紀から守護や国人の所領の規模を貫高という単位で表しており、貫高を基準として徴税を行っていた。各地で荘園制が解体するにつれて、戦国大名も貫高をもとに軍役や年貢の基準を定めるようになり、領内の把握と権力強化のために検地を行った。貫高制のもとでは貨幣での納税が求められたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難だった。このため戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた。貫高制と検地は戦国大名の支配を強化したが、農民の年貢減免を求める紛争や、欠落(かけおち)と呼ばれる逃亡の増加を招いた。
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「貫高制のもとでは貨幣での納税が求められたため、農民の負担は荘園制の時代に比べて増した。農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難だった。」のならば、「百姓にとって、年貢を米での納入との方が、貨幣での納入とで、よりは楽」だったのでしょう。
元々は、米での納税の他にも、いろいろの賦役が課されていたのだし、こっちが良い、あっちは止めてというような希望や選択を農民(百姓)が出来ることはなかったでしょう。
中世
治承・寿永の乱によって源頼朝が鎌倉殿となり鎌倉幕府を開くと、鎌倉殿に臣従した武士である御家人をこれまでの郡司、郷司、荘官に代えて地頭に任命した。彼らは御家人としては鎌倉殿に奉仕し、地頭としては従来の郡司、郷司、荘官の任を引き継いで、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕した。この体制下で荘園と公領の軍事衝突は収束を迎えた。荘園と公領は前代に引き続き名田に分割編成され、百姓はこの名田の名主に補任(ぶにん)されて年貢(ねんぐ)、公事(くじ)、夫役(ぶやく)の納入責任を負った。名主百姓はさらに小百姓、小作人、間人(もうと)といった領内下層民に対する支配権である名主職を有し、これを世襲した。
御家人、地頭などが、米の収入も必要だが、運搬や汎用性・流通性の高い貨幣も必要だとしたときに、A(収入をすべて米で得て、必要な貨幣を自分の手で米と交換で得る)、B(収入を、米の物納と貨幣での納税とで、適宜分けて得る)、C(収入をすべて貨幣で得て、必要な米を自分の手で貨幣と交換で得る)の3択で決めるのならば、Bで、適宜状況などに応じて可変にするのが、収納側にとっては有利でしょう。 "トータルは変わらない"のだとすれば、収納側に有利な方法は、供出側には不利な方法ということでしょう。
個々の農民や地主、有力百姓にしても、相場ものである米と貨幣の交換で有利にやれる可能性はとても低いでしょう。
平安期の末でも、鉄器、農具、容器、衣料などは、自作は出来ないし、他の地域からの産物を得るには、物々交換よりは、貨幣を媒介する商取引、商人や市場を利用している方が多かったハズです。 そのようなことがあったから、武士は武具や各種物品、衣料、食品、馬などを得られたなどを得られたのでしょう。 貨幣は、武士でも、貴族でも、官人でも、職人や商人、百姓、漁夫、木こりや炭焼き、僧侶や神人にとっても、「お宝」だったのでしょう。 農民にとって、米納や賦役を課せられる方が、お宝の貨幣を納めないとならない方が、大変でしょう。
貨幣納と強要させられ、貨幣がない場合には、借金して納税することになるし、結果、貨幣の貸し借りが増え、返済できず、夜逃げしたり、土地を代位返済で取り上げられたりが、農民だけでなく、領主、御家人や貴族などにも増えたみたいです。
中世の金融
利子付の貸借を利銭や借銭と呼び、債権者は銭主、債務者は負人や借主と呼ばれた。12世紀から13世紀にかけては借上と呼ばれる金融業者が活動して、13世紀以降は土倉や酒屋が現れた。借上や土倉の経営は、荘園の代官請負が基盤であり、初期の金融は副業的なものだった。荘園の領主が、幕府や守護から課せられる負担や自然環境の悪化により破綻すると、荘園領主が担っていた地方金融も崩壊した。このため地方の借り入れ需要は都市部の土倉が受け入れ、祠堂銭という外部からの資金運用も行われる。14世紀には京都の土倉は300から400軒が営業しており、荘園経営ではなく金融業が主軸となって身分も上がるが、15世紀には都市部の債権者と地方の債務者という格差が拡大した。室町幕府が衰退するまでは、そうした業者が徴税委託機関である納銭方も行って利益を得た。当時の利率は年利6割や7割2分が多く、それ以上の場合もあった。債務証書の一種として借書があり、債権者が寺社に寄進したり、債権者が財産を没収された際には借書が第三者に寄進されていた。
早速の御回答ありがとうございました。
銭での納入は、百姓が現金化するのに不利だったのですね。
引用文によると<農民は穀物を現金に変える必要があるが、地元の市場は大名らの管理のもとにあり、農民に有利な価格では販売が困難だった。このため戦国期における米価は安定もしくは低落を続けた[注釈 35]。>そうですね。
また、銭が行きわたることは、社会混乱をもたらすから、為政者にとっては、旧来の米にての納入が良かったのですね。
No.8
- 回答日時:
コメは気候や水の問題で日本中どこでも採れたのではない。
ヒエやイモしか採れないところもあった。そんな地域ではヒエなどを売ったカネでコメを買って年貢にせねばならなかった。だからカネで納める方が便利だった。
幕末には「年貢の半分は現金で納めろ」と命ぜられた地域がある。こういった地域は幕府領に多いようだ。幕府領では年貢は農民の責任で江戸まで運ばねばならなかったから手間がかかった。現金の方が手間がかからずラクチンだったかもしれない。
年貢は収穫量の4~5割とよく言われるが、「高(たか)」の4~5割というのが正しい。江戸中期以降で言うと年間の総収入から見れば1割ぐらいにしかならない。これは「高」の数値が実際の生産量よりかなり小さいために高率に見えるだけのこと。「高」の数値には灌漑設備などインフラ整備に伴う増産が考慮されていないし冬の生産が含まれていない。これらを考慮すれば江戸中期以降の年間総生産量は「高」の数値の4~5倍あったと思える。だから「高の4~5割」は「年間総生産量の1割程度」にしかならないのだ。
早速の御回答ありがとうございます。
1.<現金の方が手間がかからずラクチンだったかもしれない。>
2.<「高の4~5割」は「年間総生産量の1割程度」にしかならないのだ。>のですね。感じとしては、税率は低かったのですね。
No.6
- 回答日時:
百姓は、現在の農協の様な、農作物収集機構を有して居ません。
庄屋を通じ、殆どの収穫米を収奪されます。
百姓は僅かに残った土地や、裏作で、麦を作ったりして、飢えを凌ぎます。
実際に、米が換金作物として流通したかは、定かでは有りません。
早速の御回答ありがとうございました。
<米が換金作物として流通したかは、定かでは有りません。>のですね。
百姓が銭を手に入れられたか不明なのですね。
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