
No.10ベストアンサー
- 回答日時:
きさらぎさんおはようございます。
中山剛史『後期ヤスパース哲学における「包括者論」の倫理的・実践的意義』https://ci.nii.ac.jp/naid/120006868065のp.3より引用します。「後期ヤスパースにおける「包括者」とは, 究極的には「存在そのもの」・「本来的な存在」・「存在の根拠」の別名であり,」です。質問者は包括者です。それは回答者が現れる根拠です。質問者に自由はありません。回答者に自由があります。質問を先に進める自由があります。質問からの自由もあります。No.5さんがいう変換は動いてない主観と別の動いている主観を繋げます。歩いてる人は走ったことが無くても走っている人の景色を予想します。分裂しないです。回答者同士の変換もあります。No.5さんと変換を使って主観を繋げました。有機屋舞15さんおはようございます。
岡野利律子『プロティノスの一者と西田の絶対無』https://ci.nii.ac.jp/naid/130007814246のp.6より引用します。「プロティノスの場合も、一者からのヌースの発出は、一者が「自己自身へと振り返ってみる」、即ち自己の<内に>向かうことにによって行われる。」です。回答者は複数います。質問者は一者です。回答者が7日間現れないと質問が閉じられます。
こんばんは^^
大変おもしろい回答をありがとうございます。
そして、とても良いタイミングでリンクの提示、ありがとう。とてもサンクスです。←語彙なし
いやー、これは捗るわ。
No.31
- 回答日時:
★ (№30お礼欄) 命令系統とは情報の上下、俯瞰些細に行き来する道であり、それは人に由来するのでは無く状況に由来する。
☆ ですね。
★ 需要が先か、意志が先か。
前後関係としては、初めは需要が満たされなければ意志は生まれない。しかし一度意志が生まれたなら、後は自走的に仕事は回ってゆく。
★ 現実には、29番のお礼にも書きましたが、仕事は自由から生まれるものでもある。
☆ そうなると 文字通り《自由の道》です。
そこまでに到る過程は 自由への道として前史になるかも知れません。
無への帰還を果たすところの《命令系統の非人格化――状況由来の確立――》を なおまだ試行錯誤して実現させてゆかなくてはならない段階にあるとすれば。
前史を終えて 自由の道なる後史に入るなら 鬼に金棒 孫悟空に如意棒であるかも分かりません。
(こういうことを言いたくなる癖がわたしにはあります)。
まぁ、ここら辺はプラモデルみたいな話で、現実を超簡単なモデルにして話してるだけなので、ほとんど有効性はないと思います。
言葉は身になってなんぼなんで、それこそ鬼に金棒、悟空に如意棒、そしてバターに醤油ですよ^^
あれ?最後はいらなかったかな?w
それでは今回の質問は、ここらへんにして終えたいと思います。
お付き合いありがとうございました。
No.30
- 回答日時:
№27で こう考えました:
○ 情況の論理 ~~~~~~~~~~~~
実存者があゆむ道には おのおのの意志行為にもとづく人間関係だけではなく それらを社会の構造として超えた自然史過程としての成り行きがある。
そこでは 人びとの思想や思わくから自由に成った(自由であるはずだと思われる)事実の論理が見いだされてもよい。
実存者は これにしたがう。(これが むしろ無への帰還に呼応するのではないか)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そうしてここでは 《情況の法則》なる命題を提示したメアリ・パーカー・フォレットなる人物を紹介します。
▲ コトバンク:フォレット ~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%8 …
世界大百科事典 第2版の解説
Mary Parker Follet 1868‐1933
アメリカの女性政治・社会思想家。ボストンに生まれ,マサチューセッツ大学およびケンブリッジ大学卒。
(あ) 心理学的成果や社会科学の業績を産業レベルに採用して,産業における人間関係についてのいくつかの概念を提起した。
(い) その研究内容は,民主的集団の基礎をなす〈同意〉を,各個人の意見の相互作用を通した集団心理の持続的過程である,とすることから出発し,
(う) 闘争の建設的利用を意味する〈闘争的解決〉の最善の方法としての〈統合〉,
(え) さらに服従感を伴う権限に対して〈状況の法則〉といった四つの動態的概念を創出した。
▲ (ibid.:状況の法則) ~~~~~~~~~~~
https://kotobank.jp/word/%E7%8A%B6%E6%B3%81%E3%8 …
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
law of the situation
(お) 職務を公的に遂行するための権利である権限の源泉に関して M.フォレットが主張した法則。
(か) 従来の権限法定説,権限職能説に対して,権限は人間の相互関係からではなく状況から発生するというもの。
☆ brage註:
組織の権限体系といった公式の取り決めからも・そ
していわゆる非公式の人間関係からも 権限やそれ
に準じるチカラが生じているとは考えられます。
この状況(情況)は 個別の情況だけではなくそれ
らが絡まり合った各段階での全体情況を意味するの
は 当然だと思われますが 《自由》論としては
やはり世界の全体情況としての自然史過程を言うと
するとよいかと思います。
《理性の狡知》さえが生じ得ると思われる歴史過程
です。
(き) この法則によると命令の授与は1人の人間が他の者に向けて行うのではなく,両者が関係する状況をよく研究して,一致してその状況から命令を受領することになる。
(く) その際に命令の授与は人間からなされないため非人格化することになる。
☆ brage註:
この《命令の非人格化》が 飛躍して言って 《無
への帰還》です。そして 自由への道ではないかと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
命令系統は必要性から生じる社会機能の一つであり、また、仕事は技能では無く場によって行われる。
お話を聞いてこの様に考えました。
社会においては、その立ち位置によって様々な視点が存在する。高いところにある者は俯瞰は出来るが些細は見えない。低いところにある者は俯瞰は出来ないが些細が見える。どちらの立場が偉いという事はなく、この二つの立場は大切さにおいて等しく無ければならない。そして、命令系統とは情報の上下、俯瞰些細に行き来する道であり、それは人に由来するのでは無く状況に由来する。
場についてはまた、例えば、
狩の腕(職能)があっても狩場(職場)が無ければそれは発揮されない。狩場(職場)があり、狩(仕事)の必要性があれば狩の腕(職能)は次第についてくる。
個人の資質や能力差よりも、この様な場の限定による力の方が、仕事を説明する上では重要になると思われる。
これは自由とは対義的に、或いは両輪に語られる仕事観であり、例えば必要性の無いところには仕事は生まれないとする立場でもあります。
しかし、現実には、29番のお礼にも書きましたが、仕事は自由から生まれるものでもある。
需要が先か、意志が先か。
前後関係としては、初めは需要が満たされなければ意志は生まれない。しかし一度意志が生まれたなら、後は自走的に仕事は回ってゆく。
無への帰還とは形而上学から新たな地平を臨む所であり、その意味で、意志の先にあるものと言うことができると思います。
端的に言うと、無へ帰還を果たした時、無は背中側にあるという事です。
No.29
- 回答日時:
余談から入りますが、スズメさんの「怒り」は実はここ一年くらいでよく感じていたことですが、おそらく私と同様の怒りであると思われます。
つまり、表層的な部分に対する差別意識です。これは、その人の自由を著しく阻害するものであると思います。改めて話題にするかもしれません。もう一つは、誰でもそうなのかもしれませんが、中途半端な理解のものはすぐ忘れてしまうということを自覚しています。若いころからです。それプラス、記憶力の減退(トホホ)もあります。
ですから、無礼にお感じになることもあろうかと思いますが、どうかご容赦の程。
さて、前回の回答の続きですが、自由というものは秩序というものとセットであることが前提であるべきであると思います。
自由の束縛というものは、個人の主体性、創造性を奪い、人間を不幸な状態に陥れます。
また、無秩序は社会の混乱を引き起こし、結果、個人の不幸をもたらします。
従って、古来人類はこの二つの両立が真摯な人たちによって模索されてきたわけですが、近年に至り、個人の自由がどんどん認められるようになるにつれ、自由と秩序が対立していると認識されるようになったと思います。
つまり、秩序とは自由を束縛し、奪うものである。しかし、社会の秩序は保たれねばならない。だから、個人の自由は必然的に制限される。
制限されていると感じれば、その分、いやあるいは何倍も不幸を感じるものなのかもしれない。
この矛盾をどう解決するか?
それは、個人の自由というものを、社会の秩序の枠内に設定したらよいと思うのです。
考えてみたら、これは至極当然の考え方であると思います。人のものを奪ったり、人を傷つけたりすることが自由であるならば、自分もそうされるということになりますから。
で、このことを国法によって縛るのではなく、自らの規範とすべきである、と。
カントはこのことを、「格率」という言葉で説明しようとしていると理解しています。
以上、自由ということについてお答えしましたが、主題は「無への帰還」ですので、ご希望には沿えていないかもしれません。何か思いついたらばまた投稿しようと思います。
社会においては、人の享受する自由は増進されなければならない、私はこの様に考えます。この自由とは、具体的に言うところの時間です。余暇とも言えます。
人がもし一人で生きていくとなると、多大な労力が必要で、その労力を補えない者は死に、たとえ補えたとしても今を生きるだけで精一杯の者がほとんどになり、また、食料や水や土地は奪い合いになるでしょう。
この様な状態に自由、余暇なるものは存在しない。余暇が無ければ思案する機会もなく、形而上的な自由についての思索もなく、精神の自由も生まれない。
現実の私たちは社会を形成し、一人で為し得ない事を為し、生きる事に余暇を加えて来た、、、はずだった。何故はずだったかと言うと、その余暇の在り方、使い途が未だ判然とせず、浪費、消費、収奪されている現状があるからです。
文明を築いたはずが文明の歯車となり、安寧を得るための社会は闘争の場となり、格率は失われ、内的道徳に目覚めず、人生の意味を見出さない。これらは余暇(自由)の使い方、使い途を知らないから起こることだと思います。もちろん全てがこの様な不幸で満ちているのでは無く、地域や時代によっては、社会は平穏で、格率高く、内的道徳は当たり前であり、人生の意味の充足を知る人々が暮らす様も見られる。余暇(自由)を有意義に使うからだと思うのです。
余暇は、使えば使うほど余暇が増える様な使い方をすべきです。これは一人ではできないことであり、社会の中において循環させる事で可能になると思います。
例えば、原始社会において、余暇を使って薬草の研究をしたとします。その薬草によって村民100名の寿命が10年伸びたなら、余暇によって更なる余暇、時間を生み出した事になります。
或いは余暇を使って稲刈りの道具を作る。その道具によって収穫作業が半分の労力で済む様になったなら、これも時間を生み出しています。
更には余暇によって思索し、道徳や法についての知識を得ることで、村のいざこざが減り、社会運営がスムーズになったとします。これも平穏と言う余暇を生み出しているわけで、無駄な闘争のコスト(この様に言うと冷たい印象を受けるかもしれませんが)を減らしています。補足に続く。
No.28
- 回答日時:
質問者さんの指摘通りです。
誤記です。エネルギーには「不確定性」と言う性質があります。
不確定性を端的に説明すると
「未来が確定しない性質」です。
エネルギーは未来が確定しない為に「同じ状態を取り続けられない」のです。
「同じ状態を取り続けられない」事からエネルギーは静止状態を取れないのです。よってエネルギーは「常に動的」なのです。
不確定性によって動的であっても予め決まったパターン(確定されたパターン)は取れないのです。そのためにはエネルギーがどのよう状態を取るのかははっきりしないです。このはっきりしない様を「ゆらぎ」と言います。
エネルギーはゆらいでいる為にエネルギーはあらゆる状態を取ります。あらゆる状態の中に隆起と言う状態が有ると言うことです
なるほど。おもしろいですね^^
エネルギーがとるあらゆる状態、この概念は興味深いですね。隆起せる状態が私どもの見る物質世界だとすれば、他の状態が無数にあり得るわけで、それこそ宇宙の種類とか数が取り沙汰される前置きの様にさえも思われます。
また、エネルギーが常に動的であると言うことで、時間がそこにもあることが示唆されており、この時間がある故に個別の宇宙や宇宙のバリエーションなどがあり得るのが想像されます。
No.27
- 回答日時:
1. ★ 人はいかにして自由になるのか
☆ おそらく一応の結論は 有限・相対なる人間が 無限・絶対なる何ものかと一体になることだと言えるのでしょう。
1-1. 部分的にしろ さえぎるものが無い状態を――無限・絶対にあやかって――あたえられるものとすれば。
2. 無限・絶対は ここで ふたつの種類に分かれるようです。:
A 《有る》派:ヤスパースの言う《包括者
(ダス・ウムグライフェンデ)》
プロティノスらの言う《一者(ト・ヘン)》
Ω 《無い》派:西田幾多郎の《絶対無》
3. 自由論の再応の問い求めとしては 無限と有限との一体性がどのように――人間の側から推し測って見て――成っているか? どういうウゴキがあるか? だと思われます。
3-1. ただし このウゴキは あくまで無限・絶対の側から有限・相対へのハタラキカケとしてあると考えられます。
3-2. 有限者の側からのいかなる行為によっても 無限者は――心が動かされるというように影響を受けたとしても 支配されることはなく―― 左右されないゆえ。
4. 《無限と有限との一体性》が――それは 有限なる人間として捉えるのであるが―― どう成っているか?
A‐1 イメージとしてミケランジェロの『アダムの創造』なる絵画でのように 無限なる神は 有限なるアダムに手を差し伸べており あたかもアダムの指先といまにも触れなんとする状態にある――かのように一体である。
Ω‐1 無限は 神性ないし霊性として あたかもニュートリノのごとく 有限なる人間存在をつねに突き抜けて飛び交っている。相対存在なる人間にとって 無限は――それと一体でありながら 人間の感性や知性にとっては―― うつろ(空・虚)であり無である。
A‐2 無限・絶対は 霊性として(つまりは 何も分からないかたちで) 有限・相対の世界を覆い包んでいる。《神の遍在》説・《万有内在神論(panentheism)》あるいはスピノザ《神即自然(deus sive natura)》説。
5. ① [A‐2]説つまりあたかも《一切衆生 悉有仏性》論であっても その《内在霊性》は 人間に――ふつうは――分からない。
② また [A‐1]説の《いまにも触れるという状態》であっても それは あくまで主観としての感覚や心性においてである。
③ だとすると [Ω‐1]説のような[Ω:《無い神》派]に――現象についての論理としては――軍配が上がるかも知れない。
――つまり 自由論は 《無への帰還》という問題であると。
6. もっとも [A‐1]説は 必ずしも[Ω]派に移行しないで 広義の《実存思想》なる道をすすむことができる。つまり 《有る神》か《無い神》かを もう問わないという前提を敷く行き方である。
6-1. 実存哲学は 無限ないし霊性を問わないが そのあたかも現象だけの存在であってもそれは 開かれている。閉じられていない。とすれば その窓のようなところで――そもそも《無限と有限との一体性》を出発点としているからには―― 何らかの緊張関係を持ち得る。
6-2. 意志行為の歴史的な一回性という実存のあり方とその行方にともなうあたかも《きよらかなおそれ》を帯びても おかしくない。
6-3. 実存者は 世界にあって世界のあたかも現象ないし事実をこそ問うているだけのようであって その自然史過程としての縁起共生をすでにささやかなヒトたる存在の一身に受け留めて――したがって どんな思想や思わくからも自由に――そのつどおのれの一歩を推し進める。
6-4. 事実の論理 という意味での情況の論理 にしたがう。
No.26
- 回答日時:
エネルギーには実体がありませんので実体が無いという意味でエネルギーは無です。
エネルギーは実体はありませんが数多の状態がとれ状態毎に応じて何らかの事象・現象として現れます。(例エネルギーが隆起シタ状態が物質です)
エネルギーは実体が無いがあらゆる状態が取っている
それをイメージしやすくする為にそれをムラと言い換えました
エネルギーを色として捉えた場合無という色しか表現出来ません。その無という色にムラというなります。
エネルギーが取っている状態を上記を踏まえ無と言う色のムラによる無の模様としました
情報と実体とは互いに相関関係にあります。
情報とは視覚化(具現化)された状態
実体とは視覚化(具現化)されていない状態
です
よって
無と言う色のムラによる無の模様が視覚化(具現化)されていない状態が情報
無と言う色のムラによる無の模様が視覚化(具現化)された状態が実体
です
視覚化(具現化)されていない状態(情報)を視覚化(具現化)された状態(実体)にする働きを「色をつける」と表現しました
なるほど。エネルギーが隆起した状態が物質と言うのは分かりやすかったです。そして、具現化されていない情報を具現化された実体にする働きのもとは何になるのでしょうか?つまりエネルギーが隆起する原因です。それが揺らぎにあたるのでしょうか?
ご回答中ほど、
>情報とは視覚化(具現化)された状態
実体とは視覚化(具現化)されていない状態<
これは、反対(誤記)ですね?
具現化されていない情報、具現化された実体ですね?
ありがとうございます。
No.25
- 回答日時:
コメントをありがとうございます。
あらたな思考実験です。
★ (№23お礼欄) ~~~~~~~
ブラジェさんの言うもう一つの別の方法、縁起共生史観が生ずるとするなら、それは自性の達成のさらにその次の話であるか、縁起共生によって自性における立ち返りが起こるか、と言う話になってくると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 自性の達成の連続といった見方をこころみます。
★ 縁起共生については実際に歩む道の中での出来事であり、
☆ これですね。まさに このつねに進行中の自性なる動態です。
★ それを一般化して論じた場合に縁起共生観、これに時代を勘案した場合、史観という事になるのだと思います。
☆ 自性なる動態が 縁起共生の過程そのものである・・・か?
思考実験ですから 思い切って言うなら 宇宙全体の縁起共生の過程が わが自性の動態――まぁ おのおのの人生といったことにしかならないでしょうが――であると。
世界と一体であるなら あたかも無への帰還ですよね!?
(こういう言葉のあそびをする癖が あるんですよ)。
つまり、縁起共生の道を歩くことはその人々の個別具体化であり、分化相違化でありまさしく動態なのだけれど、常に無への回帰・帰還が同時に進んでいると言う状態かも知れません。無一性(これも言葉遊びに取られるかも知れませんが)ということです。
正直ここまでは考えていませんでしたので、何とも言えないのですが。
No.23
- 回答日時:
№22です。
コメントをありがとうございます。☆☆ お怒りにならないで
☆ は 《あは!》説というあまりにも軽い考えを回答としたからでした。
★ 梵天(ブラフマン)ブラフマー
☆ ブラフマーを使うべきと思いつつ アートマンと合わせるためにブラフマンを用いています。
さて:
★ お釈迦さんはブラフマーの一者性を識知していた
☆ あるいは ダルマ(法)そしてその人格化たる法身・法身仏を知っていた。だけども 無我(アン‐アートマン)と唱えたからには ブラフマンを出せなかった。おそらく ブラフマニズムによる身分制に反対したという姿勢からだと思います。
ここから:
★ 人性と、神性は異なっていて うんぬん
☆ という神観ないし思想のあり方を採らざるを得なかった。
わたしの考えるには この思想としての姿勢が その神論をふくむ哲学の表現をややこしくしているのではないかと思われます。
たとえばちょうど:
★ 私としては、神性でも人性でもなく、自性を問うて、この生を生き切りたい・・・
☆ というふうに《自性》を切り口とする表現法を推し出されています。
しかしながら これもけっきょく後世のブディストにとっては アートマン(霊我)のことであり それを独自に言いかえた如来蔵=ブッダター(仏性)のことにほかならない――とわたしには考えられます。
キサラギさんは むしろ哲学としての独自の方法論としてなのだと思われるのですが。
▲ (ヰキぺ:自性清浄) ~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7 …
心は自性として(本来、生まれつき)清浄であるが、偶然の過失によって汚れているという考え方
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ただし これについては 見解が分かれるようです。分かれ方が 示唆に富んでいるとも思えます。
▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
(あ) パーリ増支部・・・光り輝いている(光浄、清浄)とは白紙のような状態と解される。・・・
(い) 唯識説・・・自性清浄は真如、法界を意味する。
(う) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部、上座部大寺派などはこれを認めない。
(え) 大乗仏教はすべてこれを承認する。
(お) ただし、『般若経』は清浄を「空」の意味に解し、広く法が縁起、無自性、空であることを示すものと解釈した。
(か) これに対し、如来蔵系の理論では、自性清浄心を如来蔵、仏性の名で、如来の法身と同質の無為なる存在として絶対化し、これを心性と呼んでいる。また、『大乗起信論』はこれを本覚とも呼ぶ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 無我説は けっきょく梵我一如なる神観と同じだとすれば (か)の見解が 無理のない普遍性を理論立てるのに最も成功していると見られます。
むろん この《自性》をめぐっては 方法としてふたつに分かれるはずです。
神観ないし神論として 梵我一如説と内容を同じくする仏仏一如説――つまり(か)の見方――において捉える。自性清浄心=ブッダター。本覚思想も入りますね。信仰の道でしょうか。
そして ヤスパースではありませんが・つまりキサラギさんは独自の行き方なのだと思われますが 自性を――霊性としてというよりは――《人性》として捉えて推し出す方法論でしょうか。
後者は:
★ 無への帰還
☆ といった命題をかかげる。
わたしの考えるに もし《神性》を避けるとすれば いまひとつ別の方法があるかと思います。
神性を避けるからには歴史の見方に《摂理》という言葉をも避けて そうではなく単純に 世界の自然史過程〔におけるわれわれの中のわれ〕といった視座です。縁起共生史観のごとくですが。
(全体のまとまりがわるいのですが このような形にてお願いします)。
大変よく理解されていてありがたい限りです。
お見通しですね^_^
神性も人性も、定まる所から顕現するところまで、考えの内で距離が想定されます。
例えば、魂や霊の故郷としての神とすると、魂や霊は現状、故郷から離れています。
只の人間と真人間にしても、その間に距離があります。
自性を語る時にも、立ち帰りということが語られるけれど、実際に立ち返りは一歩も動かないまま行われるのであって、実質距離はありません。自分を見失うと言った時も、近すぎる故に自分は見失われてしまう。
人が視覚に頼り、視点にこだわるので、言わずもがなのそのことを忘れてしまう。
自分のよるべが自分であると言うのは言葉にすれば当たり前ですが、実際には自分を見失っている人も多いのあります。
ブラジェさんの言うもう一つの別の方法、縁起共生史観が生ずるとするなら、それは自性の達成のさらにその次の話であるか、縁起共生によって自性における立ち返りが起こるか、と言う話になってくると思います。
縁起共生については実際に歩む道の中での出来事であり、それを一般化して論じた場合に縁起共生観、これに時代を勘案した場合、史観という事になるのだと思います。
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この岡野さんの論文、質問に直接的に関わっていそうでめっちゃ気になるんですが、英語しかないのでしょうか?
pdfは日本語でした。良かった^_^
no.10さんからいただいたpdfあらかた読みました。
緻密な論理描写は流石だなと。
プロディノスから西田へ、歩が進んでいくような過程が記されており、ぜひ皆様にも読んでいただきたいなと思いました。所々虫食いの様に描写の精度が乱れて不明瞭な言説の箇所もありますが、論理描写に拘らなければならない姿勢上それも致し方なしでしょう。
素晴らしいリンクでした。
ありがとうございます。
そして増進した余暇を、何に使うのか?要するにやりたい事をすれば良い。知識や技術を増進して更なる自由を獲得するために使っても良いし、哲学をしても良い。旅にでも良いし、遊んでも良い。無論、余暇の不足している地域や人へ投じても良い。
ここで二つの問いが生じると思います。一つは、
やりたい事は何か?これは各人が問う所です。もう一つは、いつ満足するのか?です。これは、道(みち)の問いであるでしょう。完成とは何かという事です。
皆さま、ご回答ありがとうございました。
今回はこのあたりで締めようと思います。