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明智光秀が織田信長を攻めた理由として、光秀は室町文化を大切にしていたのに信長が室町幕府滅ぼしたからとテレビで聞いたことがあります。その説は有力なのですか?また、この他に光秀が信長を攻めた理由として、有力な説がありましたら教えていただきたいです…

A 回答 (8件)

ジガジサンですが、このようなぼんやり考えて出てきたアイデアというのは結構当たっていることが多いんです。


『やっちゃえ(ニッサン)』説ではなく『状況説』と名付けよう。もし10年後とか20年後とかに、光秀が討った理由の最有力がこの『状況説』になっていたら、状況説のアイデアを引き出した質問をしたのはオレなんだぜと自慢して良いですよw
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そのような簡単な理由は、実は無いのです。



江戸時代には、それが分からなかったので、いじめられて恨みをつのらせたのだろうという怨恨説のウソっぱちでっちあげエピソードが沢山つくられ、それらしく語られてきました。今では全部がまっかなウソ話であることが分かっています。
室町幕府が~とか、天皇が~とかも、そういうものの1つ程度の、まったく有力ではない説の1つです。

なんとなくですが、全国統一の目途がついたころに、信長と後継の信忠の2人を同時に討つ絶好の機会と、それに充分な兵力があり、それに気づいた光秀が、神が『やっちゃえ(ニッサン)』と言っているように思えたのではないでしょうかね。
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家康の接待役を下ろされて、中国攻めの秀吉を助けにいけと言われたときのやりとりで、堪忍袋の緒が切れた説を支持。


 光秀としては、足利将軍より朝廷の立場の方を重視したでしょう。信長と朝廷の間に何かあったら、強い動機になります。
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じっさいのところは、光秀本人の霊に聞くか


ドラえもんにタイムマシーンでも貸してもらって確認しに行くしかしないとわかりませんが
信長だけでなく嫡男信忠を同時殺害しているところからある程度理由が分かるかと思います

怨恨、室町文化関係・・・ 無関係ではないかもしれませんが
保身 が一番の理由ではないでしょうか?

光秀が信長に仕え始めたころは、秀吉のような農民出身のものでも役に立つものであれば重用していました
しかしながら、晩年は信長の身内や、古くからの家臣を重用する傾向が顕著になっていたのです(そのことは、信長晩年の身内に対する領地配分にも表れています。光秀たち新参の家臣団が命懸けで切り取った領地を身内などに再配分しているのです)
また、秀吉が頭角を現し、織田家家臣団ではNO1の働きをしていました
これらのことから、新参で、最近は目立った活躍をしていない光秀は
そのうち信長から切り捨てられるだろうと感じていたはずです
ならば、そうなる前に信長をやってしまおうと思うのも理解できます

怨恨とか、自分の理想とかけ離れたことをしている信長を止めるために信長を殺すというなら、信長だけを殺せばよいはずです

しかしながら、光秀は、信長と信忠がわずかな兵で京都に同時滞在するタイミングを選んで変を起こしています
これは、信長だけを殺しても、信忠が無事ならば織田家は信忠のもとに結束して必ずや光秀を討ち取るであろうことが明らかなため
信長と信忠を同時殺害して自分は生き残ろうと考えていた と見るのが自然です

で、あるひ 秀吉の援軍に向かうために軍勢の出陣準備を整えていたところへ急遽、信長・信忠の護衛小数での京都同時滞在の情報が飛び込んできます

このような事態はお膳立てしようとしてもなかなか実現しませんが
科学の発達していない時代、こんな偶然が起きれば
神仏が光秀に「変を決行せよ」と言っているように感じたかもしれません

そこで、おもわずこのチャンスに飛びついてしまったということのようなのです
その証拠に、いつもならことを起こす前に入念に準備を行う光秀が
本能寺の変の時に限っては、ことを起こした後に
細川などの諸将に味方に付くよう要請する書状を送っています
(反信長勢力にはあらかじめ書状を送っても、企てが信長にばれる気遣いもないでしょうから、急遽 の感が否めませんよね)

このまま信長に仕えていても、先ゆきあまり明るくないと思った光秀が
思いがけず舞い込んだチャンスに、保身のためつい飛びついてしまった
これが真相のような気がします
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No.1回答者: t_fumiakiに一票です。


巷に流布しているのは、江戸時代に造られた偽文書だそうです。
明智光秀研究の第一人者の小和田哲男静岡大学名誉教授の弁によれば
明智光秀に関する記録文書は本当に少なく、年齢、出生地も、
確定出来ず推定の域だそうです。

福知山市に有る明智神社に行って、知識豊富な学者武将の明智光秀が、
大恩有る信長を何故殺したのか勝手に思いを馳せてみました。
①頭脳明晰な人が落ち入る考え違い、俺なら信長に取って代われる、
 大将と参謀では、器が違うのを忘れて・・・
 美男武将陶晴賢も同類。
②信長の油断。甲斐の武田家を滅ぼして、残るは毛利だけ、そこから
 嫡男信忠と京都に泊まるという失態をした。
③主だった信長配下の武将は越後と関東、秀吉は中国に展開、
 残りは秀吉の援軍と四国攻めの準備中。
これだけ条件が揃ので、頭脳明晰な明智光秀なら、取って変わろうと、
考えたのでは・・・
信忠が安土か岐阜に居たら、明智光秀は歴史に残る大罪は犯さなかった
のではないかと、勝手に推察してます。

何の根拠もなしに、勝手に推察するのも歴史の楽しみの一つでは
ないかと。
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明智光秀が信長を討った理由は正確にはわかっていません。


以下、主な説を下記サイトから引用します。

----以下引用

野望説
古くからある説の一つが、天下を狙っていた光秀の野望説です。これは変の直後から語られ、『太田牛一雑記』でも語られています。光秀は本能寺の変を起こす前に京都・愛宕神社で連歌会を開催していますが、そこでの発句「時は今 雨が下しる 五月哉」は、謀反の意を示していたという見方もあります。

怨恨説
江戸から明治にかけて主流だったのが怨恨説です。これは信長から横暴な扱いを受けていた光秀が恨みを募らせて謀反を起したという説で、古典史料には遺恨を裏付ける逸話が多くみられます。ただしこれらの史料は一次史料ではないため、信ぴょう性に乏しいとも考えられているようです。

黒幕説
光秀の謀反とされる本能寺の変ですが、実は黒幕がいたという説もあります。後に天下人となった秀吉や家康と共謀していたという説や、朝廷が光秀に信長暗殺をもちかけたという朝廷黒幕説など、かなり多くの説が存在します。しかし矛盾点も多く、信ぴょう性には欠けるようです。

四国説
近年注目をあびているのが、2014年に岡山県の林原美術館と共同研究する岡山県立博物館が公表した書状を発端とする四国説です。その書状は長宗我部元親のもので、信長の命令に従うことを告げる手紙でした。
本能寺の変が起こったのは6月2日ですが、この日は丹羽長秀らが大坂から四国征伐に出陣する予定だったともいわれています。元親と関係が深かった光秀は、信長の四国征伐を回避したかったのかもしれません。

【本能寺の変:真相諸説】なぜ明智光秀は織田信長を討ったのか
https://rekijin.com/?p=32703
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そんな高度の怒りでなく、日ごろバカにしてきた付けの爆発と聞く。


信長自体が田舎人の成り上がりで、光秀の上流階級の礼儀作法で
朝廷と繋がっていたと聞く。

光秀もトノトノと頭を下げていたが、何事につけ本心は馬鹿に
しているだろうとの思い込みや、部下に対して見せしめのため
殴るけるが日常だったらしい。

降伏してきた敵軍を、全部なで斬り命令で虐殺させたりの
信長は、恨みでも殺されて良かった、自業自得と思います。
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説は全て憶測に基づくもの。



そういう事は、明智光秀本人に聞かない限り、誰にも解りません。
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