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学校で自由民権運動について調べてこなければならないのですが、その中で「華族制度」というものが分からないのですが、これはどういうものなんでしょうか?

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A 回答 (5件)

基本的に皇室の藩ぺいとして公家、旧大名、維新の功臣などを任用したもので旧組織の温存と論功行賞の結果生まれたものです。


皇室の縁者は宮家として別格でした。  いずれも年金や恩典など優遇を受けました。
そしてこれらが構成したのが貴族院で衆議院を掣肘する役割もありました。
封建制度の名残りで第2次世界大戦の敗戦後廃止されました。
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華族というのは、基本的に貴族です。

大名等の上流階級が主な対象でしたが、明治維新の功績で華族(貴族)になった人物も多数存在します。私の先祖は子爵でした。
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こちらのサイト


http://wolfpac.press.ne.jp/index.html
も分かりやすいかと思いますよ。

また、新人物往来社という出版社から、歴史読本という月刊誌が発行されています。
そのなかでも、
99年10月号(99年08月24日発売)明治大正昭和天皇紀
01年03月号(01年01月24日発売)華族・宮家~名門の肖像
02年05月号(02年03月22日発売)華族・皇族の写真
03年04月号(03年02月24日発売)華族134年の真実
04年05月号(04年03月24日発売)大名の末裔
04年10月号(04年08月24日発売)300藩大名夫人の幕末維新
あたりをご覧になれば、「華族」というものがどういうものだったか理解しやすいかと思います。
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明治2年から、1947年まで存在した、制度です。


↓参考になさってくださいね。
公爵・候爵・伯爵・子爵・男爵にわかれています。
偉い?順に、「こうこうはくしだん」と覚えたものです。
はじめは500人くらいだったようですが、廃止時には、900人余りに増えていたそうです。
今でも、「あのお宅は、元子爵家だから」などと言う人がいますよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
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「華族制度」をそのまんまキーワードにして検索すればかなりの事がわかるのですが、少しでも調べてみましたか?



Okwebでも
>何らかの課題やレポートのテーマを記載し、ご自分の
>判断や不明点の説明もなく回答のみを求める質問は、
>マナー違反であり

としており、削除対象です。

勉強、宿題は自分でしてこそ、ためになります。
自分で調べて、それでも分からない事があったら、そこを明記して再質問しましょう。その時はきっと丁寧な解答がつくことでしょう。
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Q知り合いに元華族の人いますか?

どのカテにしようか迷ったのですが、やはり多くの人の回答を欲しいことと、調査による資料というより、実際に知ってる人に現状を教えて欲しいことでこのカテにしました

皆さんのまわりで、元華族の家柄の方はいらっしゃいませんか?

新憲法発足時に華族(爵位を持った人)は889人だったそうです。
華族制度存続時にも経済的に窮乏し、爵位を返上する家庭もあったそうですし、また戦後は没落華族なんて言葉もあったと聞きました

しかしもちろん多くの華族家では、その潜在的資産や人脈をもって一般庶民とは異なる環境であった家も多いと思います

有名なところでは細川元首相や県知事のような家もありますね。

皆さんのご存知の、元華族の末裔の方はどのようにしていますか?

細川さんや政治家のように公的立場の方なら、出来れば今の稼業や経済状態、元はどこのどのような家系の方かもお教えください(差しさわり無い範囲で)

私人と見られる方なら、もちろん個人のプライバシーに関わらない範囲でお願いします

もちろんご本人が子孫って方のお話も大歓迎です

Aベストアンサー

知り合い、と言えるかな?
大学の先生にもと華族の方がいました。
正確にいうと「もと華族のお嬢様と結婚なさった」方ですが、日本史の先生をなさっていました。
華族生まれの奥様は京都で、家宝を守ったり礼法を教えたりして暮らしておられたと思います。

あと、有名かもしれませんが、女優の久我美子さんって旧華族ですよね。デビューするとき「家名を汚す」と大反対されたそうです。

今気がつきましたが、華族の方のことはなんとなく敬語で書いてしまいますね(笑

Q板垣退助は「自由民権は大切である」という思想をもって自由民権運動を起こしたのですか?

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由民権というテーマとは関係がないですよね。

ということは、征韓論政変による下野直後にはじまった「自由民権運動」というのは、
板垣達にとって単なる政治的な地位を得るために政府を攻撃する手段でしかなかった、ということはないのでしょうか。

それとも板垣は元から「民衆に自由と参政権を保障するべきだ」という思想の持ち主で、
もし征韓論政変がなかったとしたら、明治政府の中枢という立場からそのような整備を進めていこうと考えていたのでしょうか。

権利を求める運動なのだから「政治的地位を得るための攻撃」で当たり前で、
そのことにより自由民権運動の評価が下がる、というものではないと思いますが
運動と板垣本人の思想との繋がりが気になったので質問しました。

板垣退助は自由民権運動で有名です。
自由民権運動といえば、日本史教育では「日本の民主主義発展のさきがけとなった」といった好意的評価をされてる印象があります。

しかし、板垣自身は明治維新直後は政府の要職についていて、下野したきっかけは征韓論政変です。
下野翌年に「民撰議院設立建白書」を出したことで有名な愛国公党のメンバーも、同じく征韓論政変で下野した人たち(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣)が多いみたいです。
征韓論政変自体は、政策の衝突、もしくは派閥争いでしかなくて、自由...続きを読む

Aベストアンサー

板垣退助は自由民権運動の象徴みたいに思われていますが、
同じく指導的な立場の民権家で、
自由党の機関紙「自由新聞」で先鋭な理論を展開した馬場辰猪からは、
厳しく批判されています。
明治十四年十月に自由党が誕生。翌十五年、改進党の結成。
このころまでは自由民権運動は上げ潮でした。ところがです。
自由党の結成からわずか半年ほどのちに、
党首の板垣が「ヨーロッパに行く」と言い出した。
結成されたばかりで、党が政治問題に忙殺されているこの時期にです。
一年ちかい一般的な視察と観光に終始したその遊の費用はどこから?
政府からでした。
藩閥政府は自由民権運動に弾圧と懐柔をくりかえしたのですが、
板垣の外遊もそうした懐柔策の一環だったのです。
ヨーロッパ滞在中にすでに自由民権運動から隠退する意向の板垣は、
帰朝歓迎会の席上で、突然、
自由党は解散したほうがよいという趣旨の演説をしました。
結成から三年、自由党は解党しました。

萩原延壽「馬場辰猪」を参考にしました。

Q華族令について

華族令について

ズバリなのですがなぜ華族令で持って軍人を〔華族〕にしたのでしょうか。
有力な政治家を華族にしたのはこの人たちを貴族院の議員にして政府の意見を反映させようとしたのでしょうけれど・・・
ご存知の方が居たら教えてください

Aベストアンサー

華族は、旧公家・旧将軍家・旧大名家・旧大藩家臣家・神職・僧侶などの伝統華族と、明治維新以降軍事・政治・経済・科学などで功績を立てて取立てられた新華族があります。華族創設の第一の目的は、皇室の藩屏として、皇室を支える事でした。新人物往来社の歴史読本「華族近代日本の新名家」(1993年1月号)に華族1000家の全一覧が掲載されています。貴族院の事も解説されています。同じ出版社の「明治大正昭和 華族事件録」(千田稔)も、華族が起こした色々な事件が解説されていて、面白い本です。

Q明治15年 自由民権運動の講演会

明治15年4月6日板垣退助が、岐阜で刺客に襲われる事件がありますが、同じ年に大阪でも講演会があったと聞いた事があります。
そのときの日付、場所、参加人数を知りたいです。

Aベストアンサー

もし、正確に知りたいのであれば図書館で明治時代の新聞をマイクロにしたものがありますので、それを探せば載っているかもしれませんよ。

マイクロを閲覧させてもらって探すことが出来ます。

もし最寄の図書館にて探すことが出来なければ、レファレンス担当者にお願いすればある程度まで調査を協力してくれます。

御参考までに。

Q華族と

戦前、華族が事業の失敗などで破産する事はあったのでしょうか?
そういった場合、爵位は剥奪されたりしたのでしょうか?

華族が犯罪を犯し、有罪が確定した場合は爵位の剥奪などはあったのでしょうか?


今でも旧華族同士、霞会館などで親交があるみたいですが、旧華族の方は英国貴族の様に働かなくても資産が潤沢で、趣味で仕事をしているような方が多いのでしょうか。

Aベストアンサー

破産しなくても華族の体面が保てない場合は自ら爵位を返上したというたくさんあります。(公家出身の興福寺の院家が還俗して男爵位をもらった南都貴族と呼ばれる華族にはもともと財産が無かったために体面が保てず爵位を返上したという何件かの例があります。また清水徳川家も確か爵位を返上しています。)
また、もともと公家や大名だった家では、爵位は家の伝統に与えられているので犯罪を犯した場合でも後継者に爵位を譲って隠居してしまえば家の爵位は残るという例もありますが、明治維新その他の功績で爵位をもらったいわゆる新華族の場合は爵位を剥奪されたという例もあります。
華族といってももとも資産が潤沢ではなかったという例も多いですし、戦後のいろいろなことから没落した家もたくさんあります。ただ一部の大名家はうまく資産を残していまも裕福という場合もありますが。

Q自由民権運動

中3です。
自由民権運動とは、一言で言うとどのような運動なのでしょうか。

Aベストアンサー

一言で言うならば
「明治時代に行われた、国民の自由と権利を求めた政治活動」です。

Q華族の生活について、お勧め本を紹介してください

私はマカオ人で、今は日本語を勉強しているが
ゲームの関係で日本の華族に興味を持ち始めたです
明治と大正時代の華族の生活をもっと詳しく知りたいです
その時代の華族の女性や子供の生活を詳しく書かれた本を読みたいです。


アマゾンでちょっと調べましたが、華族関係の本はたくさんありすぎて
どれがいいかさっぱりわかりません。

私は華族についてはただ基本的な概念しか持っていませんので
できれば、初心者でもわかりやすい本を紹介していただけたいです

Aベストアンサー

現代の日本人の大半も、華族のことはほとんど知らないと思いますよ。

アマゾンをご覧になったのでしたら、その中でわかりやすそう、読みやすそうな本を選ぶと
この2冊でしょうか。
女性や子供の生活についてでしたら、2冊目の本の方が詳しいのではないかと思います。

「明治・大正・昭和 華族のすべてがわかる本」 新人物往来社
「華族令嬢たちの大正・昭和」 華族史料研究会

ゲームの関係? どんなゲームなのか謎です。

Q皇族・華族・元華族の庶民的な所

タイトルの通り、皇族・華族・元華族の庶民的な所を教えて下さい。

自分の知っている所で言えば、
・お下がり(お古)を使いたい、といった発言やその様式
・「斜陽/太宰治」に見られる、「おにぎりは、人の手で作ったからおいしいのよ」という庶民的な食べ物だと思っていたおにぎりを食べている発言など。
これらを見たり聞いたりして和んでいるのですが、これ以外にもありましたら教えて下さい。

確か天皇陛下は儀式とは言え、皇居での田んぼに田植えをしているらしい、という話しは伝聞で聞いたのですが、その姿を思うに和んでしまいます。

Aベストアンサー

 庶民的なところと言えるかどうかわかりませんが、本を一つ紹介します。
 「梨本宮伊都子妃の日記」(小学館)

 梨本宮伊都子妃殿下は、旧佐賀藩主鍋島侯爵家から梨本宮家に入った女性皇族ですが、明治中期の少女時代から昭和51年に亡くなるまで日記を書き続けており、明治・大正・昭和の三時代を皇族妃の目から見た貴重な記録になっています。
 これを読むと、皇族といえども浮世のことに喜んだり、怒ったり、怒ったときには思わず相当品の悪い言葉も出てしまったりという人間らしい面が多いことがよくわかります。また、日露戦争等においては皇族妃といえども包帯製造や、傷病兵の看護等にもかりだされたりと、それなりに多忙な戦前の皇族の生活も垣間見ることができます。

Q華族の歴史を教えてください!

華族の歴史を教えてください!

Aベストアンサー

以下、「面白い歴史 知っておくべき歴史 日本の歴史」より抜粋。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は『華族』となることが定められた。

•公家 137家
•諸侯 270家
•明治維新後に公家となった家 5家
•維新後に諸侯となった家 16家

合計427家は新しい身分層である『華族』に組み入れられた。

華族』制度の整備・序列化

華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。

明治17年(1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。

公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」のみが選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。

明治17年(1884年)7月7日、華族令が発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、本来ならば華族たりうる家格ではない者が勲功によって華族となった者をさす。「勲功華族」とも言い本来の華族からは蔑視されていた。

本来の華族は旧大名家や旧公家に与えられた身分であるが、華族の規定にあった「国家に勲功あるもの」という規定が徐々に拡大解釈され、山縣有朋や伊藤博文のように、下僕に近い身分から最上位の公爵にまで上り詰める者も現れた。これらを指して、本来の華族と区別して一般に新華族と呼ばれた。

伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。

1886年に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、大正5年(1915年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。

1889年の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。

また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。

なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を子息に譲った上で立候補した例がある。

華族制度は、貴族制度の禁止(憲法14条2項)と法の下の平等(憲法14条1項)を定めた日本国憲法の施行とともに廃止された。

以下、「面白い歴史 知っておくべき歴史 日本の歴史」より抜粋。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は『華族』となることが定められた。

•公家 137家
•諸侯 270家
•明治維新後に公家となった家 5家
•維新後に諸侯となった家 16家

合計427家は新しい身分層である『華族』に組み入れられた。

華族』制度の整備・序列化

華族制度の発足以前から、爵位による華族の格...続きを読む

Q貴族と華族??

爵位についてですが、いまいちわからないので質問します。爵位には五爵ありますよね、貴族の中で・・・これらの違いがよくわからないのでどなたか教えてください。それと、貴族はどのような人々のことを言うのか、お金持ちの人?よくわかりません。
また貴族と華族は何がちがうのでしょうか?
お願いします!!

Aベストアンサー

華族のランク分けですが、明治17年の華族令の叙爵内規に依れば
公爵11家--臣籍になった皇族、摂家(公家)、徳川将軍家
侯爵24家--清華家(公家)、徳川御三家、15万石以上の大名
伯爵76家--堂上家(大納言)、徳川御三卿、5万石以上の大名
子爵327家--堂上家(大納言より下の)、5万石以下の大名
男爵74家--御三家の付け家老、大名・公家の分家・寺社門跡

というのが大雑把な分け方になります。
その後、勲功華族といって維新の功労者、日清日露戦争の軍人、財閥当主や学者などが加わり、これらは大半が男爵になりますが、最終的には913家(酒巻芳雄氏に依れば、再受爵2人を含めて1,016人)が華族になり、終戦を迎えます。
このランク分けですが、大雑把と書いたのはお手盛りがあり、三条家は清華ですから、本来は侯爵ですが公爵に、岩倉家は子爵のはずが公爵、官軍側の島津・毛利家も公爵となり、その後は維新の立役者の大久保・木戸家も侯爵、伊藤博文・井上馨・松方正義・山形有朋なども伯爵になっていきます。
華族の資産ですが、例として賊軍故に華族に成れなかった、1万石大名の林家(請西藩)を見ますと、旧家臣たちの受爵運動に対して、年収500円(明治22年の物価水準で教員の初任給が5円)を得られる資産を確保することを条件に爵位(男爵)を認められています。
戦争による勲功華族を除けば、大名華族はこの程度の資産を持っていたようです。
先に書いた福沢諭吉は、爵位の代わりに5万円(明治33年の教員の初任給11円)を貰っており、勲功華族は財閥当主を除き、明治期を通じ、伯爵35,000円、子爵20,000円、男爵10,000円が公債として天皇から貰って、それを華族としての体面を保つ資金にしてました。

華族のランク分けですが、明治17年の華族令の叙爵内規に依れば
公爵11家--臣籍になった皇族、摂家(公家)、徳川将軍家
侯爵24家--清華家(公家)、徳川御三家、15万石以上の大名
伯爵76家--堂上家(大納言)、徳川御三卿、5万石以上の大名
子爵327家--堂上家(大納言より下の)、5万石以下の大名
男爵74家--御三家の付け家老、大名・公家の分家・寺社門跡

というのが大雑把な分け方になります。
その後、勲功華族といって維新の功労者、日清日露戦争の軍人、財閥当主や学者などが加わり、これらは大半が...続きを読む


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